2018autumn びえんと《非業に倒れた政治家・山宣 ―暗黒政権下の抵抗魂― 》Lapiz編集長 井上修身

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今年3月、東京の中学校で行われた性教育授業に対し、自民党の都議が「不適切」と都議会で発言したことが、「教育への不当介入」との批判を受けた。この報道に私は「山宣」を思いだした。労農党衆議院議員、山本宣治である。治安維持法の改変阻止運動をしていた1929(昭和4)年、右翼の暴漢に暗殺された。その山宣の不屈の生涯を描いた映画『武器なき斗い』を61年冬、高校1年生だった私は大阪の映画館で見た。山宣が農家の主婦たちに避妊方法の説明したところ、主婦たちが恥ずかしがる場面を鮮明に覚えている。山宣は政治家になる前、生物学者として貧しいひとたちに性についての啓発運動を進めていたのだ。最近になって、この映画の原作が作家、西口克己氏の『山宣』であることを知った。2009年に新日本出版社から復刻出版されており、取り寄せて読んだ。山宣が非業の死を遂げて今年90年目になる。自由な言論を封じて反政府運動を弾圧、侵略戦争へと進みつつあった昭和初期。読み進めると、その危険な道を今再び歩もうとしているように思え、戦慄をおぼえた。今こそ山宣のような闘い抜く政治家が求められる。

治安維持法の改変に反対

山宣(山本宣治、1889~1929)の39年の短い生涯をまず押さえておきたい。
京都・新京極でワンプライスショップ(アクセサリー店)を営むクリスチャンの一人息子として生まれ、神戸中学に入学したが、体が弱く中退。両親が宣治の養育も兼ねて宇治川畔に建てた別荘で、花作りをしながら育った。06年から1年間、大隈重信邸に住み込んで園芸修業をした後、カナダのバンクーバーにわたり、5年間、皿洗い、サケ獲り漁師など職業を転々。そのかたわら小学校、中学校に通い、英語力をつけた。
11年、父が病気のために帰国、12年に同志社普通部4年に入学。この間、ダーウィンの『種の起源』『進化論』などを読み、キリスト教の教えを単純に受け入れることに疑問をもちだした。結婚して長男が誕生したが第三高校に進み、さらに東大に進学。理学部動物学科で「イモリの精子発達」を研究した。大学卒業後、京大の大学院で染色体の研究を始めるとともに同志社大学の講師として、人生生物学などを講義した。
23年、京大理学部の講師になったが、子だくさんの貧しい人がさらに貧しくなっていく実態を目にして産児制限の必要性を痛感、農村や労働者の集まりなどで性教育の講演をして回った。こうした活動によって山宣は貧困が政治問題であることを認識、左翼系の運動家たちと知り合い、やがて山宣自身がそのリーダーになっていく。24年、京大を追放され、大山郁夫らがつくった「政治研究会」の京都支部設立に参画。26年、同志社大学を辞めさせられた。
26年3月、京都地方全国無産党期成同盟に加わったのにつづいて5月、労働農民党(労農党)京滋支部に参加。27年5月、衆議院京都5区(亀岡市など)から労農党公認で出馬した。この選挙は普通選挙が施行される以前の投票人が制限された補欠選挙で、結果は落選。同年12月、労農党京都府連委員長に就任した。
28年に実施された第1回普通選挙に京都2区(京都南部)から立候補。1万4412票を獲得して当選した。大山郁夫は落選し、労農党からの当選者は水谷長三郎と2人。山宣は非合法だった共産党の推薦を得ており、水谷とは立場を異にしていて、事実上1人だけの議会活動となった。
当時、帝国議会では治安維持法改正案が上程されていた。29年3月5日、山宣は衆議院で反対討論を行おうとしたが、与党政友会の動議によって強行採決され、討論できないまま可決された。その夜、山宣は神田の旅館で右翼団体「七生義団」に属する右翼に短刀で刺殺された。
宣治の墓碑は宇治の一角に建てられた。しかし、墓ではなく記念碑としてしか認められず、碑文もセメントで塗りつぶすよう命じられた。塗りつぶすたびに何者かにはがされる、ということをくり返し、45年12月、戦後最初の追悼前夜祭でセメントが取り外された。

