宿場町 中山道 坂本宿 一茶定宿の山あいの里 ―妙義山と碓氷峠に挟まれ―  井上脩身

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私(筆者)は登山が趣味だ。この夏、山岳写真集のページを繰っていて、奇妙な形の山に目が留まった。のこぎりのようなギザギザの稜線がある一方で、とんがり帽子のような峰が単独でつったっていたり、戦国時代の砦のような峰もある。妙義山。標高は1104メートルと高くないが、風変わりな山容から、日本三大奇景の一つとされている。この山の北側を中山道が通っていて、そこに坂本宿という宿場があった。坂本宿は碓氷峠(1190メートル)の東約5キロの所に位置している。江戸から信州に向かう旅人が峠への上りを前に妙義山の奇岩を目にしたとき、どのような思いにかられたのだろう。秋のある日、坂本宿を訪ねた。
江戸と信州を何度も行き来した人はだれだろう、と考えて俳人、小林一茶が頭に浮かんだ。さっそく田辺聖子の『ひねくれ一茶』(講談社文庫)を読んだ。
一茶のふるさとは越後国境に近い北信濃の柏原。同書によると、相続にからむ兄弟のトラブルの解決のため、一茶は中山道を度重ねてあるいている。
「終の栖(すみか)」の章では「月花や四十九年のむだあるき」という一茶の句を冒頭に掲げて、田辺は次のように碓氷峠越えを描写している。
〈碓氷峠は大吹雪で、目もあけられなかった。
前日来の雪で松井田宿で早泊りしたから、今夜は軽井沢宿でなく、もう一里五丁がんばって沓掛宿まで足をのばしたかった。
横川のお関所を越えたころから吹雪はいっそう激しくなった。いよいよ中山道第一の難所、碓氷峠だ。上州信州の国ざかい。碓氷峠を越えれば、浅間嶺を望む浅間三宿。そこからは、はや故郷まで二泊三日の行程だ。〉
一茶が50歳、文化9(1812)年の帰郷の折りの模様である。中山道は江戸・日本橋から京・三条大橋まで六十九次。松井田宿は16番目、坂本宿は17番目、軽井沢宿は18番目の宿場だ。田辺の記述通りならば、松井田宿で泊まった一茶は、坂本宿を通って雪に覆われた碓氷峠の険しい上りにとりついたのだ。

私は坂本宿についてのただこれだけの予備知識を頭にいれて、JR高崎駅で信越線に乗り換え横川に向かった。後でも触れるが、1997年に北陸新幹線高崎―長野間(長野新幹線)が開通したのにともない、横川―軽井沢間が廃止された。軽井沢―篠ノ井間は第三セクターのしなの鉄道になり、信越線は高崎―横川間と篠ノ井―長野間だけになった。要するに、高崎から先は横川が信越線の終点なのだ。

横川駅前に「おぎのや」という釜飯の専門店の出店があった。ここの「峠の釜めし」は全国的に知られ、わざわざ買い求めにくる人もいるという。私は、昼食は坂本のそば店でと考えていたので、迷ったが、せっかくの機会だからと、釜飯を買った。結果としてこれが大正解。買ってなければ、お昼ごはんを食べ損なっていた。
旧中山道は駅のすぐ北側を通っている。幅約5メートル。舗装されているが、古いたたずまいの店や民家が並んでいて、昔ながらの風情を醸している。ここから坂本宿まで約2・5キロ。バスは夏休みシーズンしか運行していず、歩くしかない。10分ほどで碓氷関所跡に着いた。現在は関所の門だけが残っている。『ひねくれ一茶』では、ここから吹雪が激しくなった、という。私の目の前の関所跡は秋のおだやかな日差しを受けて、のんびりと建っている。
説明板によると、ここに関所が設けられたのは1629(元和9)年。東門と西門の間の95メートルのところに番屋などが置かれた。1635(寛永12)年に参勤交代が始まると、「入り鉄砲に出女」の取り締まりが厳しくなった、とある。

皇女和宮ゆかりの本陣

碓氷関所跡から30分、下木戸跡に着いた。坂本宿の下の入り口だ。標高460メートル。宿場はおおむね明け六つに木戸が開けられ、暮れ六つに閉められた。季節によって変動はあるが、明け六つは午前6時、暮れ六つは午後6時ごろ。ということは午後6時には絶対に到着しなければならない。信州から江戸に向かう旅人が碓氷峠で大雪に巻き込まれて難渋したら、心は焦りに焦り、疲労困憊したにちがいない。

説明板に坂本宿の概略が書かれている。それによると、京都寄りの上木戸、江戸寄りの下木戸間は713メートル。道幅15メートル。その中央に幅1・3メートルの用水路があり、本陣、脇本陣、旅籠、商家など160軒が建ち並んでいた。

