Lapiz2017冬号から《巻頭言》:井上脩身編集長

 議会制民主主義は危機にひんしているのではないでしょうか。10月に行われた衆院選の結果に暗たんたる思いにかられました。小選挙区での自民党の得票率は48・2%。半数に達していません。ところが獲得議席数は218、議席占有率は75・4%です。民意では半数の支持も得ていないのに4分の3の議席を得る。マジックというほかありません。マスコミはこぞって「自民圧勝」と伝えました。裏返せば野党完敗です。いや敗れたのは議会制民主主義ではないでしょうか。選挙は民主主義の根幹をなすものです。その選挙が民意と全くかけ離れたものであれば、民主主義は土台から崩れます。いや、安倍一強が続いている現状をみれば、もう崩れているというべきでしょう。

最近、待鳥聡史京都大教授の著書『代議制民主主義――「民意」と「政治家」を問い直す』(中公新書)を読みました。同書によると、代議制民主主義は「政治家を通じて有権者の意向を反映させた政策決定を行うこと」で、「自由主義的要素と民主主義的要素の組み合わせによって成り立っている」制度です。

前段の「政治家を通じて政策に有権者の意向を反映させる」は選挙のことを指しているようです。本来選挙とは有権者が望む政策実現に寄与しそうな者を選ぶことだからです。後段の「自由主義的要素と民主主義的要素の組み合わせ」とはどういうことでしょう。同書は「自由主義的要素は、人々の自由を最大限保つことを目的とする」もので、「民主主義的要素は有権者の意思が政策決定に反映されることを重視する」といいます。

私のような凡人にはいささか難しいロジックが使われています。私は次のように理解しまいた。
政策は政治家を通じて決定されるが、その際できるだけ政治家の自由裁量を認めるのが自由主義的要素、選挙に基づく有権者の意思を政策に反映させるのが民主主義的要素。代議制民主主義は相互のバランスの上に成り立っている。

このように考えると、バランスが崩れた場合に二つの問題が起こります。第1は、自由主義的要素を強調するあまり、政治家が有権者の意思(民意)を無視して政策を実行する。第2は選挙そのものが民意を反映させる構造になっていない。この2点が政治と民意の乖離を生みだすのです。
たとえば鹿児島県阿久根市の市長は2010年、総務省が「専決処分になじまない」としている職員給与削減条例を専決処分で決め、職員給与を半減するなど、に独断で政策を実行、議会側は市長不信任を繰り返しました。「選挙で選ばれたのだから許される」という思い上がり首長の典型的なケースでした。第2の選挙構造の欠陥は冒頭に述べたように我が国の衆院選の小選挙区制にみられます。

このように現行の制度では民意が反映されないとなると、住民投票や国民投票によってその意思を実現させようとする動きがでてきます。最近では2014年5月、東京都小平市が打ちだした1・4キロの都市計画道路について、住民が「自然景観を損なう」として住民投票を請求、市長名で実施されました。投票率が35・2%と50%に達しなかったため開票すらされませんでしたが、同書は「住民投票を条例などで定める自治体は増加している」と指摘しています。

こうした住民投票のなかには、原発建設やプルサーマル導入の是非を問う形で行われたケースがあります。国や県知事、市町村長らが原発を推進しようとするのに対し、住民自身の意思によって決定しようというものです。こうした動きのなかで、住民たちは、専門家からの助言を得ながら、自分の問題として原発の在りかたを考えるようになりました。待鳥教授はこれを「熟議民主主義」と呼んでいます。
「熟議民主主義」とは素晴らしい響きをもつ言葉です。単に数の多い少ないだけで決めるのでなく、みんなで熟議して決めようというのです。ひとたび事故が起きると大変な被害をもたらす原発の場合、国民が熟議して推進か廃止かを決めるべきでしょう。原発に関する国民投票が行われれば、極めて歴史的意義の深いものになるにちがいありません。
今号では、原発国民投票の可能性を探ってみました。