2018autumn 編集長が行く《狭山事件の現場周辺を歩く》井上脩身

――55年前を覆い消す新興住宅地――

今年5月18日、新聞の一面を使って意見広告がだされた。「決めての証拠ねつ造が明らかに、と大きな見出しが躍り、「東京高裁に鑑定人尋問を求めます」との要望が大きな活字で書かれている。狭山事件の再審を求める意見広告だ。このページの左隅に「獄友」と書かれたパンフレット写真が載っていて、その横に「映画『獄友』の自主上映を」の小さな見出しがついている。獄友というのは狭山事件の犯人とされた石川一雄さんら5人の冤罪被害者のことだ。私は6月初め、横浜の映画館で『獄友』を見た。「無罪を勝ちとるまで死ねない」とジョギングで体力をついえる石川さんが印象的だった。この2週間後、狭山事件の現場周辺を歩いた。

意見広告に思いのたけ

狭山事件の意見広告の概要は以下の通りである。
狭山事件は1963年5月1日に埼玉県狭山市で起きた女子高校生殺人事件、と前置きし、身代金をとりに来た犯人を取り逃がした警察は、被差別部落に見込み捜査を集中、無実の石川一雄さん(当時24歳)を別件逮捕し、拷問的な取り調べでウソの自白をさせた、と権力犯罪であることを指摘。一審・死刑、二審・無期懲役判決を受けた石川さんは31年7カ月の獄中生活の後、仮釈放され、55年たった今なお無実を訴え東京高裁に再審を求めている、と報告している。
無実の根拠として①万年筆はニセモノ②筆跡は99・9%別人――の二つを挙げる。①については、有罪判決では石川さん宅から発見された被害者のものとされる万年筆が重要な証拠とされたが、成分分析の世界的な権威である下山進博士がこの万年筆のインキを分析、鑑定し、被害者のものでないことを科学的に証明した。捜査官が、被害者のものでない偽物の万年筆を石川さん宅に置いて証拠をねつ造したことが明らかになった、とした。②については、犯人が被害者宅に届けた脅迫状と、石川さんが逮捕当日に書いた上申書の写真を添えて、裁判所は似ても似つかないこれらの筆跡を「同一」とする科学警察研究所の鑑定を「信用できる」として有罪の根拠にしたが、東海大学の福江潔也教授がコンピューターで筆跡の比較鑑定を行った結果、真犯人と石川さんは「99・9%別人」だった、としている。
このうえに立って、「狭山事件では有罪判決以来、44年間一度も証拠調べが行われていない。『石川犯人』ありきの恣意的な判断はこれ以上許されない。東京高裁は、ただちに下山、福江両鑑定人を法廷に呼び、真実を究明すべきだ」と訴えている。
この意見広告に異彩を放っているのは、石川さんが昨年の大みそかに詠んだ短歌とともに、天を仰ぎ見る石川さんの写真が添えられていることだ。
除夜の音に心に秘めて誓いたて 55年の今時に懸け
この短歌の脇に「これが最後の闘いとの決意で臨んで参りますので、皆さん方も最大限のご協力を下さいますようお願い申し上げます」という石川さんの支援を求める言葉が掲げられている。
意見広告の呼びかけ人として30人の名が紙面の下段に連ねられている。このなかの大口昭彦弁護士の名に私の目が留まった。
大口弁護士は1966年1月、学費値上げ反対運動に端を発した早稲田大学紛争で、全学共闘会議の議長として学生運動をリードした経歴の持ち主だ。紛争は泥沼化し、学生側はバリケードで封鎖してたてこもった。これに対し大学側は機動隊を導入させてピケ学生を強硬排除して半年間つづいた紛争を終わらせた。大口氏は除籍処分を受け、京都大の経済学部に入り直し、法学部に移って司法試験に合格した。
私はピケ要員として学内で徹夜し、早朝機動隊に囲まれながらデモをした一人だ。「我々は最後まで闘うぞ」と拳を高く突きあげた大口議長の精悍な顔を頭に浮かべた。彼はいま弁護士として石川さんを支援しているのだ。いささかの感慨をおぼえた。