この記述の通り、道路には用水路が真っすぐに掘られていて、きれいな水がさらさらと流れている。宿場を東西に貫く街道の向こうに刎石(はねいし)山がそびえている。目分量では標高差約300メートル。この山の向こうが碓氷峠だ。峠は宿場からは見えない。
各家々の玄関には「あわや」「中澤屋」「わかきや」などの屋号札がかかっていて、米屋でない民家も「米屋」の屋号。この家の2階はわびさびた褐色の格子窓。白壁のうだつがしつらえられていて、いかにも古い商家の雰囲気。実際、江戸時代は米を商っていたのだろう。
さらに10分ほど進むと、「金井」という表札がかかる平屋の民家が目に入った。3部屋程度の小さな家だが、玄関前には「金井本陣跡」の標識が立っていて、次のように記載されている。

坂本宿には本陣が二つあり、下の本陣とも呼ばれた金井本陣の屋敷は1200平方メートルの広さ。記録によれば中山道を行く大名、例幣使のほとんどは坂本宿で泊まった。本陣の宿泊代は最低124文、最高300文、平均200文でもうけは薄いが、格式は高かった。皇女和宮が十四代将軍家茂に降嫁した際の1861(文久3)年11月9日の七つ時(午後4時)、金井本陣に到着、翌日五つ時(午前8時)に出立した。付き添い、出迎え合わせて3万人にのぼった。

島崎藤村は『夜明け前』(岩波文庫)の中で、和宮を迎える中山道馬籠宿の模様を次にように表している。
〈道路の改築もその翌日から始まった。半蔵(本陣)の家の表も石垣を引込め、石垣を取り直せとの見分役からの達しがあった。道幅はすべて二間見通しということに改められた。石垣は家ごと取り崩された。この混雑の後には、御通行当日の大釜の用意とか、膳飯の準備とかが続いた。〉

坂本宿でも準備にはてんてこ舞いに追われたことだろう。馬籠本陣のように石垣の取り崩しまでやらされたかどうか。標識の説明板にはそうした記述はない。
金井本陣跡から少し先に2階建て、屋根に煙出しがある堂々とした建物があった。ここが上の本陣である佐藤本陣跡だ。その前に立っている説明板の記述が興味深い。
安政6(1859)年、安中藩主、板倉主計頭が大坂御加番(大坂城警備)を命じられた際、御本陣番は佐藤甚左衛門(佐藤本陣)が担い、諸荷物の伝馬継ぎ立ては問屋番の金井三郎左衛門(金井本陣)が担当。藩士200余人には脇本陣など16の宿が割り振られた。藩主一行は7月17日五つ半(午前9時)に到着した。

どうやら大名クラスが宿泊したとき、二つの本陣が互いに協力しながら、交互に本陣番に当たったようだ。
佐藤本陣の建物は1875(明治8)年、坂本小学校の仮校舎として開校。現在の建物は1901(明治34)年、旅館、小竹屋の分家として建てられた。

夜更けまで俳諧談義

「中山道坂本宿屋号一覧」という掲示板が佐藤本陣跡近くの道路脇に立っている。街道の両側に本陣、脇本陣、旅籠、商店がずらっと書き並べられていて、「文久元年和宮御降嫁に伴う調控より」とある。和宮降嫁のときの役人の記録が、今では当時の坂本宿を知る上で貴重な史料となっているのだ。この一覧によると、本陣はすでに述べた金井本陣と佐藤本陣の2軒。脇本陣が永井や酒屋など4軒。本陣はいずれも街道の南側にあり、脇本陣は北側にある。本陣と脇本陣を南北に分けて配置したのはどのような理由からなのだろうか。

永井脇本陣跡の建物は白壁の家老屋敷のような構え。酒屋脇本陣跡はゆったりとしたたたずまい。今は公民館として使われている。旅籠跡では「かぎや」の切妻造りのどっしりとした建物が今も宿場時代の面影をとどめている。2階の格子窓の「かぎや」と彫られた看板を見たときの旅人の安心した顔を思い浮かべた。

さらに数分歩くと旅籠「たかさごや」の跡。その前の説明板には、ここが一茶の定宿とある。
説明板には以下のように書かれている。
寛政・文政年間、坂本宿では俳諧が隆盛し、旅籠や商人の旦那衆はもとより馬子、飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中。一茶がたかさごやにわらじを脱いだと聞くと、近郷近在の愛好者まで駆け付け、自作の批評をあおいだ。近くから聞こえる音曲とともに夜が更けるのも忘れ、俳諧談義に花を咲かせた。一茶は刎石山の頂上で坂本宿を一望して一句詠んだ。

