Lapiz Opinion《無辜の人々の血を流すな!》山梨良平

我が国で知っていそうで知られていない国のひとつにパレスチナ国( State of Palestineがある。地中海東部のパレスチナに位置する共和制国家。国際連合(UN)には未加盟であるが、2021年時点で138の国連加盟国が国家として承認している。この国は1988年11月15日に初代大統領のヤーセル・アラファートがパレスチナの独立宣言を発表し、パレスチナ国を国号として定めた。1993年にパレスチナ自治政府が発足して、長らくイスラエルに占拠されていたパレスチナでパレスチナ人による実効支配が始まった。2012年11月にはそれまでの組織としてではなく、国家として国際連合総会オブザーバーとして承認された。

なお日本が承認していない国は台湾(中華民国)、西サハラ(サハラ・アラブ民主共和国)、ソマリランド(ソマリランド共和国)、それにパレスチナ(パレスチナ暫定自治政府がある。国家として認められないと言うことは、その国自体が国としての体をなしていない場合が大きいと思う。日本の場合、紛争当事国や平和裏に国家が成立した場合が国家と認めることになるようだ。

いま、実質的にパレスチナを代表しているハマス(スラム抵抗運動の略称)がイスラエルに奇襲をかけた。そのハマスはその本拠地をガザ地区に置く。ハマス運動は、パレスチナのスンニ派イスラム原理主義、民族主義組織であり、パレスチナ土地奪還と、パレスチナ人権保護を目的に活動している。社会奉仕組織「ダアワ」と軍事組織「イッズッディーン・アル=カッサーム旅団」を擁する。 (ウィキペディア)

イスラエルはシオニズムと呼ぶ、古代ローマ軍にパレスチナを追われて以来、世界各地に離散していたユダヤ民族が、「母国への帰還」をめざして起こした民族国家建設のための運動を指し一九世紀末から盛んとなり、一九四八年、パレスチナにおけるユダヤ人国家イスラエル共和国を建設、目的をいちおう達成した。 シオン運動ともいう。パレスチナの地に存在するエルサレムと言う町がユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって、それぞれの聖地であることが話をややこしくしてきた。第二次世界大戦後、米英はこの地にイスラエル国を設立することを認め、世界中からユダヤ人がこの地を目指してやってきた。

言い換えればイスラエルの民は古代ローマ軍に追われて以来、世界を放浪していたが4000年後の今、イスラエルに戻ったと言うわけである。しかしそこにはすでにパレスチナ人が住んでいた。そこでこの二者のにらみ合いが始まったと言うわけだと思う。

所でハマスもイスラエルも4000年の歴史の前に今更無辜の人々の血を流さなくってもと思うのは部外者だからかと思うのだが・・・。

Lapiz2023冬号《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

熱唱する桑田佳祐さん(ウィキベテアより)

ロックバンド「サザンオールスターズ」(以下「サザン」)のデビュー45周年を記念して、NHKが特別番組「MUSIC SPECIAL 45年経っても″馬鹿でごめんよ″」を9月28日、放映しました。この番組の中で、バンドマスターでボーカルの桑田佳祐さんが新曲『Relay~杜の詩』を披露。東京・神宮外苑の再開発事業に抗議する形で桑田さんが作詞・作曲したもので、時折天を見あげて歌う桑田さんのもの悲しげな表情を見ていると、エリーをしのんでいるように思いました。

岩本えり子さん著『エリー――茅ケ崎の海が好き』の表紙

サザンが『勝手にシンドバッド』でデビューしたのは1978年。そのころ、私はロックには関心がなく、サザンという名前を知っているだけでした。1985年ころ、サザンのファンという親しい友人に薦められ、テープを聞いてみました。『勝手にシンドバッド』は、茅ケ崎(神奈川県)の海岸を題材に、「江の島が見えてきた、俺の家も近い」とアップテンポにうたっています。『C調言葉に御用心』など初期の曲は総じてテンポが速くてついていけず、好きにはなれませんでした。
そんななか、スローテンポな『いとしのエリー』には引かれました。エリーに思いを寄せる心の機微を細やかに歌い上げていて、情感がしんみりと伝わってくるのです。歌いだしの「泣かした事もある、冷たくてもなお よりそう気持ちがあればいいのさ」という歌詞が気に入り、散歩中、一人口ずさんだものです。