請求中の第三次再審

事件発生からこれまでの裁判経過をまず押さえておこう。意見広告にある通り、事件が起きたのは1863年5月1日。狭山市の高校1年生、中田善枝さんが行方不明になり、同日、中田さん方に脅迫状が届く。3日午前零時、脅迫状指定の場所に犯人が現れたが、張り込んだ警察官がとり逃がす。同4日、善枝さんが死体となって発見され、23日、石川さんを別件で逮捕。25日、善枝さんが所持していた教科書、ノート類が発見され、6月21日、善枝さんのかばんを発見。同26日、石川さん宅の3回目の家宅捜索で警察は「善枝さんの万年筆を発見した」とし、石川さんの単独犯行の方針に切り替える。7月2日、同市内で腕時計が発見され、捜査本部は「善枝さんのもの」と発表。9日、埼玉地検は石川さんを起訴した。
同9月4日、一審初公判が開かれ、64年3月11日、浦和地裁は死刑を言い渡した。同9月10日、東京高裁で二審が始まり、81回の公判のすえ、74年10月31日、無期懲役の判決。77年8月9日、最高裁は上告棄却し、これに対する弁護側の異議申し立ても却下して判決は確定した。
石川さんは8月30日、第一次の再審を東京高裁に請求。80年2月7日、同高裁は再審請求を棄却。弁護側の特別抗告に対し、最高裁は85年5月28日、特別抗告を棄却した。続く第二次再審請求に対しても99年7月7日、同高裁は棄却を決定、2005年、最高裁は高裁決定を支持した。06年5月23日、第三次再審請求が行われ、現在係属中だ。
この間、二審の裁判中の1973年10月、石川さんの無実を訴える映画「狭山の黒い雨」(脚本・土方鉄、制作・狭山差別事件映画制作実行委員会など)が上映された。74年9月26日には東京・日比谷公園で総評、社会党などによる「9・26狭山闘争完全勝利。石川青年完全無罪判決要求中央総決起集会」が開かれ、末川博氏らによるアピールが発表された。76年5月には一審判決の不当を訴える映画「造花の判決」が製作された。
石川さんは1994年12月21日、千葉刑務所から仮出獄している。
私は新聞社の奈良支局にいた1976~77年に被差別部落の担当になった。上告審中の狭山事件は、警察・司法担当だけの業務にとどまらず、差別問題の観点で私もかかわることになった。
私の担務でいえば、76年1月に大阪と奈良で実施された1万人の小・中学生の「狭山同盟休校」が5月22日には全国1500校10万人に広がるなど、部落解放同盟などによる「狭山差別裁判糾弾」の動きは大きなうねりとなっていた。77年1月、日高六郎、佐木隆三、佐々木哲蔵、青木英五郎、野間宏の各氏らが呼びかけ人となって「狭山事件の公正裁判を求める会」が発足し、法律家だけでなく作家らも「部落差別による冤罪でないか」と懐疑しはじめていた。
私は狭山裁判に関する書物を手当たり次第に読みだした。そのなかで、最も印象に残ったのは作家、野間宏の『狭山裁判』(集英社、1977年12月刊)だった。野間は同書の前がきに相当する「狭山裁判と私」のなかで「(二審、東京高裁の寺尾正二裁判長による)この判決文を手にとる、普通の読者、またかなりの読書力をそなえた人にしろ、三分の一のところで投げだすならば、石川一雄被告は犯人であると、この判決文によって信じ込まされて、そして、そのまま終わることになるのである。これを放置することは出来ないという考えが私のうちに動きはじめる」と、本にまとめる動機を書き「この狭山裁判における部落差別の問題を、公判調書のなかにさぐり、じつに多くの差別捜査、差別取調べが行われているのを明らかにすることが出来た」と、この裁判の差別性を強調している。

