編集長が行く「秩父事件に見る明治維新の本質」:井上脩身編集長

秩父事件にみる明治維新の本質 ~自由を求めた農民蜂起~
文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

 明治維新は農民に犠牲を強いた政変ではないのか。私は高校3年生のときに日本史を習って以来、このような疑問をいだいてきた。専門的に学んだわけではないので、根拠といえるほどの理由はない。だが、明治新政府が産業振興と軍備増強を基本とした近代国家を目指そうとしたところで、突然産業構造が変わるはずはなく、結局のところ江戸経済の根幹であった農民からの税収に頼るしかない。極論すれば明治とは江戸時代以上の農民から収奪の時代といえないか。そんなふうに思いをめぐらしていて、高校時代の教科書のなかに秩父事件があったことを思い出した。犠牲を強いられた農民たちが国に立ち向かうのは当然だろう。今年は明治維新150年の年である。明治維新の本質を秩父事件のなかに見ることができるのではないか。4月下旬、秩父を訪ねた。

私年号・自由自治元年
 秩父事件は自由民権思想が農山村にも浸透しつつあった1884(明治17)年10月、自由党員らと農民たちが埼玉県西南部の秩父で立ち上がった決起のことだ。開国に踏み切って以降、富国強兵のため政府は増税策を進めてきたが、81(明治14)年10月、大蔵卿に就任した松方正義は財政政策を一層強行に推し進めた。日本銀行の創設と兌換紙幣である日本銀行券の発行、酒造税や醤油税などの増税、政府予算の圧縮などがその主な政策だ。これがデフレを引き起こし、「松方デフレ」と呼ばれた。この結果、経済構造として脆弱な農業がもろにその影響を受けた。農産物の価格が下落し、農民たちの困窮度が急激に進んだ。

加えて73年ごろからヨーロッパ経済も不況になり、82年、欧州最大の生糸取引所であったフランスのリヨン生糸取引所で生糸価格が大暴落し、養蚕農家を直撃。生糸の値段が1881年から2年間で半分以下になった。

秩父地方は信州などとともに昔から養蚕が盛んな所だ。1888年の統計では秩父の養蚕・生糸関係戸数は13071戸。うちわけは養蚕家9123戸、製糸家563戸、製種家86戸、機業家7戸、糸繭商家586戸。ほとんどが養蚕農家だ。生糸の価格暴落は秩父経済の根底を揺るがした。秩父の養蚕農家の多くは生糸の売り上げをあてに金を借りて米や麦などの食料をはじめ生活物資を購入していたが、たちまち生活資金に困りだした。農民の足元につけこんだ高利貸しが暴利をむさぼり、農民たちの生活は悲惨な状況を呈していた。

84年6月、群馬県の自由党員が困窮した農民たちを妙義山麓に結集し、圧政打倒を掲げて兵を挙げた群馬事件が発生。9月には茨城県の加波山に武装した16人の民権運動家が挙兵する加波山事件が起きた。同事件は専制政府を打倒し立憲政体を造り出すことを打ちだしたもので、秩父の農民たちに強く影響を与えた。とくに秩父は生糸を通じてフランスとの結びつきがあったことから自由民権思想を受け入れやすい土壌があった。

群馬事件や加波山事件に並行する形で、秩父でも自由党員が中心になり、増税や借金苦にあえぐ農民とともに「困民党」(秩父困民党、秩父借金党などと呼ぶ文献もある)を結成。同年8月、山林集会を開き、税の軽減についての政府への請願や借金の返済延期を求めて高利貸しと交渉することを決定した。しかし、こうした穏和な方法ではらちが明かず、11月1日夜、秩父・下吉田の椋神社で決起集会を開いた。

この決起で注目されるのは役割や軍律が制定されたことだ。役割には総理、副総理、会計長、参謀長、甲大隊長、乙大隊長、各村小隊長、兵糧方、軍用金集方、弾薬方などがあり、総理に田代栄助、副総理に加藤織平、会計長に井上伝蔵が就任した。

軍律は「私ニ金品ヲ掠奪スル者ハ斬」「女色ヲ犯ス者ハ斬」「酒宴ヲ為シタル者は斬」「私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者は斬」「指揮官ノ命令ニ違背シ私ニ事ヲ為シタル者は斬」の5条から成っている。