右翼による暗殺

西口氏の『山宣』は小説の形をとった評伝である。単行本で380ページの長編だ。このクライマックスは衆議院議員の山宣が治安維持法改変に反対し、討論に持ち込もうと知恵をめぐらし、その夜、右翼に殺される悲惨な場面である。山本氏の筆致をたどりながら、1929年という時代を考えたい。
その前年の1928(昭和3)年の出来事を『昭和史全記録』(毎日新聞社)でみる。日本共産党「赤旗」創刊宣言(2月1日)、初の普通選挙(2月20日投票)、三・一五事件=共産党員千余人一斉検挙(3月15日)、労農党解散命令(4月10日)、満州某重大事件=張作霖爆死事件(5月18日)、治安維持法改正案が枢密院本会議で可決(6月29日)、特高充実強化(7月1日)、御大典=昭和天皇即位式(11月10日)、新労農党結社禁止(12月22日)――などがある。
「赤旗」創刊宣言は「全勤労民衆のあらゆる革命的闘争を指導し組織する任務を最も忠実に最も勇敢に遂行」というものだ。すでに決まっている普通選挙を実施する一方で、秋に予定される御大典を成功させたい田中義一内閣は、左翼政党と労働者、農民の反政府運動を徹底的に弾圧しなければならない、と強硬姿勢をとったことが浮かび上がる。同時に「満州某重大事件」という謀略事件をつくり、中国侵略の第一歩を踏み出したのもこの年だ。天皇中心国家―左翼弾圧―中国侵略。この3点がワンセットだったことが読みとれる。こうしたなかで行われた普通選挙は、民主政治にみせかける飴玉にすぎなかった。
とはいえ、山宣はその飴をあえてなめてでも、権力に対し孤軍奮闘するしかなかった。
権力が反政府運動を封殺するための法的武器は治安維持法である。1925(大正14)年、同法で「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス」規定。要するに天皇制と資本主義体制に反する運動は認めない、というのだ。田中内閣は「10年以下」ではまだ甘いとみた。「死刑又ハ無期若ハ五年以上」と法定刑を引き上げ、政権に刃向かう者には死刑にして葬り去ろうという強圧策を打ち出した。
『山宣』によると、山宣は「本議会において近く治安維持法が改正上程される。これこそは日本における労農大衆の運動を根こそぎ無力にしようとする白色テラーの合法化だ」と、議会内での改変阻止に向けての強い決意を、労働農民新聞を通じて公表した。
西口氏は「宣治のこのアピールは決して筆先だけのものでなかった」という。2月8日に行った《拷問・不法監禁に対する質問》こそ「彼の代議士としての役割と、政府の醜態きわまる偽善ぶりとを、まさに文学的ともいえるほどの見事さで浮彫にした歴史的質問だった」と西口氏は記す。
その質問は三・一五事件で検挙された共産党員に対する拷問を取り上げたもので、函館警察署での取り調べについて、「コンクリート建ての洗面所か浴室のような所に、冬の寒風に真裸で四つ這いさせられて、(刑事が)竹刀で殴って這い廻らせ、《もう》と牛の鳴き声をいわせ、床を舐めさせた」などと、非人道的な扱いを具体的に示して、政府を追及した。これに対し、政府委員は「日本の警察行政の範囲内において、断じてない」と木で鼻をくくったような答弁を繰り返したしただけだった。
右翼団体の男に旅館で襲われて山宣が最期を迎えたときの西口の筆は真に迫っている。最初は首を切られ、血まみれのままもつれあう。階段から逃げようとする男の袂を山宣はつかんでいたが、その縫い目が裂けた瞬間、男は心臓の真ん中を突き刺した。以下は『山宣』より。
のけぞりざま、宣治は、それでもなお相手の袂を放さなかった。不屈だった。人間わざではなかった。?袍の血糊を壁になすりつけながら、ダダ、ダ、と男に喰いついたまま一気に階段を下りた宣治は、玄関の漆喰土間の中央で、最後にすくっと仁王立ちになった。そのとき、もはや彼の全身の血管には、流すべき一滴の血も残っていなかった。彼は、自分の流した血の海に足をすべらせ、斜めに?を投出すようにして倒れたのであった。
その前歯は、いかにも無念そうに板の間を噛み、その右手は、男の残して行った袂を、強く握りしめていたのだった。……

