2018春号《西南戦争と大津事件》編集長 井上脩身

西南戦争と大津事件
―七難七福の人間ドラマ―
1月下旬、10年ぶりに三井寺を訪ねた。1100年余の歴史をもち、国宝の金堂をはじめ10件の国宝と42件の重要文化財がある西日本有数の大寺院。琵琶湖が望める立地に加えて、春は桜、秋は紅葉が境内に満ち、多くの参拝客でにぎわう観光の寺でもある。今回、時期外れに訪問したのは、NHKの大河ドラマ『西郷どん』を見ていて、三井寺の裏山にある「西南戦争記念碑」を思い出したからだ。この碑が大津事件のきっかけになったと私は考えている。大津事件は司法の独立が守られた事件として歴史教科書にも載っているが、この事件の登場人物はことごとく数奇な運命をたどり、悲しい結末を迎える。大津事件を人間ドラマとして見直してみると、「富国強兵」の掛け声の陰にひそむ明治の日本の哀れな一面が浮かびあがるのだ。ニコライ皇太子襲撃
2年前に亡くなった推理作家、夏樹静子さんの著書に『裁判百年史物語』(文藝春秋)がある。大逆事件、帝銀事件、松川事件など12件の事件が取り上げられていて、その最初が「ロシア皇太子襲撃、大津事件」。以下は夏樹さんの著述よる大津事件のあらまし。

1891(明治24)年5月11日午後1時半、40数台の人力車が大津市の滋賀県庁前を出発した。5台目に乗っていたのがロシア皇太子ニコライ、22歳。1台後ろに従弟であるギリシャの皇太子ゲオルギオスが乗っている。ニコライはウラジオストックでのシベリア鉄道起工式に臨席するため、オーストリア、ギリシャなどを歴訪し、4月27日、軍艦7隻を連ねて長崎に入港。その後、鹿児島、神戸、京都を経てこの日、人力車で大津を訪れ、三井寺をめぐり、琵琶湖を遊覧。県庁で昼食を済ませた後、京都に帰るところだった。

巡査の津田三蔵は東海道である京町通りの警備に当たっていた。ニコライの人力車が津田の手前まできたとき、津田は右手で敬礼、次の瞬間、サーベルを抜いてニコライの右真横から頭部に斬りつけた。山高帽が吹っ飛び、無帽になった頭に二太刀目を浴びせられた皇太子は、左前方に飛びおり、両手で頭を押さえて逃げだした。

ニコライは近くの商家でロシア人医官から応急手当を受けたあと、汽車で大津から京都に向かい、宿舎のホテルに戻った。頭からこめかみにかけて長さ7センチと9センチの骨に達する傷を負っていた。

皇太子が乗っていた人力車は1人が梶棒をにぎり、2人が後から押していた。津田は人力車の後右側を押していた車夫に右わき腹をつかれ、ギリシャ皇太子に杖で強打された。さらに別の車夫に両足を抱えて前に倒された。この拍子に路上に落ちたサーベルを拾ったもう一人の車夫に首や背中に斬られ、津田はかなりの深手を負った。

事件は東京に急報され、11日4時、宮中で午前会議が開かれ、松方正義首相、青木周蔵外相、山田顕義司法相らが顔をそろえた。大国ロシアが戦争をしかけてくれば、日本はひとたまりもない。ロシアの怒りを少しでも和らげるため、天皇が自ら京都に出向いてニコライを見舞うことを決断。政府としても津田を厳罰に処すことが肝要、とされた。

1880(明治13)年に制定された当時の刑法の「皇室に対する罪」(第116条)には、天皇三后(太皇太后、皇太后、皇后)皇太子に対して危害を加えた者は死刑に処す、と規定されていた。「天皇」という言葉が使われている以上、日本の天皇三后と皇太子に害を加えた場合の規定であることは明らかだ。

皇族以外の普通人に対しては、あらかじめ謀って人を殺した者は謀殺罪(第292条)として死刑、未遂ならば罪を1等減ずる、との規定がある。ニコライは負傷したに過ぎないので、津田は最高無期徒刑(懲役)にしかできない。政府は「これではロシアの怒りはおさまらない」と、116条には外国皇太子への危害も含まれると拡大解釈し、津田を死刑に処すとの方針をとった。