坂本や袂の下は友ひばり

以上の記述を読み終えて、『ひねくれ一茶』にあった一つの句を思い出した。
はつ時雨俳諧流布の世なりけり
〈中仙道のうらがれ宿場の飯盛女にさえ、杓子の当りがわるい一茶に、美しい芸者の一人がつと寄ってきて、桃色の温気で一茶をつつみ、
「駈けつけ三杯、どうぞ。俳諧の大先生」
とにっこり、盃をすすめるではないか。〉
田辺によると、一茶は中山道中のしがない宿場でも女たちに大人気だった、というのだ。たかさごやの説明板のように、本当に飯盛女にも俳句が盛んだったかどうかはともかく、一茶と酒をつぐ女たちとの会話も俳諧話で大いにはずんだ、ということはありそうだ。

一茶には1810(文化7)年から18年(文政元)年、48歳から56歳までを自ら記録した『七番日記』がある。この時期は、季題軽視、方言使用、風刺性などの一茶調が完成した時期といわれ、一茶研究の上で欠かすことのできない日記とされている。この日記に「坂本はあれぞ雲雀と一里鐘」の句がある。1818(文化15)年3月に詠んだとみられている。句意からみて「坂本や袂の下は友ひばり」と同時に作句したに相違ない。
ところで、同日記などの記録から一茶が坂本宿に最後に泊まったのは文化11年とされている。同14年に帰郷して以来江戸には出ていない。なぜ坂本の句が15年の項にあるのか。14年以前に坂本宿でヒバリを見たのを思い出して句を作ったのだろうか。日記に過去のことを書くとも思えず、一茶研究者でない私には不思議としか言いようがない。

旧中山道馬車鉄道

五月雨や夜もかくれぬ山の穴

一茶の1791(寛政3)年の句とされている。妙義山で五月雨に遭い、山の穴で夜を過ごした、とよめるが、実際はどうだろう。ただ、一茶が坂本宿あたりから妙義山の奇景に目を見張ったのはまぎれもない。
私は坂本の民家の屋根の上に垣間見える妙義山の峰をながめながら帰途についた。いくら見ても見あきない。もっと見えるところを、と少し通りを離れてみると、一面にワサビ畑が広がっていた。緑の葉が風にそよいでいる。その遙か向こうに妙義山が濃い青色をおびてうずくまっている。そのコントラストの妙に息をのんだ。
駅前のワサビ漬けの店をのぞいた。碓氷名産だという。江戸時代からあったわけではない。宿場町としてのにぎわいは今は昔。新たな産業の一つとして考え出されたのがワサビの生産なのだ。

ワサビ畑から横川駅に向かう途中、「旧中山道馬車鉄道路線」の標識を見かけた。碓氷関所跡から100メートルくらい南にあたる。
1885年、上野―横川間の鉄道が完成。3年後、軽井沢―直江津間が開通した。しかし横川―軽井沢間に碓氷峠という難所があり、全面開通するうえで大きなネックになっていた。そこで1888年、横川―軽井沢間に馬車鉄道が敷設された。碓氷馬車鉄道は坂本宿の北約500メートルのところを通っていたが、横川―軽井沢間約11キロが2時間半もかかるしまつ。そのうえ輸送量にも限りがあり、本格鉄道が待たれた。

碓氷峠への急こう配を上るためにアプト式が採用され、1893年、官営鉄道中山道線として同区間が開通、「碓氷線」とか「横軽」と呼ばれた。アプト式は線路中央の凹凸のあるギザギザ線に、動力車の車軸の歯車をかみあわせて上っていく方式。1900年に作成された「鉄道唱歌」の北陸編で、「これより音にききいたる 碓氷峠のアプト式 歯車つけておりのぼる 仕掛けは外にたぐいなし」とうたわれた。
私が小学校のとき、「碓氷峠のアプト式」を習い、子ども心にもワクワクしたが、1961年、新しい線ができてアプト式鉄道は廃止。さらに、すでに述べたように新幹線ができて上越線そのものが寸断されてしまった。
横川駅前に1999年、「碓氷鉄道文化むら」が開園し、ED42型アプト式電気機関車をはじめ、さまざまな機関車や列車が展示されている。鉄道ファンにはたまらない廃止列車博物館だ。年間12万人(2016年)が訪れるという。だが、坂本宿をたずねる人はほとんどいない。

そういえば坂本宿の西端から歩いて5分のところの空き地に電気機関車が一両、ポツンと置かれていた。「EF6322」と型式がふってあるが、すっかりさびついている。このポンコツぶり、坂本宿の象徴にもみえた。
『ひねくれ一茶』にある一茶晩年の句が頭をよぎった。

死に下手とそしらばそしれ夕炬燵

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