保守政治家の教育介入

映画『武器なき斗い』を見たのは61年1月だった。60年10月12日、東京・日比谷公会堂で開かれた三党首大演説会で演壇に立った浅沼稲次郎社会党委員長が、右翼団体「大日本愛国党」の元党員の少年に刺殺された。映画はその直後に公開され、話題を呼んでいた。山本薩夫監督作品で、山宣は下元勉、妻千代は渡辺美佐子が扮した。ほかに宇野重吉、山本学、河原崎長十郎らが出演した。
私は高校に入学して2カ月後の60年6月、大阪・御堂筋での安保反対デモにともに参加した同級生に誘われて映画館にいったのだった。
冒頭に述べたように、主婦らに性教育を施す場面以外にほとんど内容を記憶していない。映画を見たことすら忘れていた。私の記憶の奥底にかすかに残っていた断片が、都議の性教育批判の報道からふっと脳裏に浮かんできたのだ。
4月5日付東京新聞の電子版によると、東京・足立区の中学校で「自らの性行動を考える」という人権教育の一環として授業が行われ、教育関係者や保護者にも公開された。この授業では、若年層の望まない妊娠が貧困につながるなどの社会問題化していることを踏まえて、「産み育てられる状況になるまで性交を避けるのがベスト」と、現在の中学生に必要な知識を教えたという。
この授業に対し、自民党の古賀俊昭都議が3月16日の都議会文教委員会で「発達段階を無視した不適切な性教育ではないか」と追及。都教委は「性交の言葉は保健体育の学習指導要領に示しておらず、高校で扱う内容」との認識を示した。これに対し、性教育を実践する教職員や大学教授らでつくる「“人間と性”教育研究協議会」は「教育への不当介入」と判断。代表幹事の一人は「中学生に性や避妊の知識を教えるのは国際標準」と話している。
子だくさんな貧乏人が子を産み、さらに貧困になるという現実を前にして、山宣が避妊の必要性を感じていたことはすでにふれた。山宣と同じことを、足立区の中学校の先生がやろうとしたのだ。山宣の時代は大人の問題だった。現在はそれが中学生の問題になってきたのだ。性の低年齢化はいま驚くべきスピードで進んでいる。深刻ではあるが、性の低年齢化問題は本稿のテーマではない。保守党の政治家の体質が山宣の時代となんら変わっていないことをここでは指摘しておきたい。
教育介入といえば、前川喜平・前文部科学省事務次官が今年2月、名古屋市の中学校の総合学習の時間に講演したことに対し、赤沼誠章・自民党参院議員が「国家公務員違反者が教壇に立てるのか」と同省に問い合わせ、同省が名古屋市教委に授業内容を報告するよう求めた。地元紙が報じたことで明らかになり、名古屋市の河村たかし市長は「思想統制につながる」と不快感を示した。
この二つの学校教育への介入をみれば、「政府のいう通りの教育以外は一切まかりならん」との保守政治家の国家主義的な姿勢が教育界を覆いつつあるのではないか、と危惧しないわけにはいかない。
これは教育の世界だけの問題だろうか。安倍政権は2014年7月、憲法9条の解釈を、閣議決定で集団的自衛権行使が出来ると変更し、地球の裏側へも自衛隊が「アメリカとの集団的自衛の行使」と称して出動できるようにした。また17年には共謀罪の要件を改めてテロ等準備罪を創設、一般市民でも犯罪者とされる恐れがある時代となった。
こうみると、教育統制は人権制限、軍備拡大の一環であるといえるだろう。今、山宣が生きた恐怖の時代への入り口に立っているといっても過言でない。山宣は、治安維持法の改変について「この法律を通すことは、民衆を弾圧し、民衆を盲目にし、その盲目にされた民衆を駆り立てて、支配者のための戦争への道をひらくことである。しかもその戦争は、まさにその性質ゆえに、日本の民衆に測りしれぬ犠牲と惨憺たる不幸をもたらす敗戦におわるであろう」と予見したという(『山宣』)。
実際、この通りになった。二度と同じ誤りを繰り返してはならない。戦争が終わったとき、ほとんどの日本人はそう思ったはずだ。
山宣の言葉を現在風に翻訳するなら「集団的自衛権行使容認や共謀罪改変は民衆を弾圧し、民衆を盲目にし、戦争への道をひらく」ことである。それは「計り知れない犠牲と惨憺たる不幸をもたらす」結果になることは歴史が教えている。山宣から学ぶべきことは決して少なくない。

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