のん太とコイナ2《空中ブランコ001》いのしゅうじ 

天の川をすぎると、コイナはぽつりともらしました。
「お父さん、お母さん、弟を助けたいの」
そういえば、コイナの里にいたのはおばあさんだけでした。
さいしょにいなくなったのは弟のコイキチ。
「弟は里の山の向こうがどうなっているか、知りたがってた」
お母さんに「行っちゃダメ」とつよく言われていたのに、「探検するんだ」と出かけ、帰ってこなくなったのです。
コイキチをがしに行ったお母さんのコイシも、お母さんと弟をさがしに行ったお父さんのコイゾウも帰ってきません。
しくしく泣きながらそう話したコイナ。
「町に行けば何か手がかりを見つかるかも、と思ったの」
そして、「都会の高いビルの屋上で、こいのぼりが投げなわでとらえられた」といううわさを耳にしたのでした。
「犯人はサーカスの団長らしいの」
屋上にこいのぼりをあげて、おびきだしたらしいのです。
「コイキチは友だちがいると思ったんだわ」(明日に続く)

とりとめのない話《群青の小宇宙》中川眞須良

クリスティーナ・ローガン氏の作品

群青色。この言葉に我々日本人はどのようなイメージを持つだろう。

言葉の意味としては「濃い紫味の青」 とするのが一般的のようだが人それぞれ抱くイメージは多彩だ。海や空の青、顔料や岩絵の具の青、内面的には 古来からの日本人の心の色、更には至上の存在感の表現手段の色など広い。

今、日本人の「魂の原色」「心の深遠」とも言えるこの群青の世界を己の芸術で表現することにこだわる一人のアメリカ人女性とんぼ玉作家の存在がある。その彼女の名、クリスティーナ・ローガン。米寿を過ぎて久しい、ご存命なのだろうか。とんぼ玉作家としての知名度は高いが群青の表現にこだわる作品が多い事はあまり知られていない。この世界に詳しい人のいわゆる「ローガン評」によれば「彼女自身の好きな色と 愛する日本人の心の色とが合致したからだ・・・」とか。さらに「彼女は作品を通じて群青の世界の表現にこだわり続けるであろう・・・。」とも。

ここで彼女の作品の一つを取り上げてみると直径2cmの球体である。(制作過程上 直径3mmの空洞が中心を貫通している。地球にイメージを移すと南北両極間の空洞の地軸)

全体的には「やや薄めの紫の地に黒い線による大小の正方形(四隅に黄色のつなぎ目を配置)を整列させた網の目状の少し複雑なデザインになっているが透明感、鮮やかな色彩感、独創的なデザイン感はあまりなく他の作家の作品と比べやや複雑なデザインではあるが反面地味な印象を与える。

入手して数日後 自室卓上に置かれたこの一つのとんぼ玉、ガラス越しに午後の日差しのもとで普段とは違った雰囲気を醸し出しいていることーに気がついた。 その時の室内への太陽光線の角度と波ガラス越しの屈折状態とさらに乱反射の偶然か ワックスがけをしたような透明度、そして立体感が増し さらにとんぼ玉への入射光の一部が漏れ出したかのように群青色の光が平面上にわずかだがはっきりと映し出されていた。咄嗟に同じ条件での再現になるのではと思い、すぐ手に取り中心の穴の部分(極)に目を近づけ光の方向(一方の極)を覗いてみると逆光に反射する群青の輝きがすぐ確認でき、さらに目にピタリと近づけると色の濃淡、影の大小、手の僅かな動きに反応して浮遊する細かい粒子の波、と群青一色の世界が広がっている状態に出会うことができた。

蛍光灯、白熱球、和蝋燭の光、スポットライトと光源を変えれば、その見せる世界はまた微妙に、無限に変化する。

クリスティーナ・ローガンがこのような世界の表現に拘る作家だと知ったのは、私がこの世界を逆光の中に見つけることができた少し後のことでる。彼女のとんぼ玉ファンはこの世界をどのように楽しんでいるのだろうか。また彼女は今後もこの小宇宙をどのように旅をしどのようなメッセージを発信し続けるのだろうか。

「群青はなぜ深いか」を想いながら?。

直径2cmの玉を光に向ける毎に思う。とるに足らぬ疑問であるが・・・。

 

