2018春号《びえんと 新米記者の赤軍派事件》Lapiz編集長 井上脩身

新米記者の赤軍派事件
――よど号事件に思う――
私は大阪の大手デパートの文化教室で、文章講座の講師をしている。今年1月の講座で、Oさんが「針の莚」と題するエッセーを書いた。ある赤軍派事件の実行犯の母親の辛さ、悲しさに思いを寄せてつづった一文だ。赤軍派によるよど号事件が起きたとき、わたしは新聞社で新人研修を受けている最中だった。講義では刻々と動く事件の様相がそのまま教材になり、新聞社の仕事がいかに時間との闘いであるかを、否が応でも実感した。講義が終わると飲み会になった。話題は当然よど号事件。「北朝鮮が本当に幸せな国なのだろうか」と、その場にいたベテラン記者に問いかけたことを覚えている。平昌オリンピックに北朝鮮が参加し、女子アイスホッケーでは合同チームが組まれた。韓国、北朝鮮双方の政治的思惑が一致した一時的融和との見方が強く、民族統一への道のりは遠い。ハイジャック犯たちが北朝鮮に行く意味は何だったのか。あと2年でよど号事件から半世紀になる。

針の莚の母親
Oさんの文章を原文(誤字や送り仮名の誤りは訂正)のまま紹介する。
(オウム真理教の死刑囚の母親についての記述に続いて)過去に、同じような若者が起こした赤軍派の事件がある。私は、そのメンバーの親のことを、知人から聞いたことがある。その息子は地方の大学付属高校を卒業して、有名な某国立大学に入った優秀な学生だったそうである。
彼は浅間山荘や、よど号事件に直接関わっていなかったが、罪には問われ服役している。
母親は彼の減刑嘆願に走り廻った。知人にも協力をお願いされた。親しくしていた人であるが、世間を騒がせた罪の大きさを考えると、それはできないと断わったそうである。
母親とは何と悲しいものであろうか。決して赦されることではないし、ましてや世間の非難の目に晒されることなのに。それでも我が子のために、そうせずにはいられなかったのだろう。
彼の父親は息子を勘当した。そして自分の死に目に会うことも許さずに亡くなったと聞いた。
文章はこの後、夫と子どもを置いて家出した友人の母親のことがつづられるが、本稿のテーマではないので省略する。Oさんは広島県三原市出身。80歳に近い女性である。中学生のとき国鉄の駅助役だった父親が亡くなったため、高校に進まず隣町である尾道市の医院に住み込みで働いた。やがて大阪に出て看護師の資格をとり、後に先端医療を看板にかかげた和歌山の病院に移った頑張りやだ。ふるさとの瀬戸内への思い入れはいまも強く、故郷の祭りの思い出や、「毒ガスの島」といわれる大久野島(竹原市)探訪記などを書いてきた。

Oさんのこれまでのエッセーから、今回の「針の莚」に登場する赤軍派の若者が卒業した「地方の大学付属高校」は広島県の高校と推測した。該当者を調べてみると塩見孝也さんが浮かび上がった。塩見さんは大阪の医師の家に生まれ、戦後、母の故郷の尾道市で育っている。Oさんに確かめると、やはり塩見さんのことだった。
塩見さんは京都大に在学中にブントの活動家になる。2年生で中退したあと、共産主義者同盟赤軍派を結成し、議長に就任。1970年、「フェニックス計画」と名づけたハイジャックを計画、3月後半に実施すると決めたが、実行直前の3月15日に逮捕された。田宮高麿軍事委員会議長をリーダーとする実行部隊が3月31日、羽田から板付(福岡)に向けて飛び立った日航機よど号をハイジャックした。

緊迫感あふれる新人研修
Oさんが書いているように、よど号事件が実行される前に逮捕された塩見さんが「よど号事件に直接関わっていなかった」というのは、直接手を下した実行犯でないという意味では誤りではないが、正しいとはいえない。事件後、塩見さんはハイジャック事件の共謀共同正犯で起訴されたのだ。共謀共同正犯は刑法に規定はない。実行正犯でなくとも共謀した者は正犯になる、との拡大解釈によるもので、「罪刑法定主義の原則に反する」との見解もある。暴力団の組長を捕まえる根拠としてひねり出されたものだが、松川事件では共産党の活動家や労働運動幹部を検挙する手段として悪用された。ちなみに松川事件では、共謀の事実が証拠上崩れ、被告は無罪になっている。

話をハイジャック実行時点に戻す。よど号が離陸したのは31日午前7時33分。富士山上空を飛行中、日本刀や拳銃を手にした9人の犯人グループが操縦室に侵入、機長に平壌に行くよう指示した。よど号は給油を名目に板付に着陸。機長が犯人グループを説得し、女性や子ども、高齢者ら乗客23人が機から降りることができた。午後1時59分、よど号は北朝鮮に向かう、として板付を離陸し午後3時46分、平壌国際空港に偽装したソウル近郊の金浦国際空港に着陸。山村新次郎運輸政務次官が特別機でソウルに向かった。

山村次官がソウルに到着したのは4月1日未明である。よど号に残っている乗客が解放されるのか、が当面の最大の課題だ。日本中がテレビにクギづけになっているこの日、私は新聞社に入社した。入社式で社長がよど号事件にふれ、「社の全力を挙げて取材、報道に取り組んでいる」旨を語った。編集局長らが講義のなかでリアルタイムに状況を説明、私たち新人にも編集現場の緊迫感がストレートに伝わってきた。