事件の翌日、大審院長の児島惟謙が首相官邸を訪れた。官邸には松方首相と陸奥宗光農商務相が待っていた。松方が「今は皇太子でもいずれ皇帝となる人に普通の法律を適用すれば、ロシア側の感情を害す。国家の大事を招いてしまっては取り返しがつかない。内閣は皇族に対する罪をもって死刑にすることに決定した」と述べたが、児島は「普通人の法律によるほか適条はない。内閣がいかに決議しようとも、大審院長として、法律の精神に反する解釈には断じて応じられない」と拒否。松方が「法律の解釈はそうかもしれないが、国家の大事に臨んでは、国家生存の維持を優先すべきだ」と主張したが、児島は主張を変えなかった。翌13日、児島は判事を集めて津田に対する刑法の適条について意見を聴いたところ、全員児島と同じ考えだった。

大審院の特別法廷は5月27日に大津地裁で開かれることになり、その2日前の25日、山田司法相と西郷従道内相が大津におもむき、児島や検事総長の三好退蔵と会合をもった。西郷が「法のために国を滅ぼす気か」と迫ったが、児島は折れなかった。裁判はその日のうちに審理を終え、堤正巳裁判長は謀殺未遂罪を適用し、津田に無期徒刑を言い渡した。勲章をもらった津田巡査
大津事件の13年前、内務卿の大久保利通が石川県や島根県の士族7人に紀尾井坂で暗殺されるなど、幕末から昭和まで、テロは頻発している。だが、要人を警備役が犯行に及んだこのニコライ皇太子襲撃事件はテロ犯罪のなかでも極めて特異な事件である。犯罪を防ぐ立場である津田がなぜこのような大罪を犯すに至ったのだろうか。

津田は江戸・下谷の藤堂藩江戸屋敷に生まれた。藩医である父親にしたがって伊賀の上野に移り、藩学校で漢学を修めた。明治に入って1871年、東京鎮台第3分室(名古屋)に入営。同分室が名古屋鎮台となり1等兵卒に任じられ、金沢分室に移って伍長に昇進。1877年、西南戦争が勃発すると、3月11日、鹿児島県賊徒征討別動隊第1旅団に編入され、同20日、船で熊本県日奈久に上陸。西郷軍を攻撃した際、銃弾を左手に受け、長崎の臨時病院分院で治療を受けた。傷が全治し、5月26日、鹿児島本隊に復帰し各地の戦闘に参加。8月17日、軍曹になった。9月27日に西南戦争が終結し、金沢に戻って歩兵第7連隊書記に任じられた。

西郷隆盛を描いた司馬遼太郎の『翔ぶが如く』によると、日奈久付近に上陸した政府軍は20キロ北上して小川という所に本営を置き、ここに3人の旅団司令長官を集まった。このうち別動第2旅団の司令長官は山田顕義少将。すでに述べたが、大津事件のときは司法相になっている。伍長の津田が別の旅団の司令長官と顔を合わせるはずはないが、歴史の皮肉といえなくもない。この上陸軍の中の津田がいた第1旅団は熊本城北約8キロの植木に陣取った。4月8日、熊本城で激戦が展開された。負傷した津田が長崎に運ばれたのは4月1日だからこの熊本城攻めには参加しなかったようだ。

1878年10月9日、西南戦争の軍功によって勲七等に叙せられ百円を下賜された。

この叙勲をどう評価すればいいのだろう。山村健氏の『旧軍の人事評価制度――勲章と武功認定』という論文に、西南戦争に従軍したある部隊長の武功評価報告が引用されている。この報告では伍長の戦闘参加回数が25~75回を甲、7~27回を乙、1~18回を丙とランクづけされており、部隊長は戦闘参加回数を基本に、勇敢さなどの戦闘ぶりを加えて評価したとみられる。戦闘が長引いた場合、1日を1回として計算していた。津田もこうした評価基準に基づいて叙勲されたと思われるが、甲乙丙のどれにランクされたのかわからない。同論文記載の別の部隊長によるランクづけ報告によると甲4%、乙13%、丙67%だったという。もし津田が乙以上ならかなり高い評価だったことになる。

