Lapiz2017冬号から《編集長が行く・五日市憲法草案の故郷訪ねる》:編集長 井上脩身

―奥多摩に芽生えた明治の民権思想―
 10月に行われた衆院選で自民党が圧勝し、憲法改変問題が現実化してきた。安倍晋三首相は、選挙前に示した憲法9条に自衛隊明記するとの公約について、「国民に支持された」として、政治スケジュールに乗せようとするだろう。だが、問題は自衛隊の存在の明記にとどまらない。「現憲法はGHQの押しつけ」として2012年に公表した「自民党憲法改正草案」(以下、自民党草案)に基づく憲法に変えることへのワンステップに過ぎないと思われるからだ。自民党草案は、「国民の責務」として「自由と権利は責任と義務を伴うことを自覚」せよ、とするなど上から目線で国民の基本的人権を縛る構造だ。では、戦前の国民は自民党草案のような国家主権の憲法を望んでいたのであろうか。私(筆者)は1881(明治14)年に「五日市憲法草案」と呼ばれる私擬憲法が起草されたことを最近になって知った。自由と平等を基調とした憲法案だったという。五日市は、現在は東京都あきる野市に属する奥多摩の山あいの里だ。私は10月末、五日市を訪ねた。 JR五日市駅。新宿から立川で青梅線に、さらに拝島で五日市線に乗り換えて五つ目の終点駅である。駅前の商店街を歩くと、眼下に秋川の流れがみえる。奥多摩の山中から流れる秋川の河岸段丘に五日市の街が築かれたことがわかる。駅から西に歩いて約20分、市立五日市中学校の敷地の隅に「五日市憲法草案の碑」が建っている。1981年に設置された高さ約2㍍の石碑だ。

石碑には「五日市憲法草案抜粋」が鋳こまれた銅板がはめこまれている。その全文は以下の通りである。

45 日本国民ハ各自ノ権利ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス且国法之ヲ保護ス可シ48 凡ソ日本国民ハ日本全国ニ於テ同一ノ法典ヲ準用シ同一ノ保護ヲ受ク可シ地方及門閥若クハ一人一族ニ与フルの時権アルコトナシ
76 子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授ハ自由ナル者トス然レトモ子弟小学ノ教育ハ父兄タル者ノ免ル可ラサル責任トス
77 府県令ハ特別ノ国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ因ル者ナルカ故ニ必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス其権域ハ国会ト雖トモ之ヲ侵ス可ラサル者トス
86 民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス
194 国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス又其罪ノ事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ

この碑文の内容について後述する。いったいどういう経過でこうした碑が造られることになったのだろうか。石碑から徒歩5分のところにある「五日市郷土館」を訪ねた。 同館の解説パネルや展示資料などによると、1968年8月から翌年2月にかけて、東京経済大の色川大吉教授(当時、現同大学名誉教授)のゼミ一行があきるの市深沢の深澤家の土蔵を調べたところ、私擬憲法の草案を発見。「陸陽仙台 千葉卓三郎草」との記載があることから起草者が宮城県出身の千葉卓三郎と判明した。深沢地区は当時五日市町に属していることから「五日市憲法草案」(以下、五日市草案)と名づけられた。
五日市草案が起案された1881年、立志社の憲法起草委員、植木枝盛が「東洋大日本国国憲案」を起案している。自由や権利を規定したもので、自由民権運動の大きな成果として歴史上高く評価されているが、日本近代史の研究家である色川氏も千葉の名前は知らなかった。

色川研究室の研究員が調査した結果、千葉卓三郎は1852年、仙台藩下級藩士(郷士)の家に生まれたが、出生の前に父親が死亡、3歳のときに母親とも死別した。17歳のとき、戊辰戦争の緒戦である白河戦に出陣。この敗戦によって学問探求の道に進むことにし、漢学や医学をかじった。しかし、明治に入ってキリスト教に触れ、1873年、上京して神田で洗礼を受け、布教活動を始める。翌年、「神仏に対する不敬の罪」で投獄され、1年後に出獄。その後、日の出町(あきる野市の北隣)や八王子市(同南隣)の小学校で教師をした。

教師になる前の千葉の経歴からは五日市草案を起草するに至る啓蒙的な知識を得たように思えない。教師時代に隣町の五日市にも足を運んだのであろう。カギは五日市の歴史や気風にあるのでは、と私は思った。

