びえんと ニューカマー時代の母語教育~善元幸夫先生の授業から~ Lapiz編集長 井上脩身

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文部科学省役人の天下りあっせん問題の責任をとって2017年1月に辞任した元文部科学事務次官、前川喜平氏の『前川喜平 教育のなかのマイノリティを語る』が2018年9月、明石書店から刊行された。同書には「高校中退・夜間中学・外国につながる子ども・JGBT・沖縄の歴史教育」の副題があるように、それぞれの専門の6人の教育者との対談をまとめたものだ。私は書店でこの本を手にして、6人のうちの一人が善元幸夫先生であることを知り、強い感動をおぼえた。40年前、私が大阪の新聞社にいたとき、善元先生の授業を取材したからだ。20代の後半だった先生は、残留孤児の子どもを対象とした日本語学級の担任として、児童たちに真剣に向き合っていた。いま前川氏に注目される一人となった善元先生のその後の軌跡を知りたいと、ちゅうちょなく同書を買い求めた。そこに現代の教育の問題点が浮かび上がるのではないか、と思ったからだ。引き揚げ者学級の子どもたち

1972年の日中国交正常化により、中国残留孤児がその子どもを伴って帰国するようになったことを受けて、東京都は江戸川区の葛西小学校と葛西中学に日本語学級を設置した。大学を出たばかりの善元先生は葛西小の学級に配属された。
私がいた新聞社は1977年から「教育を追う」というシリーズものに取り組むことになり、東京本社内に教育取材班を設置。当時大阪本社の社会部に属していた私は同年10月から半年間、取材班の一員になった。
私たちに当てられたテーマは「国際化の中で」だった。担当デスクから私は、「国際化といえば日本人は欧米を思い浮かべる半面、韓国や中国への差別意識が今も消えていない。そうした点を掘り下げるように」と指示された。そのような現場はどこだろう、と調べているうち、葛西中と葛西小に日本語学級があることを知った。「引き揚げ者学級」とよばれていた。
私はまず葛西中にむかった。76年に日本語学級の全員が「非行少年」のレッテルをはられ、同校のPTAの間で「日本語学級排斥運動」が起きたと耳にしたからだ。
取材を進めると、韓国からの引き揚げ者の子のM君(17)が教師の襟首をつかんで「てめえわ……」とわめきちらしたことなどから、「自宅謹慎」の名目で登校停止になったことがわかった。学校の強硬措置の背景には、「うちの子がうるさくて勉強できないと言っている」「受験勉強に差し支える」から、はては「日本語学級なんかなくしてしまえ」という父母の声があった。
M君を都営住宅にたずねた。しばらく押し黙っていたM君がようやく重い口を開いた。
「悪かったと思ってる。だけど何かが起こると、すぐぼくらのせいにされる。教室の扉が壊れていたりすると、先生は『お前らがやったんだろう』だ。頭にきちゃってよ、カーッとなっちゃった」
「はじめはよ、みんなぼくの方をジロジロ見て。何を言ってるかよくわからなかったけど、そのうちわかったのよ。“チョーセン人、チョーセン人”って。バッカにしやがって」
最後にM君はこう言った。
「小、中学校を通じて、ぼくらの気持ちをわかろうとしてくれたのは日本語学級の先生だけよ。日本語学級がなければ、もっと早く追い出されてた」
こうしたM君の言葉もあって、私は次の取材先に葛西小学校を選んだ。
日本語学級の教室に善元先生がいた。その 善元先生の着任と入れ違いのようにI君(17)が同校を卒業した。I君は74年、中国から引き揚げ、同校の5年生に編入されたが、6年生になると学校にこなくなった。ほとんど登校しないまま卒業し、江戸川区内の日本語学級のない中学校に入学。しかしその学校にも登校していなかった。
善元先生は赴任した年の夏休みに、日本語学級の児童・生徒や卒業生に呼びかけ、長野県の白馬山麓でキャンプをした。I君にも呼びかけたが、彼は来なかった。先生はその後何度もI君のもとに足を運んだ。彼も少しずつ打ち解けるようになり、翌年のキャンプに自ら参加を申しでた。
キャンプの夜、I君は星座を指さして中国語でみんなに星座の説明をした。キャンプファイアでは、彼は中国語で「東天紅」を独唱。拍手を受けてニコッと笑った。善元先生がI君の笑顔を見たのはこの時が初めてだった。
帰りのバスでI君は善元先生にささやいた。「ぼくは天体が好きなんだ。中国の夜空を思い出して、日本ではぼくはダメなんだなあ、と思ったら、涙が出てきて仕方がなかった」
I君の言葉に善元先生はハッとした。
日本の教育に適用させようとするあまり、子どもたちの個性を押し殺していたのではないか。日本に帰ってきたのだから、日本語を使いなさい、日本のことを覚えなさい、中国語や韓国語を使ってはいけない、一日も早く日本人になりきりなさい。そう教えることが教育だと単純に考えていたことを善元先生は悔いた。
以上は、当時の私の記事のエッセンスだ。記事は『教育を追う④国際化の中で』(毎日新聞社)の中に「引揚者学級」として収められている。