でっち上げの決定的証拠

『狭山裁判』は上下各400ページに及ぶ大著だ。細かく紹介することはできない。「意見広告」で取り上げた万年筆と筆跡について、原審段階の証拠を野間がどのようにとらえたかをみてみたい。
この裁判では腕時計、かばん、万年筆を石川さんの犯行と裏付ける「三大物証」とされた。
まず腕時計。捜査のための公開資料として書き込まれた時計の品触れの側番号が、発見された時計のそれと異なっている点について、証人として出廷した警察官は「品触に書いてある側番号はその時借りてきた類似の側番号で、誤って入れてしまった」と証言。ところが別の証人は、善枝さんの時計の保証書を領置したことを認めており、誤って書きいれたのでないことが判明。野間は「証拠物とされた時計は善枝さんの時計でない」と看破した。そして「石川被告の自白がいつわりの自白であることを示す」と断定した。
次いでかばん。茶色の学生用革かばんは麦畑のそばの溝の中から見つかったとされた。捜査資料ではかばんの下に牛乳瓶、ハンカチ、白色三角巾があった。石川さんの自白には牛乳瓶、ハンカチは出てこない。野間は「かばんもまた警察官によって埋められた」とみる。
最後に万年筆。石川さん宅の家宅捜索は5月23日、6月18日、同26日の3回行われ、この3回目で発見されたことはすでにふれた。
1回目は午後4時45分から7時過ぎまで12人で行われた。この時、天井裏から床下までくまなく調べられ、もちろん勝手場も捜索されたが万年筆は見つかっていない。6月18日はさらに2人増やして2時間捜索。屋根裏まで探したが、万年筆は発見されなかった。
問題の6月26日の捜索。午後3時過ぎに3人だけで万年筆や犯行時に使用したと思われるゴム長靴などの発見を目的に行われ、3時半のちょっと前ころに勝手場の出入り口の戸の鴨居の上から見つかった、という。公判で捜索に当った警察官は「3人では探し終えないので家の人に立ち会ってもらうことにした」と述べた。初めから鴨居の上に万年筆があることを知っていたことを隠すため、家族を巻き込んだうえでの捜索だと思われた。もうひとつの問題は1、2回目の場合、捜索の基本通り手袋をはめて行われた。ところが3回目は手袋をはめていない。野間は「万年筆に石川被告の指紋がついてないことを知っているからだ」と判断した。
万年筆についてはインクも問題になった。善枝さんのインク瓶に入っているインクも日記や手帳に書き込まれた文字のインクもライトブルーだが、発見された万年筆のインクはブルーブラックだった。こうした点を併せて、野間は「善枝さんのものでない万年筆が巡査によって石川さん宅の鴨居の上に持ちこまれたことを示している。インクの色まで調べぬく細心の注意を怠ったため、醜悪な馬脚をあらわした」と皮肉を交えて証拠をでっちあげた捜査の非道さを突いている。
一方の脅迫状。大学ノートに横書きで「子供の命がほ知かたら五月2日の夜12時に金二十万円女の人がモツてさのヤの門のところにいろ」(一部棒線を引いて書きなおしている)と書かれている。公判では埼玉県警鑑識課員が証言台に立った。鑑識課員は「筆跡鑑定に10日間かけた」と証言。さらに科学警察研究所からの「上申書の筆跡は脅迫状の筆跡と一致する」との中間回答を受けて、県警は石川さん逮捕に踏み切った。
野間は石川さんのことを知る人から以下の話を聞いている。
「石川さんが逮捕されて4、5日後、石川さん方を訪ねると、一片の紙を渡された。何が書いてあるのか、全く読めなかった。家の人にいわれて、石川さんが洗濯ものを警察にとりにきてほしいという意味のことだとわかった

野間さんはこの聞きとりから「石川被告の書く字は字といえるようなものでなく、家人にだけ判読できる暗号に近いもの。脅迫状を書くことなど不可能であることを明らかにしている」と結論づけた。