討論会で民権学ぶ
五日市郷土館には、同市の歴史史料が展示されている。ここで得た五日市の歴史を簡単に触れておこう。
正保(1644~47年)のころ、五の日に市がたったことから五日市と呼ばれる民家195軒の小さな村だった。江戸の人口が増えるにしたがい、炭の需要が伸び、炭の出荷で潤いはじめる。江戸の町がたびたび大火事になったこともあって、木材の搬出が活発化し、天保(1830~43年)年間に、多摩川を使って運び出す筏取引が最盛期を迎えたという。
一方、山間地が多くて稲作に向かない五日市では養蚕も細々と行われた。幕府が諸外国と通商条約を結ぶと生糸の輸出が急増。五日市は八王子を経由して横浜とつなぐ道があることから、養蚕業が盛んになった。なかでも質屋を営んでいた内山家は1876(明治9)年の地租改正時に110町歩の土地を所有し、黒八丈といわれる特産の絹の泥染めで莫大な利益を得た。こうした豪農や豪商は、武士のものであった文化や教養を身につけようと、江戸の文化人を招いた。そこに吹きこんできたのが文明開花の風。合わせて啓蒙の波がこの山あいにも押し寄せた。
こうした空気を受けて1880(明治13)年、五日市学芸懇談会が結成された。その社則の第1条は「本社ハ嚶鳴社支社ヲ以テ名トス」。嚶鳴社は1878年、沼間守一が自由民権、国会開設を掲げてつくったもので、79年、機関紙「東京横浜毎日新聞」を発行。金子堅太郎、末広重恭が私擬憲法「嚶鳴社憲法草案」を起案した。同懇談会がその翌年に設立されていることから、当初から五日市なりの私擬憲法を草案したいとの意気込みがみなぎっていたと思われる。
懇談会の活動の中心になったのは当時19歳だった深澤権八。深澤家は江戸時代、名主として村の指導的役割を担っており、権八は啓蒙運動のなかで指導的役割を果たそう、と考えたようだ。
同懇談会は「万般ノ学芸上ニ就テ懇談演説或ハ討論シテ以テ各自ノ知識ヲ交換シ気力ヲ興奮セン事ヲ要ス」と、演説と討論を重視した。なかでも力を入れたのは討論。月3回、討論会が開催された。その議題は「深澤権手録」として記録されている。63題あり、「女戸主ニ政権ヲ与フルノ利害」「国会ハ二院ヲ要スルヤ」「女帝ヲ立ツルノ可否」などがある。また事前に会員に回状した討論議題のなかには「一局議院ノ利害」「死刑ヲ廃スヘキカ」もある。
それだけではない。「甲男アリ、有夫ノ婦乙女ト道路ニ於イテ接吻セリ其処分如何」という議題もあり、現在の議題であっても不思議でないほどの先駆的取り組みをしていたことがうかがえる。
ところで、五日市では1872(明治5)年に学制発布されると、「武州五日市小学・勧能学舎」が誕生。初代校長は戊辰戦争で農兵隊長をしていた旧仙台藩士の長沼織之丞。日の出町などで教師をしていた千葉を1880年に勧能学舎に教師として招いた。一方、深澤権八の父、名生は74年から勧能学舎の世話役に任じられる。こうして、千葉と深澤親子との交流が始まった。深澤権八の懇談会に千葉は積極的に参加し、討論を通じて自由民権の知識を学んでいったに相違ない。その結果、五日市草案として結実した。

根底に流れる天賦人権論
 五日市草案は第1篇「国帝」、第2篇「公法」、第3篇「立法権」、第4篇「行政権」、第5篇「司法権」の5篇、計204条から成っている。「五日市憲法草案の碑」に挙げられている45、48、76、77の各条は公法篇の「国民ノ権利」のなかで、86条は立法権篇の「民撰議院」のなかで、194条は司法権篇のなかで、それぞれ規定されている。

石碑は五日市草案起草100年を記念し、「千葉卓三郎の名を永久に歴史に刻み、民主主義の発展に資する」ことを目的に建立された。五日市のほか、千葉の墓地がある仙台市と出生地の宮城県栗原市にも同様の碑がある。抜粋された六つの条文は「草案の特徴をよく示している」として選ばれた。

