びえんと「笠戸丸出港110年の光と影」:文 井上脩身

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――ブラジル移民の蒼氓――
 笠戸丸が第1回の移民船としてブラジルへの移民781人を乗せて神戸港を出港したのは1908年4月28日のことだ。それからまる110年がたった。ブラジル移民とはなんだったのだろう。この移民をテーマにした石川達三の小説『蒼氓』を読み返し、かつて国立移民収容所だった神戸市立海外移住と文化の交流センター(以降、交流センター)を訪ねた。「さあ行こう一家をあげて南米へ」のキャッチフレーズにのって、言葉も習慣も季節も何もかもが違う地球の裏側の国に渡った移民たち。その決断はなみなみならぬものだったに違いない。日本に残っても地獄、ならば少しでも夢がある方にかけたのであろう。1908年といえば明治維新からちょうど40年後だ。「富国強兵」を掲げた明治という時代。その威勢のよさの陰にブラジル移民があった。

定着者は4分の1

広大な国土をもつブラジルでは19世紀、アフリカからの黒人奴隷を使ってのコーヒーのプランテーション農業が行われていたが、1888年に奴隷制度が廃止され、新たな労働者が必要になった。ヨーロッパからの移民を受け入れたが、イタリア人移民が奴隷と変わらない過酷な労働や住環境、賃金の悪さなどに不満をもち、反乱を起こしたことから移民を中止。労働者不足にたちいたった。そこでブラジル政府は1892年、日本人の移民受け入れを表明。95年、日伯修好通商航海条約が結ばれ、外交関係が樹立した。

一方、日本人移民を受け入れていたアメリカのカリフォルニア州など西海岸では人種差別による日本人移民排斥がひどくなり、日本政府は1900年、アメリカへの移民を制限した。1904年に勃発した日露戦争で日本は勝利したものの、ロシアからの賠償金を得られなかったことなどから経済が混乱し、農村の疲弊と貧困は深刻な状況になっていた。こうして日本とブラジル双方の利害が一致した。

移民の送り出し事業を営んでいた「皇国殖民会社」が1907年に「1908年以降3000人の移民を送る」との契約をサンパウロ州政府と締結。この際、同政府は「家族単位での移民」を条件とした。このため、見ず知らずの男女が形式上夫婦となるケースが少なくなく、「構成家族」と呼ばれた。

こうして冒頭に述べたように1908年、781人が東洋汽船の笠戸丸に乗り、6月18日、サントス港に到着した。サンパウロへ鉄道で移動し、移民収容所に収容された後、それぞれの家族が契約したコーヒー園に向かった。皇国殖民会社が経営難に陥ったため、同10年、竹村殖民商会が受け継いで第2回の移民906人が送られた。

皇国殖民会社は募集に際して高待遇・高賃金をうたった。このため移民者のほとんどは契約労働者として働き、金を貯めて日本に帰国するつもりだった。しかし、大半の農園では居住環境が劣悪で過酷な労働を強いられ、賃金も低かった。貯金するどころか借金が増えるばかりで、「移民でなく棄民」と不満がつのり、移民者たちの夜逃げが後を絶たなくなった。1909年に外務省の通訳官が調査したところ、笠戸丸の移民者のうち、当初契約したコーヒー園で定着したのは4分の1に過ぎなかった。

逃亡した移民には、自分の土地を得て自作農になった者は少なくないという。こうした移民たち同士が資金を出し合って共同で農地を取得するケースもあり、1919年、ミナスジェライス州に初の日系農業組合「日伯産業組合」が設立された。自作農として独立した人たちはコーヒーの価格が暴落すると、コショウ、ジャガイモ、茶などの栽培に転換して成功する者も現れた。やがてサンパウロなど都市部で日本人移民向けの店を開いたり、工場を経営したり医師になる者も出るようになる。

以上はあくまで成功者を中心としたブラジル移民幕開け時代の説明。脱落した者が少なくなかったのはいうまでもない。

移民収容所と石川達三

移民を送り出す側の日本では1928年、神戸・三宮の高台に「国立移民収容所」が開設された。7日から10日をかけて移民者にポルトガルの基本を教え、眼病などの治療を行うのが目的。鉄筋5階建て、ベッド数600でスタートし、2年後に250のベッドがある別棟を建てた。