1882年、津田は除隊し三重県の巡査になり結婚。その後警察官を辞めたり復帰したりをくり返し1890年、守山警察署に勤務した。ニコライ皇太子警護役に決まったとき、津田は「まじめに働いたので署長が選んでくれた」と喜んでいたという。署長は滋賀県警部長に「毫モ異常アルヲ見聞セズ」と報告しており、警備につくまでニコライを襲う気配は全くなかった。

ニコライ来日が公になったとき、一つの流言が日本中に広まった。「西郷隆盛が同行し鹿児島にやって来る」というものだ。

西南戦争終結後も「西郷は生きている」といううわさが流れ、「鹿児島の城山から逃走し、ロシア軍艦でウラジオストックに上陸した」とまことしやかに語られていた。西郷帰国説は「東京朝日新聞」も掲載。さらに「朝野新聞」は、天皇にもこの話が伝わり「西郷帰らば十年の役(西南戦争)に従事せし将校らの勲章を剥がんもの耶(か)」と侍従に言った、との記事を載せた。(吉村昭『ニコライ遭難』新潮文庫)

さらにニコライが長崎上陸後、まず鹿児島に行くこともこの説を裏付ける形になった。ニコライが鹿児島を訪ねた際、西郷の姿がどこにもなかったことから、西郷帰国説は全くのでたらめであることがはっきりしたが、津田にしてみれば、うわさとは思いながらも「せっかくの勲章が奪われたら大変」との一抹の不安がぬぐい切れなかったようだ。

すでに述べたようにニコライは三井寺を訪ね、琵琶湖を一望。境内の塔頭寺で円山応挙の『七難七福の図巻』を見たあと、休息所で茶を喫した。

この間、津田は同寺裏の御幸山で警備していた。御幸山には「西南戦争記念碑」が建っている。大津の第9連隊の戦死者441人の霊をなぐさめるために西南戦争終結の翌年に建てられたもので、高さ6・6メートルの堂々たる碑だ。津田も負傷しただけに、この碑にまつられている戦友への思いはあつかっただろう。そんな津田の前を2人の外国人が通りすぎていった。皇太子警護関係の者と思われた。2人は記念碑の柵のところで腰をおろし、車夫になにやら尋ねていた。その姿が津田には日本の地形を探っているように見えた。

もし2人のロシア人が記念碑のところまで来なかったら、歴史的な大事件は起きなかったはずだ。あるいは腰を降ろさなかったら、津田も「許せない」とまで腹だてはしなかったにちがいない。

津田はこの後、京町通りの沿道警備にあたり、事件を起こした。

無期徒刑の判決を受けた津田は1891年7月2日、釧路集治監に送られた。前掲の『ニコライ遭難』によると、8月末、看守長は津田の房で遺言を見つけた。機会をうかがって自殺する、としたためてあった。9月に入って、津田の健康が悪化、40度を超える高熱になり、激しい腹痛を訴えるようになった。やがて危篤状態になり9月29日、息を引き取る。三重県上野市の寺の小さな墓の下に、世間をはばかるように遺骨は納められた。

もし津田が「死刑になるべきところ無期で助かった」と思うようなふてぶてしい男だったらどうだっただろう。13年後、日露戦争が起こったとき、「敵国皇太子をやっつけようとした英雄」として恩赦を受け、監獄から出てこれたかもしれない。

お手柄車夫の浮き沈み
事件が起きたとき、ニコライが乗る人力車の梶棒を握っていたのは西岡太郎吉、車の後部右側を和田彦五郎、左側を向畑治三郎が押していた。ゲオルギオスの人力車の梶棒は藤川角次郎がとり、後部右に北賀市市太郎、左に安田鉄次郎がついていた。これらの車夫は①強壮で膂力②敏捷で忠実③素行がよい④姿勢が整う――の4条件がそろっている、として選ばれた。いずれも宮内省から送られた黒い法被に白い饅頭笠姿だった。