この6条文に込められた千葉の思想はどのようなものであろうか。

45条では「国民の権利が自由」であることをうたい、「法律で(権利の)保護」すべきことを求めている。48条は「同一の法典を準用して、同一の保護を受ける」と法の前の平等を規定。自由民権運動の高まりのなか、フランスで活躍した政治哲学者、ルソーの「社会の構成員は自由で平等な単一の国民」(社会契約論)などの啓蒙思想に強く影響されたことがうかがえる。

76条は「教育の自由」と「義務教育」の規定。学生発布によって産声をあげた学校だが、各校では暗中模索の状態だ。こうしたなか、福沢諭吉の「学問ノススメ」など、啓蒙的な教材を使用する自由の保障を求めた。

77条は「地方自治」の規定。「府県の自治は各地の風俗習例によるものだから、その(自治)権域は国会も侵せない」と、ユニークな表現を用いている。五日市は養蚕の盛んな地であることはすでに述べた。一方、千葉の出身地の宮城県北部は仙台平野が広がる穀倉地帯だ。産業構造は自ずと異なる。地理的、歴史的要因が藩によって異なる明治初期の事情を意識した条文といえるだろう。ある意味で地方自治の本旨を端的に表している。

86条で「民撰議院の役割」を定めている。注目すべきなのは「国帝の起議を改竄できる」と、天皇が出した議案を変えることができる、とした点だ。民撰議院を天皇の上に置いたとみることができ、千葉が国民主権的な考えをもっていたことがうかがえる。

194条は「国事犯に対する死刑禁止」を明らかにした規定。思想、信条に関する罪を犯した政治犯を死刑にしてはならない、とするものだ。千葉が「神仏に対する不敬の罪」で投獄されたことはすでに触れた。思想、信条を貫くという人間としての尊厳を、身をもって学んだ千葉ならではの規定といえるだろう。

これら六つの条文から、「自由と平等」「人民主権」「三権分立」などをうたったフランス人権宣言にみられる「天賦人権論」を具現化した憲法草案であるといえる。それが色川氏によって発見されるまで、113年間も五日市の田舎の土蔵に眠っていたのだ。

天皇退位と女帝を規定
 五日市草案の進取性は六つの条文だけにとどまらない。私なりに重要と思われる条文を紹介する。(以下は口語で表記する)

第1篇「国帝」。植木の草案では天皇を「皇帝」としているが、千葉は天皇を国帝と呼んだ。その第6条は「皇族中男無きときは皇族中当世の国帝に最近の女に帝位を襲受させる」。いま、女帝を制度化するかが議論となり、右派政治家は「男性だけが天皇になるのが我が国の伝統」として女性天皇に反対しているが、千葉の草案では女帝を認めているのだ。
40条では「国帝が太子のために王位を辞すことについては、特別の法律により国会の承諾を受ける」とする。現天皇の退位のために今年6月、特別法(天皇退位等に関する皇室典範特例法)が制定されたが、千葉は136年も前に予言していたことになる。
51条は「万事についてあらかじめ検閲を受けず自由にその思想意見論説図絵を著述し、これを出版し、公衆に対し講談討論演説できる」と規定、表現の自由を具体的に示した。さらに、「どの宗教でも信仰する自由」(56条)、「国民は平穏に結社集会する権利を有す」(58条)、「国民の信書の秘密を侵してはならない」(59条)など、基本的人権を保障する規定も置いた。
民撰議院については「直接投票によって選ばれた代議員でなる」(78条)とし、「議員は院中で行った討論演説のために裁判に訴えられることはない」(91条)と、議会での発言について訴追されない保障を定めた。
第3篇「立法権」のなかで私の目に留まったのは「国会の開閉」規定。第141条で「国帝は国安のために須要とする時機には議会を中止し紛議する場合その議院に解散を命じる」と、天皇が解散できるとしている。現憲法では衆院の解散について、天皇の国事行為として規定(第7条)されており、安倍首相は大義がないにもかかわらず、抜き打ち的に解散した。千葉は「国安のために須要ある時機」に限って、「紛議する」ことを条件に「解散できる」としている。首相の恣意的な解散を認めなかったのだ。