総合学習の中での実践

自分で書いた記事を読み返してみて、私もハッとさせられた。いま日本には当時とは比べものにならないほど、多くの国々からやってきた子どもたちが教育を受けている。「一日も早く日本語を覚え、一日も早く日本人になれ」といわんばかりの教育を施しているのではないか。もしそうなら、M君やI君のような悲しい思いを子どもたちはさせられているのではないか。
善元先生はどのような教育をしてきたのだろう。
先生はのちに「総合学習」のエキスパートになり、自らの授業実践をまとめて2001年、『おもしろくなければ学校じゃない――善元流わくわくしちゃう総合学習』(アドバンテージサーバー)を出している。さっそく取りよせた。
総合学習の実践記録は目を見張るものだった。総合学習とは①子ども中心の発想で②課題中心の学習を③体験重視の学習方法で――行うものという。この「子ども主体」の考えは、「教師は黒板に向かうのでなく、子どもの中へ」と言い換えることができるだろう。実際、コメの学習という課題について、宮城県のコメ農家に話をしてもらい、学校でコメを栽培し、ついには減反問題を子どもたちが自ら研究するに至るプロセスは圧巻だ。私は60年以上も前の、教師の話をただ聴いていただけの小学生時代を思い起こすと、「善元先生に習いたかった」と心底おもった。
できるだけ多くの実践記録を紹介したいところだが、ここではテーマを「外国からやってきた子どもの教育」に絞りたい。
善元先生は葛西小に14年間いた。そのなかで二つのことを考え続けてきたという。一つは中国や韓国を低くみる日本のこどものこと。もう一つは、差別を体験する引き揚げの子どものことだ。お互いが知らないがゆえの偏見による差別をどう克服するのか。先生は試みに授業で中国の悠久の歴史、文化遺産を取り上げてみた。はじめは喜ぶがすぐに興味を示さなくなった。
そんなある時、家庭訪問で子どもの家にいくと、親子で手際よく餃子を作ってくれた。どうして子どもがこんなに上手に作れるのだろう、と考えて善元先生は気づいた。餃子は引き揚げの家族に文化として脈々と受け継がれているということを。生活の中で文化が継承されているのだ。自分が教え込もうとした知識としての中国の文化、歴史が子どもの心にしみ込まないのは当然だと先生は思った。
善元先生は「植物と人間」の授業のなかで、「自分がこれからいかにして日本で生きるか」という子どもたちの問いに、生命の根源にふれることで応えてみようと考えた。
①植物は人間より劣った存在か②植物と水③生命の誕生と光合成――などのテーマごとに、子どもたち自身が討論し自ら考えるよう授業を進めた。長いレポートなのでプロセスは省くが、先生は授業の最後に「人間は生物の中で一番偉いと考え、人間の生活のために自然を利用した。ところが人間のために自然は破壊され、大洪水が起こった。昔の中国人は自然についてこう考えた。人間は世界の中心でない。宇宙には摂理がある。人間もその中で生きている」とまとめた。
授業の後、子どもたちは感想文をかいた。日本語学級でただ一人、台湾からきた東石(ドンシイ)君は
「植物はえらいです。植物は自分の食料を作ることができます。また酸素をつくります。人間はえらいところもある。わるいところもあるのです。ぼくはいま一番関心のところは、みそ・ごはん・家具・しょうゆなどのものをたくさんつくりました。(略)日本人は中国語できません。中国料理できません。だから日本人も中国人ばかといわないでください。人はみな平等だ」
と思いのたけをつづった。
善元先生はレポートの最後に「中国からきた子どもたちが日本で出合ったもの、それは自分たちとは異質なものに対する差別・排除に由来する民族的圧迫であった」としたうえで「子どもたちは授業でおおいに自分の心を開いてくれた。子どもたちの創造力は果てしない。人間の豊かな想像力こそが人間を解放し、地球上の人びとが連帯させ、すべての民族的に生きる原動力となる」と書いた。