困民党のメンバーやその同調者は「自由自治元年」という私年号を用いた。この6文字に蜂起の思いが込められているといえるだろう。

強欲高利貸しを襲撃

秩父事件については井上幸治氏の『秩父事件――自由民権期の農民蜂起』(中公新書)が詳しい。井上氏はフランス近代史が専門の歴史学者で、神戸大や津田塾大などの教授を歴任した。秩父の出身で、「秩父事件の舞台となった土地に生まれ、子供のときからさまざまな言い伝えを聞いていた」(同書まえがき)という。歴史家として身につけた史料の整理や分析力などを生かして事件をまとめあげたのは1968年。50年前のことである。

同書を引用しつつ蜂起部隊の足跡をたどりたい。

椋神社に集合したのは約3000人。ここから二手に分かれて出発した。甲隊は「強欲じじい」と呼ばれた高利貸しを襲い、刀剣83本を奪ったうえ放火。乙隊の1000人も高利貸しの家に小銃弾をあびせて放火した。この後、両隊は小鹿野地区になだれこみ、警察分署に乱入、書類を焼き捨て、高利貸しの家に放火。別働隊がゲリラ的に役場に押し込み、公証簿を焼くなどした。

2日朝、小鹿野の町を出発した蜂起隊は先頭に銃砲隊、つづいて竹槍隊、抜刀隊と二列縦隊で行進。物置に潜んでいる高利貸しを捕らえ、貸金証書82通(約2000円分)を取り上げた。秩父神社に集まった後、本陣を郡役所に移し、普請中の小学校に分営した。

2日の夜から3日にかけては、高利貸しへの攻撃、軍用金の募集、近村への働きかけの3点に重力が置かれた。10年間で5万円の財をなした秩父最大の高利貸しに対し、「借金の半分の年賦返済と1000円の献金」を申し入れたところ、「450円なら」と答えたため、拒否して打ち壊した。軍用金については、豪農を中心に2980円が集められた。秩父は武甲山(1304メートル)の北側に広がる盆地だ。その山麓の村々にゲリラ隊を派遣、戸長に対し1戸1人の人足を出すよう促すなどの働きかけをした。ある店では「自由党幹部」の肩書で「このたびは世直しをして政治改革をするので、当店で食糧の炊き出しを頼む」と申し向けた。

当初、警察は困民党の大集団に手を出しあぐねていたが、蜂起隊が小鹿野の町を占領したとき「尋常な一揆ではない」と、ことの重大性を認識、憲兵隊の派遣を内務卿の山県有朋に上申した。蜂起隊は1万人にも及ぶとの情報もあり、山県は憲兵隊の出動を決定。事件は全国に知られることとなった。

蜂起軍と鎮台兵の銃撃戦

政府と県の本部が秩父北東20キロの寄居に置かれ、警察官430人、憲兵3小隊、鎮台1中隊で守備隊が編成された。11月4日、守備隊は秩父の出口を封鎖。総理の田代栄助が夜陰にまぎれて姿を隠したほか、蜂起隊幹部が逃走したり捕らえられたりして本陣が解体した。

困民党のメンバーのなかに本陣の解体を知らなかった者は少なくなかった。秩父の中心地から10キロ北、皆野という町のはずれの金屋では蜂起軍100人と鎮台兵70人が30分間、銃撃戦を展開した。新聞は「死体はいずれも股引き脚絆、草履姿。けがを負った14、5歳の少年が助けを求めて声をあげ、50歳余りの老夫が健気に奮闘してたおれた」と、蜂起軍の敗北を伝えた。この戦闘で農民の即死者は6人、収容後の死者は4人、負傷者が9人であるのに対し、軍隊・警察の死者は4人。火力のちがいは歴然としていた(前掲書)。

この金屋の戦闘は秩父事件最大の戦闘とされている。井上氏は「本陣解体後、困民党の戦意はくじけず、本格的な出撃作戦に出たことは大きな意味をもっている」と高く評価している。

一方、八ヶ岳山麓で高利貸しに打ち壊しをかけた残党部隊は11月9日、長野県佐久郡東馬長(現長野県小海町)で鎮台兵と警察部隊の襲撃を受けて壊滅。指導者、参加者らは次々に捕縛された。警察署で蜂起農民を見た記者の一人は「いずれもぼろぼろの衣服を着て、顔は黒やっこのようで、手は熊手のようだ。昨日まで田畑で農耕に従事し、山林できこりの仕事をしていた純粋の農民」との感想をもったという。

