2018春号《宿場・東海道 小田原宿》Lapiz編集長 井上脩身

小田原提灯ぶら下がる街

~お猿のかごやに思いはせ~
 昨年秋、箱根の足柄山に登るため、JR小田原駅に降りた。ホームを歩いていると、童謡『お猿のかごや』のメロディーが聞こえる。♪エッサ エッサ エッサホイサッサ――。子どものころ何度か聞き、うたった。懐かしくなって口ずさむ。「小田原提灯ぶらさげて」。小田原提灯で何だろう、お猿のかごやはだれを乗せてどこへ行こうとしているのだろうと、子ども心に不思議に思ったものだ。あれから60数年がたつ。今になって解明したいと思った。小田原は東海道の宿場だった。宿場と何か関係があるのだろうか。1月下旬、かつてに小田原宿を訪ねた。

中心街は「かまぼこ通り」
 小田原宿は9番目の宿場。江戸からは最初の城下町宿場でもある。

小田原城は1417年、大森頼春が築城、戦国時代の初めに北条氏の居城となり、3代北条氏康のときには難攻不落の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた。秀吉の小田原攻めなどで北条氏は没落し、家康は腹心の大久保忠世を小田原城に置いた。以降、江戸時代を通じて大久保氏の居城になっている。

小田原城は駅から西に十分足らずの所にあるが、私は駅から南東方向に向かった。20分ほど行くと片側2車線道路にぶつかる。旧東海道である。その道の南側の小さな公園に高さ1・5メートルの四角い石碑がある。「江戸口見附」と刻まれている。小田原宿の東端だ。

ここから西に進む。200メートルほど行くと左折し、先ほどの片側2車線道路と平行した道に出る。道幅約9メートル。片側1車線。少しは旧東海道らしくなる。さらに15分ほど歩いて「清水金左衛門本陣跡」に着いた。

案内板によると清水金左衛門は小田原宿の4軒の本陣の筆頭で、町年寄として宿場全体を掌握する地位にあった。別の史料には、天保年間(1830~1844年)、敷地面積1300平方メートル、建て面積1000平方メートルの大本陣だったとあり、尾張徳川家をはじめ、島津(薩摩)、細川(肥後)、浅野(安芸)、井伊(近江)、池田(備前)、山内(土佐)などの名だたる大名が宿泊したという。

明治天皇が1868(明治元)年10月にこの本陣に宿泊したことから、本陣跡には高さ4メートルの「明治天皇宮ノ前行在所跡」の碑が建っている。それほどに格式があった本陣だが、今はその名残はない。

清水本陣のすぐ近くで「脇本陣古清水旅館」と書かれた看板が目に留まった。現代風の旅館が建っているが、元は脇本陣だったのだろう。小田原宿には4軒の脇本陣があったといい、この辺りが宿場の中心であったことはまぎれもない。何か面影がないか、と見渡すと「かまぼこ通り」の標識が目に入った。私が歩いているこの旧宿場の街道は今「かまぼこ通り」と名づけられているのだ。

小田原宿の特徴の一つはすぐそばが海辺であることだ。相模湾の砂浜に出てみた。1隻の小舟が漁をしていた。江戸時代、漁師たちが捕った魚の多くは旅人に供されただろう。問題は箱根山中にある次の宿場、箱根宿だ。小田原から箱根まで腐らせずに運ぶのは難しい。そこで蒲鉾づくりが始まったといわれている。1846年、富士山麓の須走で小田原藩主一行が蒲鉾を賞味したとの記録があり、江戸後期には蒲鉾がすでに小田原の地場産業になっていたようだ。

蒲鉾が小田原の名物になると、小田原宿必須メニューになったはずだ。参勤交代の大名は本陣で、家老たちは脇本陣で、できたばかりの最高級蒲鉾に舌鼓をうっていたにちがいない。

では身分の低い侍や町民たちはどうしていたのだろう。旅籠や一膳飯屋で蒲鉾をつっついていただろうか。こんなことを考えていると、「う」の字を丸で囲んだ商標の看板が目に入った。明治の初めに創業された蒲鉾商「丸う田代」の店舗だ。地図で確かめるとそこは浜町。なるほど蒲鉾店の立地にふさわしい。のれんを通りに突きだす店の構えも歌舞伎の舞台のように時代がかっている。