3日、山村次官と犯人グループの交渉で、同次官が乗客と身代わりに人質になることで合意、50人余りの乗客が順次解放された。整理部の幹部が講義で「現地からニュースが入るたびに紙面を変える。これを追っかけという」と語った。紙面欄外の左上にある●や○、☆などの印は、記事に変更があったことを示すもので、「追っかけ(追いかけ)」という、と学んだ。それまで新聞(とくに1面、社会面)の欄外にこのようなマークがあるのに気づかなかった。

追っかけをとるのは珍しいことではなく、とりわけ選挙では当選者が決まるごとに、紙面を変えていく。こうした編集上の常識を知るのはもう少し後のことだ。

3日午後、よど号は金浦空港を離陸し、平壌郊外の飛行場に着陸した。犯人グループの目的は達し、4日、北朝鮮は「人道主義的観点から機体と乗員は返還する」と発表。5日、機長や山村次官ら4人はよど号で羽田に戻った。

以上がよど号事件のてんまつである。北朝鮮に渡った犯人グループのうち田宮元赤軍派軍事委員会議長ら3人が北朝鮮で死亡したとされ、2人が帰国(いずれも有罪判決を受け、1人が刑期満了し出所後死亡、他の1人は服役中死亡)した。現在北朝鮮にいるのは4人である。

驚天動地の米子事件
新聞社に入った私は2週間の新人研修を終えて鳥取支局に配属された。中心街を少し離れると砂丘が広がるおよそ過激な政治運動とは縁のないのどかな農村である。ときに赤軍派の動向がニュースになることはあっても、所詮はよそごと。よど号ハイジャック事件は新人研修中の、新聞編集の厳しさを学ぶ一コマに過ぎないと思われた。実際、警察担当の私は、ほとんどの日々を交通事故を記事にするだけで過ごしていた。

その平穏をぶち破る驚天動地の事件が起きたのは入社して2年目、1971年7月23日のことだ。鳥取県米子市の松江銀行米子支店に猟銃を持った男4人が押し入り、600万円を強奪して逃走したのだ。

捜査一課の部屋をうろうろしていると、課の幹部が真岡事件の新聞記事を見ていた。この年2月17日、極左組織とされる京浜安保共闘のメンバー3人が栃木県真岡市の猟銃店に乱入、猟銃10丁、銃弾2300発を奪った事件だ。この猟銃が使われたのであれば、米子の事件はただの金融機関強盗事件(これだけでも鳥取県では10年に1度の大事件だが)でなくなる。私はすぐに支局長に連絡した。

支局では手に余り、大阪本社から担当記者が駆けつけてきた。犯人グループは岡山方面に逃走したが、間もなく爆発物取締罰則違反などの容疑で逮捕された。

犯人は赤軍派のメンバーだった。彼らが手にしていた猟銃は京浜安保共闘が強奪したものだ。このことは赤軍派と京浜安保共闘が合流したことを示していた。

この合流グループは「連合赤軍」と呼ばれた。米子事件の5カ月後の12月、南アルプスで合同軍事訓練を行い、翌72年2月19日、長野県軽井沢町の河合楽器の保養所「浅間山荘」に、管理人の妻を人質にして立てこもり、警視庁機動隊などに発砲する「あさま山荘事件」を引き起こした。警察官ら3人が死亡、報道関係者1人を含む27人が負傷し、9日後、連合赤軍の5人全員が逮捕されて終息した。

あさま山荘事件のとき、すでに塩見さんは起訴されていて、事件にかんでないのはOさんが書いている通りだ。塩見さんがこうした暴力的闘争をどうみていたのかは知らないが、彼の母親は、次々に起こる赤軍派に関する事件にいたたまれない思いだっただろう。

塩見さんは1982年、懲役18年の刑が確定し、89年に出所した。Oさんの一文に「服役している」とあることからみて、彼女のエッセーは出所以前に書かれたか、Oさんに教えた人が間違っていたかのいずれかだろう。塩見さんが昨年11月14日、東京・小平市の病院で亡くなっていることをOさんは知っていて、「一つの時代が終わったのだと思います」と語った。

一つの時代。それはどんな時代だったのだろう。そんなことを考えていると、たまたま1月22日付毎日新聞の「悼む」という欄に塩見さんへの追悼文が載っていた。筆者は椎野礼仁さん。『テレビに映る北朝鮮の98%は嘘である――よど号ハイジャック犯と見た真実の裏側』という本を書いた人だ。この追悼文によると、塩見さんは2014年に『革命バカ一代 駐車場日記』を著した。椎野さんは、この本の編集を依頼されたとき「“あの塩見孝也に会う”と思うと、胸が高ぶった」といい、次のようにつづっている。

塩見さんは60代にして初めて労働を体験した。住所地の東京都清瀬市のシルバー人材センターに登録し、清瀬駅前にあるスーパーマーケットの駐車場管理の職を得た。そして著書に、「一日の労働をやり遂げた後、湧き起こってくる、何とも言えない満足感、達成感とでも言える喜び」と記した。支援者や袂を別った元同志たちに、賛否両論の議論を呼んだ一文ではあった。

この追悼文の見出しは「『革命バカ一代』反骨魂」とあるが、一日の労働をやり終えた後の達成感に喜びを覚えたとは、なんという庶民的感情であろう。

米子事件で起訴された犯人たちは鳥取地裁で行われた公判で「人民のために武力革命をする我々は無罪」と叫び、駆けだし記者の私の度肝を抜いた。仮に北朝鮮に行くことが「人民のための革命」だとしても、現在の北朝鮮の人たちが一日の労働で喜びを覚えているのだろうか。「北朝鮮は幸せな国なのか」。よど号事件のときの疑問がまだ私の胸のなかでよどんでいる。聞けるものなら塩見さんに聞いてみたい。「今でも飛行機をハイジャックして北朝鮮に行きたいですか」と。