事件後、埼玉関係では大宮、小鹿野など4カ所で暴徒糾問所が設置され、群馬・長野県でも取り調べが始まった。この結果、約3000人が処罰され、田代栄助、加藤織平ら8人が死刑の判決を受けた。

生活困窮が原因

秩父困民党の蜂起は当時どのようにみられていただろうか。『秩父事件』は当時の新聞報道を以下のように紹介している。

東京日日新聞は秩父事件の第1報で「小民が不景気の余響に苦しめられ、博徒、あぶれ者、あるいは過激の政党輩(やから)加わってこれを煽動」と伝え、埼玉新聞も社説に「もっぱら乱民を指揮する者は旧自由党員と称する者及び博徒、もぐり代言人」と書いた。

自由党員があおりたて、バクチ打ちらが加わって暴挙に至ったというのだ。内務卿の山県ら政府がこのようにみていたことの反映だろう。事件後、蜂起メンバーの処分を審査するために設けられたのが「暴徒糾問所」であったことが、このことを如実に示している。

これに対し、横浜毎日新聞は、今回の暴民はこれまでの竹槍、むしろばたの徒とやや色が異なるとし、博徒、あぶれ者、過激の政党輩の扇動が主要原因とするのは誤りとしたうえで、「其大原因ハ人民生ヲ聊(やすん)ゼザルノ一事ニ存セザル可カラズ」と、人々が普通に生活できない状態であることが原因とした。朝野新聞も不況と農民の困窮があることを指摘し「秩父郡ノ人民ハ近来産業ヲ失ヒ貧困ニ陥ルモノ多ク、其ノ餓渇ニ瀕スルヨリシテ一時ニ蜂起ヲナスニ至リシナリ」と分析した。

郵便報知新聞はさらに具体的に次のように報じた。

そもそも秩父郡の貧窮はなにから生じたのであるか。この郡は山間僻地であるが物産に富み、埼玉の富郡で、生糸、絹、薪炭を産出していたが、一時期は秩父絹によって生計に余裕を生じ、開港以来、製糸業が開け、座繰機械を用いてもっぱら製糸をおこなうようになり、絹織りをやめてしまった。生糸が高価な時は2、3カ月の労働で、以前1年間に得る利益をしのぐ収入があったが、生糸の価格が下がりはじめると、非常の困難に陥ってしまった。その上、もはや薪炭の材料たるべき山林も伐りつくし、畠も桑を植えてしまったので、いっそうの困難がくわわってくる。

郵便報知新聞の記事こそ秩父事件の本質を見抜いていたといえるだろう。自由民権運動の高まりにともない、ジャーナリズムが根をはりだしたことを示したという意味でも、この記事は貴重だ。

34年間逃亡の会計長

秩父事件裁判で8人が死刑を受けたことはすでにふれたが、実はこのなかに、行方がわからず欠席裁判で死刑を言い渡された者が二人いた。一人は参謀長の菊池貫平。2年後、甲府で捕らえられたが、減刑され1905年、出獄している。もう一人が会計長の井上伝蔵だ。伝蔵の自宅「丸井商店」は1800(寛政12)年以来の江戸御用達の商店。食料品、雑貨、生糸などを手広く商っていた。伝蔵が会計長に選ばれたのはこうした商い上の経験をかわれたためと思われる。

秩父出身の新井佐次郎氏が著した『秩父困民軍会計長 井上伝蔵』(新人物往来社)によると、伝蔵は丸井商店の土蔵に2年間潜んだ後、行方知れずになった。ところが32年後の1918年6月、北海道東部の野付牛駅(現北見駅)から自宅に「デンゾウキトク」の電報が届き、伝蔵が生存していることがわかった。伝蔵の弟が現地に駆け付けたところ、死亡した後だったという。