同収容所以外に「神戸館」など十数軒の移民宿があった。交流センターに神戸館の写真パネルが展示されている。木造3階建ての宿は大人や子どもがぎっしりと詰まっていて、落ち着きなく外を見ている様子が写っている。交流センターに入れなかった人たちなのだろうか。その表情には「南米で一旗」といった気概が感じられず、見ていて哀れをもよおした。

交流センターの説明パネルによると、南米までの船舶として、当初は日本郵船の神奈川丸、鎌倉丸、博多丸などが使われたが、後に大阪商船のさんとす丸、らぷらた丸、ぶゑのすあいれす丸、ぶらじる丸などが神戸からサントスまで44日をかけて移民者を運んだ。これらの船は家族単位の移民という条件に合わせた設計が施されていた。

交流センターには『蒼氓』についての解説パネルもある。以下はその抜粋である。

筆者の石川達三(1905~85年)は1930年、国立移民収容所に入所、らぷらた丸の助監督としてブラジルに渡り、6カ月間移民を体験。この経験を基に『蒼氓』を執筆した。友人から雑誌『星座』の創刊号に載せたいといってきたが、石川は「あまり評判がよくないので」と断った。ところが友人が載せてしまった結果、1935年の第1回芥川賞を受賞することになった。

石川が『蒼氓』を書いた1931年は昭和6年だ。小説には国家批判をした部分もあるが、この当時、言論統制や風俗面での規制はまだ厳しくなかったので受賞できたという。

以上の記述を読んでいて、石川に発禁処分を受けた小説があったことを思い出した。1938年に書いた『生きてゐる兵隊』だ。

石川は南京陥落(1937年12月12日)後、中央公論の特派員として中国大陸に入った。南京事件に関与したとされる第16師団33連隊への取材に基づいて著した小説だ。主人公の医学士である1等兵が、人間の命を守るために学んできた医学と、その命が戦場で失われるというギャップに悩むという物語。「反軍的な内容をもつ時局柄不穏当な作品」として即日、掲載誌は発売禁止の処分を受けた。石川は新聞紙法第41条(安寧秩序紊乱)違反容疑で起訴され、禁固4カ月、執行猶予3年の判決を受けた。

そんな石川の出世作となった『蒼氓』。私は書棚からその文庫本(新潮文庫)を取り出し、ページを開いた。

声なき民の桜の国の別れ

個人的なことだが、『蒼氓』にはいささかの思い出がある。

私が新聞社に入って最初に鳥取支局に配属された。その2年目のあるとき、支局長が私を居酒屋に誘った。『蒼氓』を話題にし、私に「読んだか」と尋ねる。「読んでません」と答えると、「第1回の芥川賞作品なのに」と、ちょっとがっかりした顔になって「貧しい民は国から捨てられるんや」と言った。支局長は戦時中、大阪の外国語学校でインドネシア語を学んでいる。私は海外への思いを50歳になってなおもち続けているのだ、と理解した。

だがなぜ『蒼氓』を話のタネに持ち出したかがわからなかった。今回、交流センターに足を運んで合点した。これは後述する。

話を『蒼氓』そのものに戻そう。

「1930年3月8日。神戸港は雨である。細々とけぶる春雨である」から物語は始まる。

行李や風呂敷包みを担いだ移民たちは、家族ごとにまとまって赤土の坂道を上り、移民収容所に入る。このなかのお夏が主人公。お夏は秋田の出身。紡績工場で働いていて、女工監督の堀川が結婚の申し込みをしてくれたが、ぐずぐずしているうち形式上友人の妻になり、移民家族の一員としてブラジルに渡ることになった。

収容所で寝ているとき、お夏は小水助監督に犯された。だが、石川はストレートな表現はしない。「小水助監督の眼鏡をはずした青白い顔が、すぐ眼のまえにぼんやりと浮いているのを見た。(略)お夏はほとんど抵抗する術をしらないような娘であった。(略)静かに顔をそむけて眼を閉じたまま意志を失った和やかさで横たわっているばかりであった」と、やんわりと書く。「風俗紊乱」と指摘されないよう、表現に注意したことがうかがえる。

お夏に小水からも結婚しようと言ってくれたが、そのときは本当の友人の妻になる決意をした後だった。

収容所最後の日、主任医師が船医あての報告書を書いた。トラホーム患者182人(うちほとんど全快72人)、肺炎、栄養不良、腎臓炎各1人、耳下腺炎2人、インフルエンザ31人、妊娠中16人。おそらく石川が収容所にいたときの実数だろう。