2010年ころ、書店で『エリー――茅ケ崎の海が好き』という本が目に留まりました。著者は桑田さんの姉、岩本えり子さん。躊躇なく買い求めました。
えり子さんは桑田さんの4歳上。小さいころ、兄弟二人で自宅近くの茅ケ崎の海岸で遊び、加山雄三の家の庭にもぐり込んだりしたそうです。えり子さんはビートルスの曲を好み、弟には子守り歌のように聞かせたといいます。桑田さんの音楽センスはえり子さんによって芽生えたのです。
えり子さんはアメリカにわたりますが、1990年、帰国し茅ケ崎に戻りました。やがて、茅ケ崎の海岸に14階建て、高さ47メートルのマンション建設計画がもちあがりました。茅ケ崎付近では、海辺から約70~80メートルくらい内側を、国道が海岸に平行して通っています。国道より海側には高層建築がないので、浜辺が伸び伸びと広がり、「サザンビーチ」と親しまれています。
「大きなマンションが建つと浜辺から富士山が見えなくなる」と怒りをおぼえたえり子さん。「弟と遊んだ浜辺を壊されてなるものか」と、「茅ケ崎・浜景観づくり推進会議」(はまけい)という市民団体を立ち上げ、マンション建設反対運動をはじめました。茅ケ崎海岸から見る富士山は「関東の富士見百景」の一つとされています。茅ケ崎市民全体に運動の輪が広がり、3万もの反対署名が集まりました。桑田さんももちろん、署名した一人です。
えり子さんらの奮闘の結果、建設計画は撤回されました。ところが2008年、えり子さんはがんで亡くなりました。『いとしのエリー』には「あなたがもしもどこかの遠くへ行きうせても、今までしてくれたことを忘れずにいたいよ」という詞があります。えり子さんがずっとアメリカ暮らしをしていたこともあって、「エリーのモデルはえり子さん」と、うわさされていました。その歌詞どおり、えり子さんがほんとうに遠くにいってしまったことに、桑田さんは胸が張り裂けるおもいだったに相違ありません。
私は2010年2月、東京への出張の途中、茅ケ崎の海岸に立ち寄りました。マンション計画地には2階建ての結婚式場が建っていました。残念ながら曇っていて、富士山は見えません。反対側に視線を転じると、江の島が霞んでいます。すきではなかったはずの『勝手にシンドバッド』の曲が、私の頭の中に流れました。

結婚前の桑田さんと原由子さん(ウィキベテアより)

えり子さんが亡くなったのはサザンデビュー30周年のときでした。そして45周年の今年、神宮外苑の大木を切り、神宮外苑のシンボル、イチョウ並木のそばに神宮球場を移築するという再開発事業が大きなニュースになりました。桑田さんは、親交のあった音楽家の坂本龍一さんからその話を聞いたそうです。
桑田さんは、妻でサザンのキーボード・ボーカルの原由子さんとは青山学院大学で知り合いました。青学から東1・2キロの所に神宮外苑があり、二人にはさまざまな思い出がつまったところです。人気バンドになってからは、二人はサザンメンバーとともに神宮外苑にあるスタジオで曲づくりを行っています。外苑の森は桑田さんにとってミュージシャンとしての命の森なのです。
坂本さんは今年3月、71歳で亡くなりました。その死が桑田さんには「茅ケ崎の海岸を壊すな」といって亡くなったえり子さんと重なったのではないでしょうか。「神宮外苑を壊されてたまるか」。そんな思いをこめて歌を作ったのです。
『Relay~杜の詩』は「誰かが悲嘆(なげ)いていた」で始まります。桑田さんの嘆きの歌なのです。その嘆きは、坂本さんの嘆きであり、神宮外苑を愛するすべての人の嘆きでもあります。
神宮外苑の再開発事業にはどのような問題があるのでしょうか。本号では、編集長のコラム「びえんと」のなかで考えてみました。

連載コラム・日本の島できごと事典 その117《標的の島》渡辺幸重

烏帽子岩(マップル・トラベルガイドより) https://www.mapple.net/spot/14013240/

私が生まれた島の南西側の海に長い瀬がありました。子どもの頃「戦争の時にアメリカ軍があの瀬を日本軍の潜水艦と間違えて撃ってたよ」と聞きました。笑い話としてでした。島々の歴史を調べると、アメリカ軍や旧日本軍、自衛隊が射撃訓練で島や岩を標的にして撃った例がたくさん出てきます。なかには誤爆の例もありますが、軍隊の訓練は悲惨な戦争につながります。