吉村昭は『ニコライ遭難』のなかで、事件発生時の車夫の行動を次のようにかいている。

立ちあがった皇太子が叫び声をあげ、その声にふりむいた梶棒をとる西岡が、異変に気づき、梶棒をおろした。巡査が傷ついた皇太子を追うのを見たジョージ親王(ゲオルギオス皇太子)が巡査にむかって走るのと同時に、向畑がジョージ親王と肩を並べて走った。その後から西岡、和田、北賀市、安田が駈けた。

ジョージ親王が巡査に追いつき、手にした竹杖で巡査の後頭部をはげしくたたいたのと同時に、向畑が巡査の腰にしがみつき、両足をかかえて後へひいた。巡査は前のめりに倒れ、サーベルが路上に投げ出された。北賀市がサーベルを拾うと巡査の背部にふりおろし、二太刀目浴びせかけた。先駆車に乗っていた警部が「殺してはならぬ」と叫び、巡査に馬乗りになっておさえつけ、走り寄ってきた警備の巡査に捕縄をかけるよう命じた。

この記述にあるように、ニコライが殺されなくて済んだのはギリシャ皇太子と向畑と北賀市の果敢な行動のたまものだ。午前会議で向畑と北賀市の手柄を高く評価、叙勲と年金を与えることに決まり、二人は京都府庁に呼び出された。

向畑は京都府花背村(京都市左京区)の農家生まれの38歳。北賀市は石川県庄村(加賀市)出身、33歳。ともに背が高い屈強な男だった。二人は府知事から勲八等白色桐葉章の勲章が授与され、終身年金36円が与えられた。一般家庭の1年間の生活費に相当する額で、吉村は「思いもかけぬ栄誉に二人は体をふるわせ、顔を紅潮させていた」と、その感動ぶりを表している。

彼らの栄誉はこれだけにとどまらなかった。ニコライが、神戸港に停泊中のお召し艦「アゾヴァ号」に二人を連れてきてほしい、といいだしたのだ。二人がアゾヴァ号の甲板に立つと、ニコライが危ないところを救ってくれたことへの感謝の言葉を述べた。さらに小鷲勲章をそれぞれの胸につけ、2500円の恩賞金と年金1000円を下賜する旨を伝えた。侍従から10円紙幣の束の2500円を、饅頭笠を上向きにして受けた二人の顔は青くなっていた、と吉村は書いている。

向畑は大審院の公判に証人として呼ばれた。裁判長から「宣誓書が読めるか」と尋ねられたとき「読めません」と答え、「名が書けるか」との問いにも「書けません」と返事した。このため書記官が宣誓書を読み、向畑は捺印するだけだった。「斬りかかった巡査は被告人に相違ないか」と尋問されたとき、津田の方に視線を向け「相違ありません」と答えて退廷したという。

そんな向畑にとって、ニコライから受けた2500円は、気の遠くなるような大金だった。当時、巡査の初任給は8円、政府からの年金36円ですら4カ月半に相当する額だったのだ。京都府知事は2500円を三井銀行に預金し、ロシア側から支払われる年金1000円のうち800円を積み立てて、残りの200円と政府から支給される年金36円で生活するよう向畑に言い含めた。

しかし、向畑は遊興にふけり、女義太夫を妾としてかこったりした。日露戦争が勃発してロシアからの年金が断たれてからは身を持ち崩し、紙屑拾いをしたという。少女に暴行して逮捕されたことで新聞ダネにもなり、1928年に亡くなった。

もう一人の北賀市。2500円を受け取った足で兵庫県庁に行ってその金をそっくり預け、翌日、三井銀行で為替にして京都に戻った。大審院の公判の前日、石川県の故郷に向かい、大聖寺町(加賀市)に到着。郡長、村長、区長ら約100人が出迎えた。料亭で祝賀会が催され、その門前には北賀市を一目見ようとする人たちが群がったという。さらに、金沢でも歓迎会が開かれ、その翌日には石川県庁に呼ばれ、県知事から歓迎の言葉を受けた。