腎臓病患者は本当は脚気だ。ブラジルでは脚気は伝染病と同じ扱いを受け、入国が禁止されているので、腎臓病といつわって書いたのだ。

神戸港から移民一行が船に乗り込むと、突堤に並んだ小学生が小旗を振って歌いだした。

行けや同胞海越えて/南の国やブラジルの……/未開の富を拓(ひら)くべき/これぞ雄々しき開拓者……

『蒼氓』はらぷらた丸が出港したところで終わる。だがこのあと『南海航路』『声無き民』の3部構成になっていて、いずれも新潮文庫に『蒼氓』として所収されている。『南海航路』はその名のごとくブラジルまでの洋上での物語、『声無き民』はサンパウロ到着から農園に着くまでを描いている。いささかややこしいが、ここでは全体を『蒼氓』として扱う。

移民たちがサントス港に着いて船から降りると、作業員がベッドを取り外し、鉄枠をがちゃがちゃと片隅に放りなげる。この鉄格子の音境をききながら、移民たちはチェーホフの『桜の園』の桜を伐るさびしい斧の音を思い出していた、と石川は描写している。『桜の園』を思い浮かべたのは石川本人にちがいない。移民たちが「桜の国への別れ」を強く感じていたことを石川はこう表現したのだ。

お夏たちは汽車でサンタ・ローザ駅に向かい、そこからカローシャという車に乗せられる。やがてサント・アントニオ農場に着き、土蔵の土間に寝ることになった。翌朝、働きに出る男たちを友人一家のお婆さんと見送った。「この老女の柔らいだ表情のうえに、喜びとも悲しみともつかない一筋のなみだが流れているのを、お夏は知っていた」と書いて、石川は長い物語に終止符を打った。

金融恐慌の波かぶる

『蒼氓』には国家批判をした部分もある、とされていることはすでにふれた。そうした部分と思われるのは、次の記述だろう。

ブラジルについて「隣の部落迄は近くて3里遠ければ10里、そこにはラジオは愚か新聞雑誌は愚か、郵便の配達さえない。百姓達は土間に自分で寝台を作って住む。働くと食うと寝る他にする事もない所だ。猛獣も居れば鰐もいるが医者の居る部落は殆どない。そしてマラリヤの絶えざる脅威がある。(略)けれどもブラジルへ行った移民達は一向に帰って来ようとはしない。これら無数の迫害よりももっと恐ろしいものが日本にあるからだ」と書いたあと、その恐ろしいものとして以下のように記す。

東京市会議員大疑獄に次いで藤田鎌一の合同毛織事件と天岡直嘉の売勲事件。山梨半造が釜山取引所事件で起訴され、小川平吉が私鉄疑獄で引っぱられた。その次に樺太山林事件があり明政会事件もある。最近には現職文部大臣が収賄事件で辞任して今朝は起訴されている。こうした政界財界の腐敗の一方には1月の金輸出解禁とそれに伴う消費節約のどさくさ、引き続いての各地生産業界の困憊。(略)次々と起ってくる是等のめまぐるしい事件を日毎に知らされるだけでも彼(移民者の一人)は身も心もさむざむとする様に思い、母国の終焉を見るように悲しかった。
お夏の紡績工場に関する次の記述も国への批判といえなくもない。

時はあたかも小さな紡績全般の苦闘の時代であった。1927年昭和2年の金融恐慌で大阪の近江銀行が破綻し、その為に起った中小紡績の激しい金融難に苦しめられ、それが現在に至って傷痍未だ癒えざるに印度の関税引上げがあり、その余波を受けて中小工場の操業短縮率増加を決行する事になった。それは大紡績の自衛策であり、防禦の武器を持たない小工場は壊滅に瀕している。(小説からの引用は原文のまま、洋数字は本文では漢数字)

欧米に一歩でも近づくために富国強兵を急いだ明治政府。だが欧米列強とは財政力は比較のレベルですらなく、そのしわ寄せを農村が受ける形となった。「故郷には傾いた家と、麦の生え揃った上を雪が降り埋めている幾段幾畝の畑と、そして永い苦闘の思い出」があるが、まだブラジルの方がましかもしれないと、その故郷の家も畑も売り、家財道具を人手に渡して移民募集に応募した人が大半だった。