店内をのぞいた。2本入り1万円のものから1袋300円のものまでさまざまな商品が並んでいる。おそらく原材料の魚の違いによるのだろう。安い魚からのものだからといって、まずいとは限らない。という理由をつけて私は「たんざくあげ」という商品を土産に買った。スティック状の揚げ蒲鉾が8本入っていて300円。翌日昼食のおかずにした。厳密には蒲鉾とはいえないかもしれないが、魚のすり身にはちがいない。素朴だが深みのある味が口に広がる。蒲鉾が今なお小田原名物であることを納得できた。

ところで、江戸時代の街並みはどのような雰囲気だったのだろう。清水本陣の少し西に「小田原宿なりわい交流館」がある。1932年に建てられた旧網問屋をそのまま使った観光案内所だ。出桁(だしげた)造りと呼ばれる軒の桁がはりだした構造。大正の建築ではあるが、江戸の風情を思わせる。

この交流館から出てきた夫婦と思われる観光客が、通りかかったタクシーに乗った。ふとこの入り口の前に駕籠かきが客を待っている様子を思い浮かべた。小田原宿には旅籠が95軒あったという。駕籠かきも随分大勢いただろう。旅人は駕籠に乗ってどこへ向かったのだろうか。

箱根八里を駕籠に乗り
旧東海道は小田原城の近くを通っている。その堀のそばの石垣の上に「箱根口門跡」の幅5メートルもある大きな横書きの石碑がある。ということは、ここから西は箱根への道ということだろう。さらに約1キロ西に進むと早川にかかる「大窪橋」に出た。橋に立つと箱根の山々が迫ってくる。早川沿いの道を大型車があえぎながら上るのが見える。この辺りは正月の風物詩、「箱根駅伝」(東京箱根往復大学駅伝競走)の箱根の登りコースだ。

駅伝コースの往路は早川沿いに登り芦ノ湖をゴールとしているが、旧東海道も早川に沿い、さらにその上流の須雲川に沿って芦ノ湖に向かう。この湖畔に箱根宿があった。「箱根八里」といわれるが、うち小田原―箱根間は4里、約16キロだ。この長い上り坂の途中に宿場はない。足に自信のない旅人は駕籠に頼るしかなかったであろう。

というわけだから、駕籠が向かう先は箱根宿だったにちがいない。

晩秋から冬にかけて、うかうかすると宿場に着くまでに日が落ちる。なにせ箱根の山は童謡にもうたわれる「天下の険」であり、「昼なお暗し」なのだ。駕籠かきにも箱根の日暮れは恐ろしいところだった。だから提灯を常に持ってなければならなかった。

では小田原提灯はどのような提灯だったのだろう。足下地蔵尊に提灯がずらっとぶら下がっている、と聞いた。同地蔵尊は伊豆箱根鉄道大雄山線で小田原駅から二つ目の井細田駅の近くだった。地蔵尊の前に高さ4メートルくらいの提灯吊り下げ棚が立てられていて、約50個の提灯が3段にぶら下がっている。1個の大きさはいずれも高さ約50センチ。上下の端が丸みを帯びたじゃばら式の提灯だ。なんの変哲もないように見える。

これらの提灯はいずれも山崎提灯店が作った。山崎提灯店のホームページなどによると、江戸時代半ば、小田原の甚左衛門が「箱根越えの旅人のために」とじゃばら式提灯を考案した。折りたたむと胴の部分が縮まってふたに納まるので携帯に便利というわけだ。それまでの提灯よりも紙に接する骨部分を広くとり、剥がれにくくしたのが第二の特徴。雨や風にも強いという。もう一つ、足柄の山中にある大雄山最乗寺の神木の一部を材料に使い、「狐狸妖怪などの魔除けになる」と宣伝した。こうした知恵が奏功し、小田原提灯が大いに受けたのだ。享保(1716~36年)ころには全国に広がり、小田原宿では土産物にもなったと伝えられている。

駕籠かきにしてみれば、明るいうちに棒の先に提灯をぶら下げていたのでは、足を運ぶたびにぶらぶらと揺れ、かつぎにくくて仕方がないだろう。小田原提灯ならば、昼間はどこかにしまい込んでおける。提灯がじゃばら式であるのは今では当たり前だが、箱根の山を前にした小田原宿ならではのアイデアだった。