駅の話《北海道・駅三題》その3・片山通夫

「稚内桟橋駅跡」

北防波堤ドーム

稚内桟橋駅の北防波堤ドームは、北埠頭が旧樺太航路の発着場として使われていた時、ここに通じる道路や鉄道への波のしぶきがかかるのを防ぐ目的で昭和6年から昭和11年にかけて建設された。
このドームの設計者は北海道大学を卒業して稚内築港事務所に赴任してきたばかりの26才の技師、土屋実氏でした。土屋氏は大学で学んだコンクリート工事の知識を生かし、設計から工事の指揮まで全てひとりで行いました。延長424m、高さ13.8m、半アーチ型の波よけに古代ギリシャ建築を思わせるような太い円柱とアーチの回廊を持ち、当時としては世界でも類を見ない構造物でした。 (稚内港湾事務所)

稚内桟橋駅では様々なドラマが生まれた。1905年、日露戦争に勝利した日本は樺太の南半分、北緯50度線以南を日本領とした。樺太の大泊(現コルサコフ)と稚内を結ぶ稚迫(ちはく)連絡船が就航(1923年~1945年)した。この航路を利用した有名人に宮澤賢治や岡田嘉子がいた。
宮澤賢治は妹の死を悲しんで傷心の旅に樺太を選び、「挽歌」をテーマにして数々の作品を生んだ。また岡田嘉子は杉本良吉と共に1937年12月、厳冬の地吹雪の中、樺太国境を超えてソ連に越境、亡命した。

宗谷

1945年、戦争は終わり日本の敗戦が決まった。樺太にいた日本人は先を争って北海道へ逃げた。最後の稚迫連絡船は「宗谷」で8月24日だ。
連絡船に乗らずに自力で宗谷海峡を渡った人々もいた。主に漁船を頼った。

稚内に着くとそれぞれの行き先へ列車でゆく。この時当時の国鉄は「行き先の書かれていない白切符」を樺太からの引揚者に配布した。

現在、日本最北端の駅は稚内駅である。

※宮沢賢治:日本の詩人、童話作家。 仏教信仰と農民生活に根ざした創作を行った。
※岡田嘉子:日本及びソビエト連邦で20世紀に活動していた女優、アナウンサー。1938年にソビエトに亡命し「雪の樺太・恋の逃避行」と騒がれた。

駅の話《北海道・駅三題》その2・片山通夫

「音威子府駅」

北海道の名付け親

「おといねっぷ」と読む。アイヌ語で濁りたる泥川、漂木の堆積する川口、または切れ曲がる川尻の意味を持つ。かつては天北線が分岐する交通の要衝であり、現在も特急「宗谷」「サロベツ」を含めた全定期列車が停車し、中頓別、浜頓別、猿払、枝幸などの周辺市町村とを結ぶ路線バス・都市間バスとの乗換駅という交通の要衝。JRの特急列車の停車駅の中では、最も人口の少ない自治体で2023年7月31日時点で650人。日本国有鉄道(国鉄)、および現在の北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道中川郡音威子府村の音威子府駅で宗谷本線から分岐し、枝幸郡中頓別町・同郡浜頓別町・宗谷郡猿払村を経て稚内市の南稚内駅で再び宗谷本線に接続した。

北海道の名付け親、松浦武四郎の話をしよう。
武四郎は文化15年(1818年)、伊勢國須川村(現三重県松阪市小野江町)に生まれた。諸国をめぐり、自らが見て、聞いたことを記録し、多くの資料を残した。その記録は、武四郎が自ら出版した著作や地図を通して、当時の人々に伝えられた。そして土地の地名、地形、行程、距離、歴史を調べ、人口、風俗、言い伝えを聞き取りなど、さまざまな調査を行い、その記録は『初航蝦夷日誌』・『再航蝦夷日誌』・『三航蝦夷』などの日誌風の地誌や、『石狩日誌』・『唐太日誌』・『久摺日誌』・『後方羊蹄日誌』・『知床日誌』などの大衆的な旅行案内、蝦夷地の地図など多くの出版物を出版した。
この多くの著作は、地図製作の基本資料となり、非常に多くの地名を収録していることから、アイヌ語地名研究の基本文献ともなっている。

時代が明治にかわり、武四郎は明治新政府から蝦夷地開拓御用掛の仕事として蝦夷地に代わる名称を考えるよう依頼され、「道名選定上申書」を提出し、その六つの候補の中から「北加伊道」が取り上げられた。「加伊」は、アイヌの人々がお互いを呼び合う「カイノー」が由来で、「人間」という意味らしい。
「北加伊道」は「北の大地に住む人の国」という意味であり、武四郎のアイヌ民族の人々への気持ちを込めた名称だった。明治新政府は「加伊」を「海」に改め、現在の「北海道」となった。