郷土の誉れとなった北賀市は推されて郡会議員選挙に立候補して当選。大聖町に1200平方メートルの土地を買い、家を建てた。

北賀市の栄光も日露戦争で暗転した。ロシアから年金が送られなくなっただけでなく、周りの人たちから「敵国ロシアから多額の金をもらった国賊」にされてしまったのだ。北賀市の家には石が投げられ、白壁の土塀に「国賊」と落書きされた。北賀市の家族は村八分にされ、失意のまま1914年、54歳で亡くなった。司法の独立と政府の報復
大審院長の児島惟謙は「司法の独立を守った」として歴史上の人物になったことはすでにふれた。大審院長は今でいえば最高裁判所長官。津田を皇族に対する罪で死刑にしたい政府と、皇族に対する罪は適用できないとする児島の攻防は、実際に処断刑を決める大審院判事をどちらが囲い込めるかの戦いでもあった。

事件から1週間がたった5月18日、首相の松方が児島を官邸に呼んで面談。『裁判百年史ものがたり』によると、児島は「裁判官の職務は独立不羈。大審院長といえども、意見を述べる権限はない」と一般論を述べたのに対し、松方は「担当判事がどんな判決を下しても異存はないか」と念を押した。担当判事は堤裁判長ら7人。政府は薩摩藩出身で内閣に同調すると思われる1人と、逆に強硬な反対派の2人を除く4人を説得する作戦をたてた。

面談は個々に行われ、堤には同じ和歌山出身の農相が、ほかの3人には恩義のある司法相や文相が当たり、「津田を極刑にしなければ、ロシアから膨大な賠償請求をしてくる」などと説いた。この説得策は奏功するかにみえた。

公判1週間前の5月20日、児島と判事5人、翌21日には残る判事2人が大津に入った。児島は堤を旅館の自室に招き「裁判官の本分に立ち返り、司法の独立を貫くように」と説得。23日、堤が児島の部屋にきて「熟慮の結果、司法官の職務を全うする」と、児島の考えに従うことを約し、「ほかの4判事が内閣側にある限り、逆転の見込みはない。あと一人でも院長から反省させてほしい」と逆に訴えた。

児島はさっそく木下哲三郎判事を説得。木下は「よく考えてみると(皇族に対する罪は)外国の君主に適用すべきでない」と児島に同意。あと一人も政府方針に従おうとしたことを反省し、「普通の罪」の適用の見通しがたった。

公判の空気から児島は判決が覆ることはない、との確信を抱いた。実際、判決を決定する会議で7人全員が皇室罪の適用に反対し、一般人に対する謀殺未遂罪で無期徒刑に決することで一致した。

「司法の独立」が守られたのはおおむね、以上の次第だ。だが、後に「大審院長の地位を利用して担当判事を説得した行為は、独立の立場であるべき裁判官への不当な干渉でないか」との意見が法律家のなかからでた。現在でも否定的評価をする研究者がいる。

最高裁長官が司法判断に介入した疑いがもたれた例としては砂川裁判がある。

1957年7月、東京都砂川町(立川市)の米軍立川飛行場内民有地の強制測量をめぐって、基地拡張に反対する地元民や労組員、学生らが警察隊と衝突、9月22日、基地に数メートル入ったことが刑事特別法に違反するとして23人が検挙された。59年3月30日、東京地裁の伊達秋雄裁判長は「米軍は外国からの武力攻撃に際して軍事行動をとる可能性が大きく、戦力保持を禁じた憲法に違反する」として、全員に無罪を言い渡した。

この判決に政府は驚愕し、最高裁に跳躍上告。この際、田中耕太郎最高裁長官が在日米軍司令部のバーンズ将軍に裁判所の合議を漏らしたことが、同将軍が記録した文書が明るみに出た。『砂川判決と安保法制』(世界書院)によると、同将軍が非公式に田中長官に会った際、「裁判官全員が一致して現実的な基盤に立って事件に取り組むことが重要」と述べ、「憲法問題に伊達裁判官が判決を下すのはまったく誤っていた」と語った。