農道脇の不思議な穴

野間が『狭山裁判』のなかで示した冤罪の根拠を、「意見広告」の記述と重ね合わせると、原二審裁段から何ら司法はその指摘に真摯に耳を傾けず、40年以上もの時間を費やしてなお再審請求にも応えず、たな上げにしようとしていることがわかる。
私は30年近く前、狭山事件の現場を歩いたことがある。石川さん宅をはじめ、石川さんが善枝さんを強姦して殺したとされる林や、死体発見現場などを尋ねまわった。当時、大阪の新聞社にいた私は、東京への出張の合間を利用したに過ぎないので、十分な時間がとれず、「ここがまさにその現場である」と断定できるには至らなかった。だが、事件現場一帯は茶畑が延々と広がっていて、普段は静かな農村の住民にとって目も耳もふさぎたくなるような凶悪事件であることを肌で感じ取ることができた。
30年前のイメージを脳裏に浮かばせて6月半ばの梅雨の晴れ間に狭山を再訪した。
西武鉄道の狭山市駅で降りたときから、景色は以前とすっかり変わっていた。以前はどのような駅舎であったかはさだかでないが、駅ビルがある現代風の駅ではなかったように思う。私は事件発生当時に作られた地図を手にして駅前のロータリーの脇を歩きだした。
この地図には死体発見場所、かばんなどの発見現場、犯人が脅迫状のなかで身代金受け渡し場所としていした佐野屋、善枝さん宅、石川さんが善枝さんと最初に出会ったとされるガードなどが記載されている。私は石川さん宅や腕時計発見現場も書きいれ、これらの一つひとつをチェックしていくつもりだった。
30年前同様、狭山市駅からそう遠くない石川さん宅を探すことから始めた。だが、歩きだしてすぐに断念せざるを得なくなった。前に歩いたときは事件当時の家が残っていて、石川さんの家と確認できなかったにせよ、石川さん宅を彷彿とさせる古い家は少なくなかった。ところが今回、古い家は全く姿を消している。事件当時の石川さん宅に向かう道を進もうにも、どの道も様変わりしている。というより、どの家も新築の建売住宅がずらっと軒を接していて、同じような道にしか見えない。それでも探してみる。迷路に入り込んだようだ。元石川さん宅は見当たらない。
私は狭山市駅に戻って策を練り直すことにした。電車の線路は昔と変わらない。ガードの位置も変わっていないだろう。線路沿いにガードを探した。おおむね予想したところにガードがあった。が、どうもおかしい。古い写真をみるとガードの下はせいぜい幅3、4メートルの道だ。ところがこのガードの下は2車線道路。周辺をたずねた。幸い、そう道が広くないガードがあった。かつての写真とは少し違っているが、ガードが修理されたのかもしれない。
ここから真っすぐ伸びる道を行けばかばんの発見現場に行けるはずだ。だがやはり道は途中で折れ曲っている。真新しい高齢者介護施設がある。この辺りのはずだが、と首をかしげるしかない。この辺りの住宅街に入りと、道がくねくねと曲がり、あちこちで行き止まりになる。磁石を手にしていたが、自分がいまどこにいるのかすら分からなくなった。
いくつかの住宅街をさ迷っているうち、公園として整備された林に入り込んだ。整備といっても5、6個のベンチが置かれているだけだが、太い木に見覚えがあるように思った。起訴状によると、石川さんは善枝さんを雑木林に連れ込み、立ち木を背負わせてタオルで後ろ手に縛って腕時計を奪った。この後、タオルをほどいて善枝さんを仰向けに投げ倒し、のどを押さえつけながら強姦したうえ、窒息死させた、とする。弁護側は「高校生が抵抗しなかったというのは不自然」などとして「明らかに虚偽自白」と主張したが、一審判決は検察側の主張通り認定した。
私は30年前に来たとき、強姦殺害をするには木々がまばら過ぎると感じた。事件当時、周りは田畑だった。農作業する人から林の内部が見えたはずだ。この辺りの地理をよく知っていた石川さんが犯人なら、わざわざこのような危険な場所を選ぶはずはない、と思った。
この公園は住宅街に囲まれていて、年老いた夫婦が横切っていった。いまは緑の多い憩いの場なのだ。
仮にこの公園が犯行現場ならば死体発見現場はそう遠くないはずだ。公園から新興住宅地を通り抜けると、幅、長さがそれぞれ200㍍にわたって畑が残っていた。その中央を農道が貫いている。農道の脇の空き地に縦長の穴があるのに気づいた。長さ約7メートルにわたって斜めに掘り込まれていて、深いところは深さ約1メートル、長さ2メートル。幅は約70センチ。まるで死体が埋められた跡のようだ。
もちろん実際に発見された現場がそのまま保存されているはずがない。ではだれがなんの目的でこの穴を掘ったのだろうか。尋ねてみようとしばらくその場にいたが、だれも通らなかった。
こういった次第で炎暑のなか、4時間余り歩きまわったが、事件の痕跡を見つけ出すことができなかった。新興住宅街という開発の波にのまれた狭山事件の現場一帯。それは経済成長という蓋で覆い隠してしまった、というのが、私が受けた印象だ。
帰りの電車のドアの上のモニター画面で袴田事件の再審開始決定取り消しのニュースが流れていた。画面に袴田巌さんが映っている。私は映画『獄友』の一場面を思い出していた。