参考・引用 松浦武四郎記念館

駅の話《北海道・駅三題》その1・片山通夫

【はじめに】私はかなり以前より「駅」に興味があった。朝は通勤や通学の人でごった返し、昼になる前には主婦と思しき人や旅行者が、時には夜勤明けと思える人も乗り降りしてくる。夕刻に近くなると通学の学生がどっと増える。夕日が沈んで夜がやってくると仕事を終えた人々が、そしてその後深夜まで駅は酔客の天下になる。
どこかに書いてあった。「駅」は人生の縮図だとか。また「終着駅」ともいわれる。そんな「様々な人生を見つめてきた駅」を思い出した。

「函館駅」

連絡船が行き来した函館港を見る。

函館は北海道の開拓史に残る街である。本州、青森辺りから津軽海峡を北へ渡るとそこが函館。色々な物語を生んだ街でもある。この街は北海道がまだ蝦夷と呼ばれていた頃、松前藩が治めていた。地名の由来は1454年と言うから室町時代、津軽の豪族河野政通が函館山の北斜面にあたる宇須岸(うすけし、由来はアイヌ語で「入江の端」・「湾内の端」を意味する「ウスケシ」・「ウショロケシ」)に館を築き、形が箱に似ていることから「箱館」と呼ばれるようになった。このほか、アイヌ語の「ハクチャシ」(浅い・砦)に由来する説もあるがいずれにしてもアイヌの言葉から名付けられた。

箱館は明治に函館となり北海道の玄関口だった。筆者の知り合いにこの街で写真館を営んでいる方がいる。彼の先祖は高知の出身だという。高知と言えば坂本龍馬を思い出す。彼も竜馬の大ファンだった。まるで実際に祖先だと思っていたのではないか。ある時京都へ遊びに来た。京都には幕末の痕跡が多い。彼の希望は当然竜馬の匂いをかぐことであるので、三条通りの辺りを案内したことを覚えている。
https://ja.kyoto.travel/ryoma/area02.html#spot_no01

函館駅はご承知のように青函連絡船の発着駅だった。筆者も何度か津軽海峡を連絡船で渡った。確か4時間程の航海だったと記憶する。

戦後間もないころ、津軽海峡には機雷が多く浮遊していたらしい。それを避けながらの航海だったので夜間は運航できなかった。昼、明るいうちに連絡船の舳先に監視の人を配置してゆっくりと進んでいたらしい。この話は鉄道の歴史を調べていてわかった。
きっと青森なり函館に無事入港すればホッをしたことだろう。その連絡船ももうない。青函トンネルと言う海の底を列車が通る時代になった。

エッセー《狭い日本、そんなに急いで何処へ行く?》片山通夫

トレーラー部分と分離

今号(VOL47)から始めたエッセー、第二弾は《狭い日本、そんなに急いで何処へ行く?》。

国民民主の玉木代表が、いわゆる2024年問題で「高速道路でのトラックの制限速度の引き上げ」を提案したことは記憶に新しい。なんでも現行80キロの制限速度を100キロにと言う。一見盲点を突いた斬新な提案に見えたが彼は実態を知らなさすぎる。夜間に列をなして驀進する大型トラックの実態を知らなさすぎだ。先を争って目的地に到達する為にであろう驀進は決して制限時速を下回っているとは言えない。確かに車両の性能も過去とは格段の進歩だろうとは思う。自動制御装置を取り付けて追突事故を回避できればそれに越したことはない。しかし夜間の高速道路には他の車両も走行している。特に深夜バス…。

それより運転者不足なら長距離の場合、鉄道を利用することを考えてもらいたいものだ。
運送会社も貨物駅までの運輸、翌日配達や当日配達はやめればいいだけである。以前、筆者は関西からフェリーに乗って北海道へ出かけたことがある。出発港では、トレーラーに積んだコンテナを船内に積み込んでいた。しかし船内にコンテナトレーラーを積み込むと、エンジンのついた部分はさっさと船外に出た。そして次のコンテナトレーラーを積み込む。こんなことを何度か繰り返して最後にはその数台のエンジンカーは船外に。つまり荷物を積んだコンテナトレーラーだけが船内に残り北海道まで旅をする。専門的な言葉がわからないのでうまく理解いただいたか・・・。つまり運転手は家に帰れるわけだ。