事実、同年12月16日の大法廷で田中裁判長は「我が国に駐留する外国の軍隊は憲法にいう戦力には該当しない」と判示して一審判決を破棄し、地裁に差し戻した。この判決についてアメリカ国務省は「最高裁大法廷が全員一致で判決を下したことは、多くが田中長官の手腕と政治的資質によるもの」とした。要するに田中長官が各判事を説得した力量を高く評価したのだ。最高裁長官による裁判介入の疑いがある、とみられるのは当然だ。

法律よりもロシア対策を重視した大津事件と、憲法よりも日米安保体制を上位に置く砂川事件。政府の「法律より国政」という法律軽視姿勢は同質だ。違うのは田中が政府と米軍の方針に同調したのに対し、児島は真っ向から政府に対峙したことだ。表面的に判事に説得にかかったことだけをもって、「裁判介入」という批判は、本質を忘れた形式論というべきだろう。

児島は大津事件の5日前、大阪控訴院長から大審院長に昇進したばかりだった。その翌年、児島を含む大審院の7人の判事が料亭で芸妓らと花札賭博をした疑いで懲戒裁判に付された。「司法官弄花事件」と呼ばれるもので、証拠不十分で免訴になったが、児島は大審院長辞任に追い込まれた。『裁判百年史ものがたり』は「相府側の報復的陰謀との見方が強い」と書いている。児島は71歳で世を去るまで法曹界に戻ることはなかった。

皇帝ニコライの最後
ニコライは事件から8日後の5月19日、神戸港を離れて帰国した。その3年半後の1894年11月1日、ロシア皇帝アレクサンドル三世が死去し、26歳だったニコライが即位、ニコライ二世になった。戴冠式は1896年5月26日、クレムリン宮殿で華やかに行われた。広大な宮殿にめぐらされた塀の赤壁に西郷隆盛の遺骨が埋め込まれているという愚もつかぬうわさを、ニコライ二世が耳にしたことはないだろう。その晴れの日、西郷隆盛の弟、西郷従道海軍大臣が東京のロシア公使館におもむいて新皇帝を祝った。

ニコライ二世のもと、ロシアは極東進出政策を一層強める。満州から朝鮮半島へと勢力を伸ばし、日本との衝突は避けられなくなった。

こうして日露戦争が勃発。バルチック艦隊が日本海で全滅して終戦となり、ポーツマスで講和会議が開かれた。日本は樺太割譲、賠償金の支払いを要求。ニコライ二世は「一握りの地も1ルーブルの金も与えてはならぬ」と断固たる態度に出た。結局、日本は樺太の半分を得たが、賠償金の要求を放棄することで決着した。

1914年、第1次世界戦争がはじまり、ロシアはドイツと交戦するなか、社会不安が深刻化して革命が起きた。軍隊まで革命側につき、首都が反乱軍と労働者に占拠された。1917年3月、ソビエト組織が結成され、ニコライ二世は皇帝の座を追われてロマノフ王朝が崩壊した。11月、労働者と農民によるソビエト政府が樹立、ニコライと家族はエカテリンブルグの邸宅に幽閉された。

絶望的な状況のなかでニコライの脳裏に来し方が走馬灯のようにかけめぐったに相違ない。栄光と地獄を思うとき、三井寺で見た『七難七福図巻』がよみがえったかもしれない。

『七難七福図巻』は円山応挙が36歳のときの出世作。三井寺円満院の祐常門主に依頼され、経典に説かれている七難七福を、3年をかけて描きあげた。天災や禽獣、人災や刑罰、花見の宴などが上中下の3巻に分けてリアルに表現されており、国の重要文化財に指定されている。

ニコライがこの図巻に接したとき、下巻にある貴族の大邸宅での祝宴が、次の皇帝である自分自身とダブり、幸福絶頂の思いにひたっただろう。このとき、上巻の強盗に襲われて身ぐるみはがされて殺される絵のような事態に至るとはゆめにも思わなかったにちがいない。