こんなふうに考えていて、「万町」という旧町名を示す石碑が江戸口見附と清水本陣の間にあったのを思い出した。裏に「小田原提灯」と刻まれていたのだが、本陣跡を探すことに頭が奪われて、十分読まなかったのだ。この石碑の所にとって返した。万町は「よろづちょう」と読む。碑文には、紀州藩の飛脚継立所があり、江戸時代末には5軒の小田原提灯を作る家があった、とある。万町だけで5軒あったのだから、小田原全体でかなりの提灯業者があったと思われる。現在、小田原には山崎提灯店を入れて2軒しか残っていない。

「山猿」が作詞、作曲
 最後の疑問。なぜ駕籠の担ぎ手はお猿さんなのか。
『お猿のかごや』は山上武夫(1917~87)が1938年に作詞、海沼實(1909~71)が作曲した。山上と海沼はともに長野県出身。骨董を商う山上の実家の店の片隅に小田原提灯が置かれていたという。山上が77年に書いた『「お猿のかごや」に寄せて』という一文が残っている。「東京の義兄の家に居候していたとき、(故郷に)帰りたいと思った。不意に『小田原提灯』がパサッと揺れ、駕籠が走った」とつづっている。

ではなぜ猿なのか。山上はこの一文に「二人はかごやなのだ。先棒は海沼先生、後棒はそれに従う自分。二人とも信州の山猿だ」と書いている。お猿のかごやはこの曲の作詞者と作曲者だったのだ。

39年、ビクターからレコードのB面に収録されて発売されると注文が殺到。翌年、A面曲として再発売された。戦後の48年、コロンビアから川田孝子が歌って発売され、だれもが知る国民的童謡になった。

かごやがお猿であるのは、たまたま山上の実家に小田原提灯があったにすぎないというわけだが、しかし箱根を登る駕籠かきがキツネやタヌキならば「狐狸妖怪などの魔除け」にはならない。むしろ旅人の方が化かされはしないか、と心配するだろう。言われてみれば合点がいった。天下の険には山慣れしたサルが似あっている。

松原神社を訪ねた。観光ガイドに「松原神社は小田原宿の鎮守の社」と記載されていて、「小田原宿の魂」をうかがえるのでは、と思ったからだ。神社は小田原なりわい交流館からそう遠くない、旧東海道から少し奥まったところにあった。

神社の前の由緒が書かれた立て札には「小田原の宿十九町の総鎮守」とあるが、入り口の鳥居から本殿までは20メートルしかなく、特段大きな神社というわけではない。しかし、毎年5月3日から5日にかけて開かれる例大祭がこの神社の得意絶頂とするところだと近くの人が教えてくれた。江戸時代は1月と4月に交互に行われたこともあったといわれ、漁師の祭りとして続けられてきたという。

祭りは5月3日夕方の神輿の御霊入れから始まる。5日、神輿の宮入りで祭りは最高潮に。神輿を担ぐのは袢纏に鉢巻姿のいなせな若者たち。その威勢のよい動きと気迫あふれる掛け声。元は漁師たちの海の守りへの強い願いをこめて発せられたのだろう。その勇壮な様は、どこか『お猿のかごや』と重なる。相模の海の神をまつる神輿と箱根の山へ行く駕籠。小田原宿は海辺の宿場であるとともに、箱根の山の入り口の宿場でもあるのだ。

海難救助の保安官を描いた劇画『海猿』が1999年から2001年にかけてコミック雑誌に連載され、映画にもなった。小田原とは関係がないが、小田原宿には陽気で元気な山猿や海猿がいて、城下町でもあるこの宿場の武士や町人、旅人が混在する喧騒まじりの賑わいぶりを思い描いた。

JR小田原駅に戻った。改札口の頭上に5メートルの「小田原」と書かれた提灯がぶら下がっている。そういえばこの小田原宿探訪の旅は同時に小田原提灯を見る旅だった。小田原宿なりわい交流館の天井にもおでん屋の入り口にも、駅近くのたこ焼き屋にも小田原提灯がかかっていた。LEDの時代の今なお、小田原では提灯は観光になくてはならない現役なのだ。

電車で横浜に向かった。「お猿のかごやだ ホイサッサ」のメロディーが送ってくれた。