「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く?」少子高齢化が進むニッポンだ。戦時中の「産めよ、増やせよ」って言ってももう国民は踊らないだろう。国民が住みやすい、根本的な問題を解決しない限りは。

宿場町シリーズ《西京街道 福住宿003》文・写真 井上脩身

伊能忠敬の測量風景(ウィキベテアより)
一里塚跡であることを示す石碑

測量隊は10人編成

 夏の日差しが照り付ける日、福住に向かった。国道から脇道にそれて西京街道を歩く。道幅約5メートル。案内チラシ通り、街道の両側に白壁妻入りの民家が立ち並ぶ。ほどなく福住小学校の鉄筋3階建ての校舎が目に入った。通りに面して板の看板が立てられ、その上部に「SHUKUBA」とアルファベットで記されている。案内チラシによると、ここが本陣跡だ。そのすぐ近くの道路脇に「伊能忠敬笹山領測量の道」と刻まれた高さ50センチの石碑が建っている。209年前、伊能忠敬はここで一晩を過ごしたのだ。
測量日記に「古城跡一箇所」の記載がある。福住宿の北300メートルのところに籾井城跡がある。籾井氏は明智光秀に滅ぼされているので、伊能の時代は面影もとどめない古城であっただろう。ここで伊能は観測をしたのではないだろうか。
本陣から東に150メートルの所に一里塚があり、その少し先を左折すると籾井城跡だ。測量の碑に「早朝より梵天持ちの十人を従えて出発」とあり、測量は10人編成だった。梵天は竹竿の先に数枚の紙を短冊状につるしたもの。数カ所に梵天持ちを立たせ、その間に縄を張って長さを測るのだが、測量道具を担ぐ測量隊一行は宿場の人たちの目には異様に映ったであろう。
伊能はこの測量法を基本に方位観測を加えて計測した。井上ひさしは『四千万歩の男』の中で、江戸・千住宿を出てからの例として、次のように書いている。
馬の背から三脚台と「方位盤(小)」と記された桐箱を降ろす。三脚台を設置し、その穴に樫棒をさす。桐箱から方位盤を出し、その柄の部分を樫棒の上端にはめる。忠敬は小方位盤の樫棒を静かに回し、磁針の南を指す針の先が示す度数を読みとる。
小説中の記述はもっと詳細であるが、素人にはチンプンカンプンであった。『伊能忠敬の日本地図』に広島で行われた測量の絵図が掲載されている。「御手洗測量之図」と呼ばれ、伊能は黒の陣笠をかぶっている。福住でも黒の陣笠をかぶっていたに相違ない。井上ひさしは「この小方位盤は測量家としての忠敬の、いわば〈目〉となった道具である」と書いている。命の次に大事な方位盤が入った桐の箱をさながら殿様扱いする伊能に、本陣を司る山田嘉右衛門は目を白黒させたかもしれない。
福住での測量を終えた伊能は翌日、西京街道を東に進み、埴生村(南丹市)で一泊。亀岡を経て京から江戸に戻る。
第9次は1815年、伊豆七島の測量。翌年、第10次として江戸を測量して、15年に及ぶ測量を終えた。

伊能地図の最終版である「大日本沿海輿地全図」が幕府に提出されたのは伊能が病没して3年後の1821年だった。大図214枚、中図8枚、小図3枚から成る膨大な資料であったが、その正本は1873年に焼失。その写本のうち207枚が2001年、アメリカ議会図書館に実在していることが判明した。
明治になり、宿場町としては廃れていくなか、篠山と園部間を国鉄で結ぶ計画が持ち上がり、福住再興への期待が高まった。しかし1972年、計画は撤回され国鉄篠山線は幻に。福住宿跡は篠山の観光コースからはずれていて、今はひっそりとたたずむ日陰のような山里だ。鉄道の夢ははかなく消えたが、伊能地図に福住一帯が刻まれていることをもって瞑すべきであろう。(完)