「国憲の改正」については「特別会議で行う」(149条)とし、その特別会議の招集には「両議院(元老議院、民選議院)の3分の2の議決を必要」(150条)と条件をつけ、かつ「特別に選挙された代議院の3分の2以上と元老院議員の3分の2以上の議決」を要すとした。現憲法のような国民投票の規定はないが、3分の2規定を三つ設けている点をみれば、改正へのハードルは決して低くない。
五日市草案の碑のそばに説明板が立っている。2005年にあきる野市教委が設置したもので「司法、立法、行政の三権分立が明瞭に規定され、国民の権利に多くの条文がさかれるなど、自由民権思想にあふれた非常に民主的な内容であり、他の民間草案のなかでも屈指のもの」と書かれている。「おらが町」で生まれた草案への誇りに満ちみちた文章である。

現憲法に通じる自由権
 五日市草案の現代的意味はどこにあるだろうか。私が注目するのは45条の「国民の自由権」の規定。自由権を基本的人権の第一に掲げた点が重要だ。明治憲法は居住、移転の自由、信教の自由、言論・結社の自由を、法律の範囲内もしくは安寧秩序を妨げない範囲で保障しているが、総論としての自由保障規定はない。この一点をとってみても、五日市草案は明治憲法よりはるかに人権を重視していたことがわかる。
では、現在の憲法と比べればどうだろうか。
現憲法は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」(第11条)と、基本的人権の享有をうたっている。条文の表現としては五日市草案はいささか稚拙だが、「他より妨害されず、国法は保護しなければならない」としている点で、現憲法(1957年施行)を76年も先取りした形だ。
実際、郷土史家の鈴木富雄氏は「私擬憲法の精神がいまの憲法に生かされている」として、2015年、『五日市憲法草案――日本国憲法の源流を訪ねる』(日本機関紙出版センター)を上梓した。GHQの憲法案策定に際して「人権に関する小委員会」に属したベアテ・シロタが著した『1945年のクリスマス』の中の「それぞれの人(策定メンバー=筆者注)は、人権に関する理想像を持っている。私たちの仕事も、最高の理想に限りなく近づける作業だ」との一文を引用し「(小委員会メンバーは)人類が達した人権や自由の理想を掲げて原案をつくることに専念した」と鈴木氏はつづる。
その理想を千葉が明治の初めに抱いていたのだ。極言すれば五日市草案は現憲法の原型なのである。
これに対し、「現憲法はアメリカに押しつけられた」とする自民党は草案のなかで「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」と、「国のための国民」であることを強調、国家主権的色彩の濃い憲法を目指している。
だが、五日市草案によって、GHQ憲法案のはるか以前に、基本的人権を尊重する憲法案が日本人のなかで考えられていたことが明らかになった。「押しつけ憲法論」が間違いであることを証明したという意味でも五日市草案の意義は大きい。
前掲の『五日市憲法草案――日本国憲法の源流を訪ねる』によると、千葉は五日市草案起草後の1882年、明治政府が集会条例を改定して自由民権運動を弾圧したことを「浅智狭量ナル明治政府」と強く非難したという。そのころから千葉は結核を患い、83年、31歳の若さで他界した。千葉を支援した深澤権八も90年に29歳で死亡、その父名生も92年に亡くなり、五日市草案は深澤家の蔵に押し込められてしまった。彼らが長命であれば、五日市草案が早くに日の目を見たかもしれない。

郷土資料館の前にわらぶきの古民家が建っている。「旧市倉家住宅」という。190年前に建てられた平屋農家で、座敷は囲炉裏が切られている。屋根裏には蚕棚が並べられており、「江戸末期の生活様式を伝えている」として1998年、同市の指定文化財になった。
この屋根のはるか向こうに1000メートル前後の奥多摩の山並みが見える。明治の初め、東京の中心地から約40キロ西のこの山あいの村でつくられた憲法草案。農民たちの自由への渇望が生んだ最高傑作といえるだろう。その自由は戦後になってようやく現憲法で保障された。その自由を右派権力はいま、徐々にしかし着実に蝕もうとしている。
旧市倉家住宅の庭にハスが植えられている。その緑の葉が奥多摩の秋の日差しに映える。
「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス」。私は五日市草案の条文を小さな声で暗唱した。みずみずしく私の心に響く。この草案の精神は21世紀の今も生きている。いや、生き続けさせねばならない。