戦争という非人道的な行為を考えると笑い話ではすまされません。
神奈川県茅ケ崎市の湘南の海に大小30あまりの岩礁群があります。岩礁中の大岩が赤子を抱く乳母の姿に似ていたことから姥島(乳母島)と呼ばれますが、最大の岩礁・烏帽子(えぼし)岩は地域のシンボルとなっており、サザンオールスターズのヒット曲『チャコの海岸物語』『HOTEL PACIFIC』にも歌われています。この岩は江戸時代には大筒(大砲)稽古のための標的とされ、第二次世界大戦後は1952(昭和27)年から2年間、対岸の辻堂海岸一帯が在日アメリカ海軍辻堂演習場となったことから射爆演習の標的とされました。烏帽子岩の先端が吹き飛ばされるほどの砲弾を浴び、いまも岩肌に着弾痕が残っています。
長崎県佐世保市の九十九島湾内(南九十九島)の帆瀬(ほぜ)も朝鮮戦争が始まった1950(同25)年頃、アメリカ軍が九州島側(現陸上自衛隊相浦駐屯地)から砲撃訓練の標的にした島です。島の岩頭が船の帆に見えることから帆瀬と名づけられましたが、樹木が繁茂していた面影が残らないほど形が変わってしまいました。同じ九十九島湾内のオジカ瀬は広い海蝕台に二本松が生えた岩体が乗り、浮上した潜水艦に見えることから第二次世界大戦中にアメリカ軍の誤射を受けたといわれています。
伊豆諸島の一つ・御蔵島(みくらじま)の南西約35㎞に浮かぶ藺難波島(いなんばじま)は第二次世界大戦後の1972(同47)年までアメリカ空軍の射爆演習場として使われ、爆撃機の機銃や爆弾が打ち込まれました。藺難波島はわずか0.0115?の岩小島ですが、水深1,600~1,800mの御蔵海盆からそびえる孤立した火山体で、海底も含めた体積は八丈島の半分ほどもあります。私たちには小さな岩ですが、隠された大きな体が怒りで震え、火山が鳴動する日が来るような気がします。

連載コラム・日本の島できごと事典 その116《鬼界カルデラ》渡辺幸重

7300年前の鬼界カルデラ噴火による火砕流と火山灰の到達域

直径1.5km以上の大型の火山性円形くぼ地をカルデラと言います。日本では阿蘇山が有名ですが、鹿児島県の薩南諸島には海底に東西約20km、南北約17kmの楕円形状をした陥没型の「鬼界カルデラ」があります。カルデラを作るような超巨大噴火が日本では過去15万年のあいだに14回起きたと言われますが、鬼界カルデラは日本で最も新しい巨大カルデラで、かつ過去1万年以内では世界最大規模のものです。鬼界カルデラでは、13万年前と9万5000年前にも超巨大噴火が起きたことが分かっており、7,300年前に起きた超巨大噴火で現在の鬼界カルデラができました。このとき、火砕流は海を越えて薩摩半島や大隅半島にまで達し、その地域の生物を飲み込み、当時の縄文文化を壊滅させました。また、噴煙は偏西風に運ばれて東北地方にまで達し、日本中に火山灰が降り積もりました。これらの地域や屋久島などではこのときの火砕流(幸屋火砕流)が見られます。

九州島と屋久島の間の海域には硫黄島(薩摩硫黄島)、竹島、黒島が浮かんでいます。これらを上三島(かみさんとう)または口三島と呼び、鹿児島県鹿児島郡三島(みしま)村を形成していますが、硫黄島と竹島は鬼界カルデラの北縁部にあたる外輪山で、硫黄島では今でも主峰の硫黄岳から噴煙が上がっています。鬼界カルデラの地下には流紋岩質マグマと玄武岩質・安山岩質マグマの二層構造マグマだまりがあり、次の大噴火に向けてマグマが少しずつ増え続けている可能性が指摘されています。神戸大学とJAMSTEC(海洋開発研究機構)はさまざまな方法を駆使した総合調査によって海底下100km程度までの地下構造を描き出し、フィリピン海プレート付近でマグマがつくられ上昇するまでの全体像を明らかにしようとしています。

硫黄島は火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されており、24時間体制で常時監視・観測されています。また、三島村の全陸域と海底カルデラは2015(平成27)年9月に「三島村・鬼界カルデラジオパーク」として日本ジオパークに認定されています。

図:7300年前の鬼界カルデラ噴火による火砕流と火山灰の到達域
※「海と地球の情報サイトJAMSTEC BASE」より
https://www.jamstec.go.jp/j/pr/topics/20220428/

連載コラム・日本の島できごと事典 その115《五島の悪制》渡辺幸重

幕末に完成した福江城(石田城)の大手門

江戸時代の五島列島(長崎県)には福江藩(五島藩)が置かれ、五島氏が治めていました。江戸時代初めは中国の船が多く出入りする自由貿易港で栄えたものの江戸幕府の方針によって閉鎖され、その後盛んになった捕鯨業が江戸時代後期に衰退し、風水害による飢饉も重なって藩財政が極度に逼迫するようになりました。そこで藩は領民から搾取を強める政策を取りますがその中で“藩政史上最大の悪制”と言われるのが「三年奉公制」です。それはどのようなものだったでしょうか。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その115《五島の悪制》渡辺幸重” の続きを読む