宿場町シリーズ《西京街道 福住宿002》文・写真 井上脩身

京、大坂と結ぶ交通の要衝

宿場の佇まいの福住の町
「SHUKUBA」と板書された本陣跡

福住宿跡は、篠山城跡がある丹波篠山市の中心街から東に約12キロ、大阪府の北端・能勢町天王の北約2キロのところに位置し、低い山々に囲まれた盆地だ。丹波篠山市と京都府亀岡市を東西に結ぶ国道372号と、大阪府池田市と京都府南丹市園部町を南北につなぐ国道477号の交差点から300メートル東に、現在も古い街並みが残っている。
私の家から20キロ北にあり、私は上記の交差点を何十回も車で通っている。しかし、福住の街が国道からそれているため、そこに宿場跡があるとは全く気付かないでいた。20年近く前、『四千万歩の男』(講談社文庫)を読んで、伊能忠敬にいくばくかの関心を持ったというのに、伊能の足跡があることを知らないできたのである。赤面の至りというほかない。
上記の国道372号が昔の西京街道である。元は幅5メートル程度の道であったが、現在、その大半が舗装された2車線の国道になっており、かつての面影はない。篠山藩主が参勤交代で江戸に向かう際、この街道を通って亀山(現・亀岡)を経て京に出たと思われる。そうであれば、福住宿は最初の休憩地になったであろう。という先入観をもってネットで福住宿を検索した。
丹波篠山市教委発行の「宿場町・農村集落――福住の町並み」と題する案内チラシがアップされていた。以下は同チラシからの引用である。
1609年、篠山盆地の中央に篠山城が築かれた。篠山藩は篠山城下を中心とする街道を整備した際、西京街道沿いの福住村を宿場に指定。福住は京や大坂と結ぶ交通の要衝であるため、本陣、脇本陣が置かれ、2軒の山田家が本陣、脇本陣を務めた。篠山藩の御蔵所が置かれ、米蔵、籾蔵を管理する役人詰所も設けられた。農家が旅籠を兼業し、旅客を泊めていた。1899年に京都・園部部間の京都鉄道(現・JR山陰線)が開通するまで、宿場町として繁栄した。
宿場の街道沿いに商家が軒を並べており、その多くは間口が狭く奥行きが深い構造。街道に面して母屋、奥に離れや土蔵、納屋を配置。敷地を土塀や板塀で囲んでいた。母屋の基本構成は妻入り、二階建て、桟瓦葺き。外壁は白漆喰仕上げか灰中塗り仕上げで、側壁に腰板を持つ例が多い。間取りとしては3室の座敷が2列に並ぶのが標準で、篠山藩を意識して土間を京都側(東側)、床の間を篠山側(西側)にする例が多い。篠山城下町の商家に比べて間口が大きいという特徴がある。
伊能忠敬が測量のため福住に泊まったのは江戸後期の文化年間である。この後の文政年間と合わせて、江戸では町人文化が大いに盛んになった時代だ。福住にもその影響が及んでいたであろう。
先にあげた測量日記によると、伊能が草鞋を脱いだのは本陣・庄屋、山田嘉右衛門方である。日記には百姓・五郎兵衛宅の名があり、こちらは測量隊員が泊まったと思われる。(続く)

宿場町シリーズ《西京街道 福住宿001》文・写真 井上脩身

伊能忠敬の測量に思いはせる

『四千万歩の男』の表紙

『吉里吉里人』をはじめ、奇想天外な展開で読者を引きつける井上ひさしの作品群のなかで、『四千万歩の男』は綿密な調査、取材の上で書き上げた長編小説だ。主人公は精密な日本地図を作った伊能忠敬。江戸から蝦夷地に向かった第1次測量(1800年)を中心に、測量の苦労がビビッドに描き出され、読んでいて圧倒される。私が住む関西が全く触れられていないのがいささか不満であるが、最近、ふとしたことから隣町である丹波篠山市の福住という町に伊能の測量碑が建っていると知った。日本中を歩いて回った歩数、4000万歩のうちの一歩を刻んだ所というのだ。そこは西京街道の宿場町だったという。さっそく福住宿をたずねた。