急増する外国人就労者

『前川喜平 教育のなかのマイノリティを語る』によると、前川氏と善元先生の対談は2018年2月に行われた。同書で50ページが割かれていることからみて、2時間以上に及んだようだ。話題は多岐にわたっているが、大筋は日本語学級にはじまって総合学習での取り組み、ニューカマー教育の問題点へと進んでいった。私が注目したのは、ニューカマーの子どもたちの指導を総合教育の場で善元先生が行ってきたことだ。
文部科学省の2016年5月1日時点での調査によると、全国の公立の小中高校、特別支援学校で日本語指導が必要な外国籍の児童生徒は3万4335人(14年度比17・6%増)、日本国籍児童生徒は9612人(同21・7%増)にのぼっている。この両方を合わせた児童生徒数は06年度に比べて約7割増えており、16年度調査で初めて4万人を超えた。
このことは、外国人就労者の急増にともない、この10年間で日本語指導を必要とする子どもが急激に増えたことを示している。そうした子どもへの教育がいま喫緊の課題なのだ。
善元先生は2003年から7年間、新宿区の大久保小学校日本語国際学級に勤めた。大久保はコリアンタウンといわれるが、実際には130の国の人たちが住む多文化の街。近年、ベトナム、ネパール、スリランカ、インドなどからの人たちが増えているといわれる。先生が赴任したときの管理職は「臭い物には蓋」式の人だったが、国際化推進の校長に代わってから、「学校の生徒の7割が外国にルーツをもつ」ことを公表。日本語国際学級では、日本語ができないのはその子の個性ととらえ、その子がもっている元の文化(母文化)を大事にすることを基本方針とした。こうして総合学習の時間にその子の母語維持教育を行うこととなった。
たとえば中国から来た子どもには漢字調べをさせてみる。日本語のレベルは高くない子でも、自分が中国人でいいという安心感もあって、自分の母文化の中国のことをかなり深くまで調べはじめる。韓国から来た日本国籍のある男の子は、「お母さんは韓国人」とカミングアウトしていたが、彼が韓国の太鼓をたたいているうち自分の国の打楽器を思い出し、自分をみつけだす。親たちも学校がそうした空間に変わることを喜んでくれた。
こうしたことから、同校ではクラブ活動に8言語の講師を招いたり、4言語で学校便りをだしたりした。すると、学校が出した連絡が読めないために学校に来なかった親たちも学校に足を運んでくれるようになった。その結果、それまでふてくされていた子どもたちもニコニコするようになったという。こうした成果を踏まえ、校内に韓国コーナー、中国コーナー、タイコーナーなどをつくり、それぞれの国のTシャツや写真などを展示。そこは親子の居場所になった。
以上の善元先生の説明を受けて、前川氏が「親子で、タイ語でタイの文化を勉強してる?」と尋ねると、善元先生は「決して同化ではなく、親子で母文化を学ぶのです」と答えている。「親子で母文化を学ぶ」。このことがニユーカマー時代の教育の根本、と善元先生は言いたいのだ。
だが、ニューカマーの子どもには大きな壁があると先生は指摘する。中国や韓国からの残留孤児について政府はそれなりのケアをしてきたが、ニューカマーの子どもには十分な対策がとられていず、高校進学率は50%をきっているのが現実だ。前川氏も「同じように日本語ができない子でも、その子が日本人の血をひいている日本人であるか、外国人であるかで扱いがちがっている」と認める。
グローバル化が猛スピードで進むなか、政府は子どもの英語教育に熱心だ。だが、日本にやってきたニューカマーの子には冷ややかではないのか。前川氏と善元先生の対談から、そんな実態が垣間見える。

外国につながる子ども

『前川喜平 教育のなかのマイノリティを語る』を読んでいるとき、新聞に「外国につながる子ども」についてのレポートが載った。記事は横浜市南区の市立南吉田小学校の取り組みだ(10月1日付毎日新聞)。私は否が応でも記事内容に注目した。
記事によると、「外国につながる子ども」とは、国籍は日本だが以前は外国籍だった子ども、両親の両方やどちらか一方が外国籍の子ども、などのようにさまざまな形で外国とつながる子どもたちを総称した呼称。「外国にルーツを持つ子ども」と呼ばれることもある、という。
南吉田小では全児童749人中55・4%にあたる415人が外国につながり、日本語指導が必要な子が週に数回、「国際教室」で学習している。習熟度はまちまちで、日本人と同じ教科書で学ぶ子もいれば、ひらがなを勉強している子もいる。
9月6日、転入してきたばかりの林承輝(リンツェンフィ)君(9)が国際教室に入ってきた。承輝君は昨年5月、建設業を営む両親の都合で中3の姉と中国から来日。8月末まで市内の別の学校に通っていた。家では中国語を話していて、日本語は上達していない。数日後、終業のチャイムが鳴ると、承輝君は8月に中国から来たばかりの女の子と中国語で激しい口論をはじめた。中国語ができない担当の先生は二人を職員室に連れて、中国語ができるボランティアを交えて事情を聴いた。授業中に折り紙をはじめた女の子を承輝君がとがめたのが発端とわかった。
せきを切ったように中国語で気持ちをぶつけ合う二人を先生は「お互いの気持ちを考えようね」とやさしく諭した。
記事は以上のように伝えている。承輝君のように母語でしか感情を表現できない子は、前項のデータで挙げた3万4千人のかなりの部分を占めているだろう。教育現場はどう向き合っていくのか。善元先生は前川氏との対談で、「だれもが共に泣き、共に笑いあう、そんな世の中が来ないものか」、これが私の子どもに対する未来のメッセージ、と語って締めくくった。
日本語ができないからといって決して差別されたり排除されることのない社会――そうした問いかけがないまま、「グローバル化」という言葉だけが一人歩きしている。日本にやってきた外国人であっても、英語を話す人には羨望し、それ以外の言語、とりわけアジアの言語を母国語とする人たちを低くみる日本人。こうした民族的閉鎖性を打ち破れるのかどうかが、今問われている。(了)

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