冤罪4事件の獄友

『獄友』は金聖雄監督が製作した今年公開のドキュメンタリー映画。石川さん(獄中31年7カ月)、袴田さん(同48年)、足利事件の菅家利和さん(同17年6カ月)、布川事件の桜井昌司さん、杉山卓男さん(いずれも同29年)の5人の「獄友」の出獄後を描いた作品だ。
狭山事件は本稿で述べてきた通りだ。袴田事件は1966年、静岡市清水区のみそ製造会社の専務宅から出火、焼け跡から専務と妻、次女、長男の4人が他殺体で見つかった事件。元プロボクサーで住み込み従業員の袴田さんが逮捕、起訴された。袴田さんは無罪を主張したが80年に最高裁で死刑が確定。第一次再審請求については2008年、最高裁で再審不開始が確定。第二次再審で14年、静岡地裁が再審開始を決定するとともに袴田さんの拘置を取り消した。だが東京高裁は6月11日、地裁決定を取り消して再審請求を棄却。拘置執行停止は取り消さなかったので、袴田さんは石川さん同様、無罪にはなっていないが行動の自由は保たれている。
足利事件は1990年、栃木県足利市の渡良瀬川の河川敷で4歳の女児が死体で見つかった事件。1年半以上がたった91年12月、菅家さんが逮捕、起訴され、2000年、無期懲役刑が確定。02年から再審請求審が始まり、09年、女児の下着と菅家さんのDNA不一致との鑑定結果を受けて、東京高検が「無罪を言い渡すべき明らかな証拠が新たに見つかった」と異例の無罪主張をし、菅家さんを釈放。10年2月、再審で無罪が確定した。
布川事件は1967年、茨城県利根町で独り暮らしの大工の男性が殺された事件。桜井さんと杉山さんが強盗殺人容疑で逮捕され、78年に無期懲役が確定。96年に釈放された後の2001年に行った再審請求で「うその自白をさせられた」との主張が認められ、05年、再審開始が決定。11年5月、無罪が確定した。
5人はいずれも千葉刑務所に収監された。その時期が共通しているわけでなく、時期が同じでも棟が違っていたりで、収監されている時に顔見知りだったわけでない。しかし、冤罪を闘っていることを知り、仲間意識を共有していたという。
私は狭山事件のほか、袴田事件、足利事件の現場を訪ねている。布川事件の桜井さんは、同事件を扱ったドキュメンタリー映画『ジョージとタカオ』が11年6月に神戸の映画館で上映された際、劇場に駆け付けて講演した。私はこの講演を聴いていて、「裁判官は真実の声を聞こうとしなかった」と早口に語った桜井さんのざっくばらんな人柄を好ましく感じた。
私は『獄友』を見ながら、5人の共通項は単に刑務所が一緒だったにとどまらず、共通の冤罪の構図にあったことに思いをめぐらしていた。
その第1は証拠のでっち上げだ。
狭山事件では被害者の腕時計とされるものが、過去2回の家宅捜索で見つからなかったにもかかわらず、突然、石川さん宅の鴨居から現れた。これが捜査当局による虚偽証拠であることを野間が指摘したことはすでにふれた。袴田事件では、袴田さんが「パジャマ姿で犯行に及んだ」と自白したにもかかわらす、起訴から1年もたってから、みそタンクから血がべっとりついた作業ズボンなど5点の着衣が見つかった。パジャマには血痕がごくわずかしかついておらず、これでは証拠力が弱いとみて証拠を偽造した疑いが濃厚だった。足利事件では、幼児の下着についていた精子と菅家さんのDNAが一致したことが動かぬ証拠とされ、「科学捜査の勝利」といわれた。ところが新たな鑑定で一致していなかいことが判明した。なぜ高検が異例の謝罪をしたのだろう。最初の「DNA一致」鑑定が虚偽であることが判明したからではないか、と私は疑っている。
布川事件はこうした物的証拠でなく桜井さん、杉山さんの虚偽自白が有力証拠になった。悲しいかな、石川さん、袴田さん、菅家さんも身に覚えのない自白をさせられている。自白に頼る捜査が冤罪の温床であるのはいうまでもない。
もうひとつ重要なのは、いずれもある差別感に基づく見込み捜査が行われたことだ。石川さんは被差別部落、袴田さんは住み込みの元ボクサー、菅家さんはわいせつビデオに夢中になる変質者、桜井さんは高校中退後定職につかなかった者、杉山さんは高校を退学させられ保護観察処分を受けた者――として、「あいつなら犯罪をしかねない」と捜査員が根拠のない予断と偏見を抱いていたのでは、と指摘されている。「狭山差別裁判」と呼ばれたが、袴田、足利、布川事件も差別裁判といえた。
野間は『狭山裁判』のなかで「狭山事件のなかでいかに部落差別によって捜査が行われ、検察がすすめられ、人権が無視され、さらにまた裁判が、大きく歪められることになったかを明らかにすることができた」という。だが、狭山事件はまだ無罪という最終ゴールに到達していない。石川さんは八十路の坂にさしかかる年になった。司法に正義があるなら、石川さんが元気である間に、晴れて無罪が言い渡されねばならない。