第8次測量で丹波篠山に止宿

『伊能忠敬の日本地図』の表紙

伊能忠敬が日本地図を作ったことは小学校か中学校で習った。『四千万歩の男』は伊能の人物像を見事に表しているが、地図製作の全体像はいま一つ浮かんでこない。そこでまず渡辺一郎著『伊能忠敬の日本地図』(河出文庫)をひもといた。
伊能忠敬は1745年、上総(千葉県)九十九里浜の名主・小関五郎左衛門家の子として生まれた。17歳のとき佐原(現・香取市佐原)の酒造業・伊能家に婿入りし、商才を発揮したが、49歳で隠居。天文・暦学を志し、江戸に出て幕府天文方の高橋至時に入門した。「深川と浅草の距離を測れば地球の大きさがわかるのではないか」と考えた伊能に対し、高橋から「それは乱暴すぎる。蝦夷地辺りまで測れば妥当な数値が得られるかもしれない」とのアドバイスを受け、測量に乗り出した。
第1次測量は江戸・浅草を出発し、奥州街道を北上、津軽半島から津軽海峡を渡って渡島半島へ。襟裳岬から釧路を経て釧路半島の付け根(別海町)から折り返して、江戸に戻った。距離の測量はすべて歩数計測で行った。
第2次は1801年4月2日にスタート。伊豆半島、房総、仙台、三陸から下北半島の沿岸を測量。歩数でなく間縄を張って測量した。第3次は1802年、奥州の日本海側(出羽)と越後の沿岸に向かう。第4次は1803年、東海地方沿岸から名古屋を経て、敦賀から北陸沿岸へ。佐渡島に渡ったあと、上越路をとって江戸に戻る。
第5次からいよいよ西国測量。1805年、東海道を西に進み、紀伊半島をまわって大坂に到着。山陽道を下関まで西進し、山陰道を東に。若狭湾から大津に至る。第6次は1808年、東海道を大坂まで行き、淡路島を経て四国へ。帰途、紀伊半島を横断し、伊勢神宮に参拝して帰路に就く。第7次は1809年、九州東南部の測量。小倉から大分、宮崎を歩き、鹿児島から熊本へ。九州を横断し、本州内陸部から甲州街道を東に向かって新宿に至る。
第8次測量で本稿の主題である福住が登場する。
第8次を迎えたのは、第1次測量から11年がたった1811年、伊能忠敬66歳のときである。東海道、山陽道を経て、九州各地を測量し、佐世保で越年。年が明けた1813年、平戸から壱岐、対馬、五島列島をまわり、中国地方の内陸部に。松江、米子を経て岡山から姫路へ。ここで越年し、1814年、西脇、養父、豊岡、丹波など現在の兵庫県の各地を測量し、11月24日、篠山に到着した。
第8次伊能忠敬測量日記第25巻によると、篠山の最初の宿舎は追入村の本陣・喜蔵宅。その後、篠山城下・二階町の本陣・喜右衛門宅などに泊まり、三田をまわった後、再び喜右衛門宅に止宿し、4月1日、福住宿にやってきた。

(続く)

 

エッセー《鍵》片山通夫

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「鍵」とタイトルをつけても、かの谷崎潤一郎氏の長編小説「鍵」とはなんの関係もないことは最初にお断りしておく。ここに出てくる「鍵」はそのものズバリ「鍵」である。

人は生活をするうえで幾つかの鍵を必要とする。まず自宅の鍵、車の鍵、仕事場で必要な鍵、もしかしたら個人的に大事なものを入れている金庫や小箱の鍵、デスクの引き出しやロッカーの鍵など枚挙にいとまがない。

筆者は自宅とは別に事務所を持っていた。だから当然そこに入る為の鍵が必要だった。それがこのコロナ騒ぎで、事務所へ出向かなくなった。電車に乗るのも億劫になったからである。そうすれば必然的に定期券も必要なくなり、事務所関連の鍵も要らなくなった。

今まで鍵を持って出るのを忘れたことが何度かあった。とりに家に帰ったこともあり、その日は事務所へは行けなく、まったく違う方向への電車に乗って小さな旅をしたこともあった。それが事務所をたたんだら、鍵の束を持つこともなくなり自宅の鍵一本だけになった。それも家内が自宅にいるときは(まあ大抵はそうだが)そのたった一本の鍵も使うこともなくなった。そうなるとキーリングも要らなくなる。たった一本残った自宅の鍵を大事にそっとポケットに入れる。そんな毎日に一抹の寂しさが漂うのは気のせいなのか。

所であなたは鍵を何本お持ちですか?

表紙

【出版案内】北博文写真集 breath of CITY monochrome photography
日々変化する都市光景を一期一会として感じるままにファインダー内のレンズフレーム枠全体でトリミングして撮影し、自家暗室にてフイルム現像し印画紙に焼き付けています。人間が利便性を探求し、長い時間を費やして作り上げてきた都市が今や自らの生きる術を得たかのように朝・昼・晩と表情を変えながら、そこに生きる人たちの心を揺さぶり、その反応を眺めているかのような虚実的な都市の空気感を捉えていきたいと思っています。
出版社 NextPublishing Authors Press (2023/7/27)
発売日 2023/7/27
言語 日本語
オンデマンド (ペーパーバック) 117ページ
ISBN-10 4802083831
ISBN-13 978-4802083836
寸法 21.59 x 0.69 x 27.94 cm
お買い求めは  https://www.amazon.co.jp/gp/product/4802083831