こうして1933、34年には移住者は年間2万人にのぼった。

『蒼氓』に登場する移民のほとんどは東北出身者だが、沖縄はさらに貧しかった。『蒼氓』の物語の6年後の1936年、上原幸啓さんが神戸からブラジルに向かった。当時まだ8歳だった。上原さんの回顧談が交流センターのビデオに収録されている。(収録は10年前)

上原さんは父母と8人兄弟。上の兄2人と姉2人はすでにブラジルに渡っていた。上原さんは伯母一家の連れ家族として移民の一員になった。神戸に向けて那覇港から出港するとき、父と母がゆっくりと進む船に合わせて波止場の端まで見送ってくれたのが今も頭にある、という。

さんとす丸で神戸港をたったのは11月14日。遠ざかる六甲の山並みが脳裏に鮮明に刻まれている。12月18日、サントスに着き、移民収容所に入れられることなくそのままパルミタールという所のコーヒー園に向かった。住居はレンガ造りだった。

この農園での労働について上原さんはひと言も語っていない。私は「ジャポネス・ガランチードス」と上原さんが言ったことに注目した。上原さんによると「日本人はバカ正直」という意味に使われたという。やゆされるくらいに日本からの移民の多くは懸命に働いたのだろう。上原さんはそうした一人にちがいない。サンパウロ大学名誉教授で収録当時はブラジル日本文化福祉協会会長。上原さんは典型的な成功者なのだ。

神代の時代に逆戻り

戦前の移民はすでに述べたように金融恐慌にともなう農村の疲弊が背景にあった。経済が破綻した戦後、食いぶちを求めてブラジル移民をした人は少なくなかった。戦後、移民の実務を担った財団法人日本海外協会連合会(海協連)の輸送助監督として南米に出張した若槻泰雄氏が戦後移民の実態をまとめ、2001年、『外務省が消した日本人――南米移民半世紀』のタイトルで毎日新聞社から刊行した。以下は若槻氏のレポートである。

若槻氏は1954年、新造になった移民船「ぶらじる丸」で出張。移民約800人が乗っていて、うち半数はアマゾン川中流のベルテーラが目的地だった。ブラジル政府直営試験農場の雇用労働者に応募したのだ。船は神戸港を出港し、1カ月後にアマゾン川河口のベレン市の沖合に投錨した。

受け入れ責任者であるアマゾン産業の日本人社長が船に乗り込み、移住者募集要項に記載された日当が3分の2に減ると説明。さらに「まだゴム林になっていない原始林の中に入れば、ヤシの実が落ちている。これを拾って売れば金になるし、食料のたしにもなる」と述べたことから、「落ちた木の実を拾って飢えをしのげというのか」と、移民たちの怒りが爆発。下船拒否の挙にでたが、結局「違約であることを知っている者をゴム農場まで同行させる」ことを条件に農場に向かうことにした。この同行者が若槻氏だった。

移民たちは川船に乗り換え、6日かかってベルテーラに着いた。この間、他の船とすれ違うことはなく、岸辺に一日に1、2軒のヤシの葉でふいた小屋を見かけただけだった。受け入れ責任者の言葉に殺気だっていた人たちも、一日、二日とたつうちに怒ることも泣くこともやめて、ただ茫然と原始林を眺めていた。

ブラジル国立ベルテーラ・ゴム試験場はフォード自動車が創設したもので、診察所や学校もあり、小さいながらも住宅が用意されていた。

若槻氏は移民たちと別れてアマゾン川中流の都市・マナウス市の対岸にあるマナカプルー移住地に向かった。20代の青年がもんぺ姿の奥さんと現れ、「土は砂混じり。野菜ができず、できたところでマナウスまで運ぶのが一苦労。携行資金がなくなり、赤ン坊に飲ませるミルク代もなくなった」と嘆いた。彼は「郷里にはうんといいことを書いて、みんなをこの地獄に引きずり込んでやる」と自暴自棄気味だ。次に若槻さんが訪れた移住地でも、悩みは「作物がほとんどとれない」だ。そして全員が「せっかく作っても売ることが出来ない」と声をそろえた。