歴史は残酷だ。ニコライと妻や子らは1918年7月17日、邸宅でボリシェビキの一隊に射殺され、遺体は秘かに運び去られた。大津事件から7年後のことだった。人知れず建つ戦争の碑
ニコライが皇太子のときに訪ねた三井寺。大津市の中心街、浜大津から北に1キロ足らずのところに位置する。重要文化財に指定されている仁王門をくぐると受付。ここでもらったパンフレットの境内図には「西南戦争記念碑」は載っていない。御幸山に碑がある、との資料の記述を頼りに、境内西の西国十四番札所観音堂の裏手の急な石段を登った。途中、琵琶湖から比良山を一望できる展望コーナーがある。高層マンションの向こうに広がる琵琶湖。1隻のヨットが比良颪を帆いっぱいに受けてゆっくりと進んでいる。ニコライのときはマンションという邪魔なものがない。陽光にきらめく琵琶湖の景観を存分に味わったはずだ。

ここからは山道になる。倒木がふさぐ枯葉の道を10分ほど登ると台地に出た。そこに24段の石段があり、登り切ると西南戦争記念碑が屹立している。碑の表面は「記念碑」とだけ彫られている。台座に「明治十年二月西郷隆盛」に始まる碑文が刻まれていることで、西南戦争の戦死者を悼む碑であることがわかる。

この碑の前半分は高さ、幅各10センチの線路のような形のコンクリートで囲まれている。この囲いには15センチおきに小さな穴が開いている。おそらく柵の棒杭をこの穴に突っ込んだのだろう。津田はロシア人2人が柵のところに腰を降ろしているのを目撃している。このとき津田が「犠牲になった戦友の霊が眠るこの碑に尻を向けるとは」と立腹したのはまぎれもない。この穴は大津事件の端緒の現場を表しているのだ。そのころニコライが『七難七福図巻』を見ていたのは何という巡り合わせだろうか。応挙に何の責任もないが、この事件に登場する人がことごとく福から難へと落下していくのを応挙が見たらどう思っただろう。

この碑は訪れる人がほとんどなく荒れ放題に見える。西郷隆盛はNHKの大河ドラマの主人公になるほどに、幕末の英雄として今も圧倒的な人気を得ている。では、この碑に霊が宿っているはずの戦死者たちは、一体何のために戦ったのだろう。西南戦争で勲章を受けた津田にとってみれば、この碑そのものが福と難の逆転を表していたのかもしれない。西南戦争勝利者という栄光を握りつぶさんとする西郷、それを証明するニコライ護衛の2人のロシア人の不遜な態度――そんなふうに津田の感情が煮えたち、怒りのほこ先が一直線にニコライに向けられたのだろうか。

事件現場である京町通りを訪ねた。現在の京町2丁目の道端に「此の附近露国皇太子遭難地」と刻まれた石碑が建っている。道は旧東海道。幅は約7メートル。通りを隔てて碑の真向かいに、前面に格子の駒寄せをめぐらせた商家風の民家が建っている。事件後、ニコライは現場すぐそばの呉服商の家で応急処置を施されたことからみると、事件当時、こうした民家が軒を並べていたようだ。

いわば衆人環視のなかで起きた大津事件。政府が何よりも恐れていたのはロシアの怒りと報復だった。ロシアが戦争をしかけてくれば日本はもたない、と心底思っていたことは本稿で述べてきたとおりだ。それが杞憂に終わったことが、日露戦争の遠因ではないだろうか。少なくともロシアへの恐怖感が薄れるきっかけになったのではないかと思うのだ。難が福になったわけだ。だが、「大国に勝った」というおごりが無謀な太平洋戦争へと突き進み、最後は難へと反転し、泥沼の底に落ちていく。
「西南戦争記念碑」。あるいは人も国も、福と難が裏表の関係にある、ということを表しているのか。ドラマ『西郷どん』で、農民たちから慕われている西郷吉之助の満面の笑みを見ているとそんな風にも思ってしまうのだ。