秩父困民党の幹部が30年以上も逃亡していたことが話題となり、東京毎日新聞は「井上伝蔵翁は死刑の宣告を受けながら、正義と自由の熱血湧きたつまま、見果てぬ夢をおしんで、北海道に隠れた」と報道。地元、釧路新聞は「秩父颪」のタイトルで24回連載し、「一命あるかぎり軽々しく自由を捨てるわけにはいかぬ。同士の誰かが正義の旗を樹てるに相違ない。その時までこの体を傷つけることはできぬ」と決心し、「大井憲太郎との密約に一縷の望みを託して」身を潜めた、としている。

大井憲太郎は自由民権運動を指導、自由党に参加し、秩父困民党の指導もした。だが伝蔵と大井の間で実際に何らの約束があったかどうかはわからない。

伝蔵が亡くなって86年後の2004年、秩父事件120周年企画として映画『草の乱』が製作された。神山征二郎監督がデビュー当時から同事件の映画化を夢見ていたといい、伝蔵の生きざまに焦点を当てて事件を描きだした。主人公の伝蔵は緒形直人、総理の田代栄助は林隆三というキャスト。エキストラは延べ8000人。伝蔵の実家「丸井商店」を、残っている写真などを頼りに忠実に再現し、ほとんどのロケは秩父で行われた。とくに椋神社の蜂起シーンについては、実際の決行日である11月1日の夜、同神社境内で撮影された。

自由を求める変革思想

私は秩父には西武線の電車で向かった。西武秩父駅からバスで約50分、龍勢会館という停留所で降りた。すぐ前の会館に映画『草の乱』の撮影のために復元された伝蔵邸「丸井商店」の建物があるからだ。撮影終了後、「秩父事件資料館」になった。

天井に絹糸が飾り付けられた資料館内の壁には「下小鹿野村」など、各村々の名前が書かれた白旗が並んでいる。村ごとに蜂起隊が編成されたことを示しているのだろう。ほかに新聞記事のパネルや、実際に使われた衣装などが展示されている。

私が最も興味を引かれたのは「金借用之証」だ。キャプションには「明治12(1879)年10月26日、上吉田村の高岸金三郎が井上伝蔵より借金した証文、伝蔵直筆」とある。高利貸しから金を借りてたちまち返済に苦しんだ農民たちをみて、伝蔵自ら金を貸したのだろう。また、「伝蔵が読んだと思われる書物」として植木枝盛の『民権自由論』やスチーベン著の『自由平等論』なども展示されており、伝蔵が自由民権思想に強く引きつけられていたことがうかがえた。

龍勢会館には土産物コーナーもある。地場の漬物を買った後、椋神社におもむいた。歩いて20分余りのところに神社はあった。本殿は幅約8メートル、鮮やかな朱色である。この前の広場は約1000平方メートルの広さ。決起の夜、ここにむしろばたを手にした農民たちが集まり気勢をあげたはずだ。今はもちろん静かである。初夏を思わせる強い日差しが広場に木立の影を映しだしている。

境内の隅に「秩父事件百年の碑」が建っている。1984年11月、秩父事件100周年を記念して建てられたもので、碑文には「困民党軍のたたかいのなかで農民の意識はさらに昂揚し、圧政を変じて良政に改め自由の世界を出現させる信念は益々強化されていった。自由民権期の変革思想が大地で斧や鍬を振るう人々を、必死の行動にかりたてるエネルギーとなった」とある。

井上氏は「秩父事件は自由民権運動の最後にして最高の形態。この事件ほど日本の歴史過程に大きな発言をしている事件はない。これがわがふるさとの事件であったことを誇りに思っている」と『秩父事件』のまえがきで高らかにうたいあげている。碑文の行間にも「郷里の誇り」が生き生きと脈打っているように思える。

今回の私の秩父の旅の意味はこの碑文にすべてが表されているといえるだろう。農具しか持たない農民たちが、軍や警察という武器を振るうプロに立ち向かわざるを得なくなった、やむにやまれぬ動機。それは自由を獲得するためだったのだ。「市民平等」をうたった明治新政府が実は自由を奪う圧政であったことの証左ともいえるだろう。

帰りのバスは秩父の繁華街で降りた。街のたたずまいは昭和レトロの雰囲気だ。その古い家々の向こうに武甲山がそびえている。伝蔵が自宅の土蔵から逃げるとき、いったん武甲山麓で身を隠したと伝えられている。「自由を守れ」。山がそう呼びかけているようにおもった。(了)