マナウス市から数百キロ離れたモンテアレグロ近くの入植地では男性の一人が「神代の時代に逆戻り」といった。原始時代というのだ。病院がないこの入植地では、病人が出ると通りかかる船を呼びとめる。「船が通るまで2週間かかったことがあった。船に乗っても700キロもあるので1週間もかかり、重病人は死んでしまう」と男性。学校はあるが先生はいない。移住者募集要領に「小学校」と記載されていても、教育は存在しないのだ。

こうしたアマゾンの出張訪問を終えてリオデジャネイロに到着したとき、ベルテーラに落ち着いたはずの移民400人がゴム試験場から追い出された、との情報が届いた。ブラジル政府は「日本移民はアマゾン開拓地の自営農として受け入れるのであって、試験場の雇用労働者として受け入れるのではない」との立場をとっており、移住者たちは荷物を解く間もなく、20~30家族から十数家族単位でアマゾン各州の開拓地に分散移住させられた。

日当が約束と違っていただけでなく、そもそも基本的な移住の目的が違うという事態に直面した移住者たち。「日本政府に裏切られたのだ。ベレンの日本領事館は何をしていたのか」と若槻氏は外務省に怒りをぶつける。

若槻氏によると、アマゾンに散在する地方都市の人口は、州政府所在地であっても数万に過ぎないうえ、住民たちに野菜を食べる習慣がなく、作物が売れる量にも限度がある。そもそも人口の60~80%は市場経済の外にあり、零細農業にならざるを得ない。

移住者の一人が若槻氏に吐くように言った。「コショウのような国際市場に出せる農産物がないこんな所で食っていけるか。一体われわれに何を作れというのだ、日本政府は」。生活できるあてがないのに送り出した移住政策。これが「棄民」でなくてなんだろう。

根づいた高知の雪割り桜

本稿の最後に、『蒼氓』後の移民収容所にふれておきたい。「国立移民収容所」の名では捕虜収容所と誤解されるとして、「海外移住教養所」に名称変更した後、「外務省海外移住斡旋所」に変わり、1964年9月、神戸海外移住センターになった。

1971年5月、最後の移民船ぶらじる丸が109人を乗せて神戸港をたつと移住センターは閉鎖された。鳥取支局の支局長が『蒼氓』を話題にしたのは、時期からみて「最後の移民船」がニュースになったからだろう。私はその記憶がなく、なぜ支局長がこの話をしたのか不思議だった。

ところで神戸海外移住センターに名が変わった1964年は東京オリンピックの年だ。71年は大阪万博の翌年である。この間は我が国の経済成長のピーク。経済成長がブラジル移民の必要性がなくなったことを示している。それは同時に、ブラジルに渡った日系人の祖国への意識も変わることになる。よくも悪くも、「自分または親の祖国は経済大国」との思いが誇りとなり、日本文化へのあこがれになった。

日系人の間から「お花見がしたい」との声がでたのは70年代の前半だ。『蒼氓』のなかの、移民たちがチェーホフの『桜の園』の桜を伐る音を思い出していた、とのくだりはすでにふれた。日系の人たちの多くは桜への強い思いを心の底にだきつづけていたのだ。日本のあちこちからソメイヨシノをはじめ様々な桜の苗を取り寄せて試植した。どれもこれも根を張らなかったが、高知県須崎市の雪割り桜だけが根をつけた。1977年8月、サンパウロ市郊外のカルモ公園に桜の園がオープン。着物姿で俳句を詠む姿が見られたという。

同公園の桜はいま4000本にのぼる。8月初めの雪割り桜が開花する日に合わせて毎年桜まつりが開かれている。

カルモ公園で桜が初めて咲いたとき、石川は71、2歳。健在だった。知っていたのかどうか。『桜の園』はチェーホフが最晩年の1903年に書いた戯曲。借金返済のため売りに出された桜の園の物語だが、カルモ公園の桜は、貧しさのゆえにブラジルに移民した人たちが、自分たちの力で取り戻した桜の園といえるだろう。

ブラジルの日系人は今150万人にのぼる。混血は現在45%だが、30年後には90%になるとみられる。今年7月21日、サンパウロ市でブラジル移民110周年記念祭典が催され、8月3~5日、第40回カルモ公園桜まつりが開かれる。日本人としてのDNAの象徴のようなカルモ公園の桜。サンパウロ大学名誉教授にまでなった上原さんのような成功者にとってはこの上なく華やかな桜だが、芽が生えることすらなく絶望の淵に落ち込んだ人たちが少なからずいたことも忘れてはならない。(了)

 

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