Lapiz2019夏号《びえんと》Lapiz編集長 井上脩身

住民の思いこもる大島憲法  

―平和と主権在民を掲げて―

現憲法公布前の伊豆大島

 今春、伊豆の大島を旅した。勤めていた東京の民放を定年前に辞めて島に移住した学生時代の友人を訪ねるためだった。友人と三原山の頂上から下山中、彼から思いがけない話を聞いた。戦後、この島で独自の憲法草案がつくられた、というのだ。新聞で報じられた、と友人は言ったが、私は知らなかった。現在の憲法が1947年に施行される前に、島の人たちは自分たちの憲法を持とうとしていた、ということのようである。そうであるならば、戦争で塗炭の苦しみに遭ったこの国の民衆は、真に国民のための憲法を望んでいたことの証左であろう。それは現憲法が決して押し付け憲法でないことの傍証にもなるだろう。と考えて旅から帰るとさっそく調べてみた。

民主主義精神のっとる

 名古屋学院大の榎澤幸広氏が2008年、大島でさまざまな調査を行い、13年、『伊豆大島独立構想と1956年暫定憲法』として論文を発表(名古屋学院大学論集社会科学編第49巻第4号)。論文はインターネット上で公開されている。友人が教えてくれた憲法草案は正しくは「大島大誓言」。「大島憲法」と通称されている。本稿でも大島憲法と呼ぶ。その大島憲法が作られるまでのプロセスの概要を榎澤論文にそってまず述べておきたい。
 大島は終戦時、元村など六つの村からなり、人口は1万1000人だった。ポツダム宣言で「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ限定セラレルヘシ」とされたことから、伊豆諸島の島民たちのなかで「米軍の信託統治下になるのでは」とのうわさが広がった。結局はうわさに過ぎなかったが、こうした混乱のさなか、柳瀬善之氏が元村村長に就任。46年1月、六カ村の村長会が開かれ、「島民一丸となって強力な団体活動をする」ことで意見が一致。2月、村長のほか金融機関の人々も加わって合同協議会が開催され、「大島の最高政治会議のようなもの(をつくり)、島内在住民の総意により民主主義の諸施策を自治的に行い、島民生活の安定をはかり、世界平和に寄与する」ことを申し合わせた。
 これを受けて、同年2月末から3月中旬にかけて「大島島民会(仮称)設立趣意書」が作成された。そこには①軍国主義の跳梁や誤った指導方針が悲惨な結果を招いた②われわれもそれを日本の真使命だと過信した結果、大島の現在につながった③理想の平和郷を建設し、世界平和に貢献する④住民が一糸乱れず民主主義の精神にのっとり、自らを律し生活の向上を図る⑤米軍と協力して世界平和建設に力を尽くせば、必ず文明人としてとり扱われる――などの決意がこめられた。
 設立趣意書に併せて「大島々民会規約(案)」が作成された。ここでは、その目的として「民主主義ノ精神ニ則リ大島在住民ノ総意ニヨリ関係スル事業ヲ遂行スルモノトス」と掲げ、住民総意による民主主義をうたいあげた。
 こうして大島憲法作成への素地ができあがった。その作成に関わったのが共産党員であった大島の大工、雨宮政次郎氏と、大島で『島の新聞』を発行した高木久太郎氏だ。
 榎沢氏は、日本共産党が45年11月につくった「主権は人民にある」など7項目からなる『新憲法の骨子』
を雨宮氏は見ただろうと推察。一方高木氏については、『島の新聞』に「悪助役、醜い市議、不良吏の東京市、東京都編入も考へものだ」「村会とは議員各自の個性を発揮する處に非ず。村民大衆の総意を反映」などと書いていることから、地方自治への意識が高かったと、とみる。

前文と3章23条で構成

 大島憲法が作成されたのは1946年1~3月とみられている。すでに触れたように、正式名称は「大島大誓言」。「本島ノ激変ニ会シ其ノ秩序ヲ維持シ進ンデ島勢ノ振起ヲ図ルニハ基本法則タル大島憲章ヲ制定スルヲ以テ第一義ト思料スル」として、前文と3章23条から成る規定をもうけた。以下はその抜粋である。
大島大誓言
吾等島民ハ現下ノ情勢ニ深ク省察シ島ノ更生島民ノ安寧幸福ノ確保増進ニ向ッテ一糸乱レザル巨歩ヲ踏ミ出サムトス
吾等ハ敢テ正視ス、吾等ハ敢テ甘受ス、吾等ハ敢テ断行ス
仍テ旺盛ナル道義ノ心ニ徹シ万邦和平ノ一端ヲ負荷シ茲ニ島民相互厳ニ誓フ
一、 近ク大島憲章ヲ制定スベシ
一、 暫定措置トシテ左記ノ政治形態ヲ採用シ即時議員ノ選挙ヲ行フベシ
一、 当分ノ間現在ノ諸機関ハ之ヲ認ム

大島政治形態
第一章 統治権
一、大島ノ統治権ハ島民ニ在リ
二、議員選挙有資格ノ二割以上ノ要求ニヨリ議会ノ解散及執政府ノ不信任ヲ議員選挙有資格者 投票ニ付スル事ヲ得
 此ノ場合及議会若ハ執政府ヨリ発セラレタル賛否投票ハ総テ多数決ヲ採用ス
第二章 議会
三、島民ノ総意ヲ凝集表示スル為メ大島議会ヲ設置ス
四、議会ハ一切ノ立法権ヲ掌握シ行政ヲ監督ス
五、議員ノ任期、三ケ年
六、議員ノ選挙方法ハ衆議院選挙法ノ主意ヲ採用ス
七、(略)
八、議会ハ議長之ヲ招集ス
九、議長副議長ハ議員ノ互選ニヨル
一〇、議会ニ於ケル議員ノ言論ハ議会外二於テ責ヲ負ハズ

一一、(略)
一二、(略)
一三、議会ハ必要ト認ムルトキハ島民ヲ招致シ其ノ意見ヲ聴取シ得ル事
一四、議会ハ執政府ノ不信任ニ関シ有権者ノ投票ヲ要請スルコトヲ得
第二章 執政
一五、島民ノ総意ヲ施行シ島務一切ヲ処理スル為メ四名ヨリ成ル執政ヲ設置ス
一六、執政ハ連帯責任トシテ島務一切ニ付其ノ責ニ任ズ
一七、任期ハ三ケ年
一八、執政長ハ執政ノ互選ニヨリ定ム
一九、執政長ハ島ノ首長トシテ内外ニ対シ島ヲ代表ス
二〇、執政ハ議会之ヲ推薦シ議員選挙有資格者ノ賛否投票ニ依リ選任ス
二一、執政ハ議会ニ対シ予算決算案及び其ノ他ノ議案ヲ提出シ其ノ審議ヲ求ムベシ
二二、(略)
二三、執政ハ議会ノ解散ニ関シ有権者ノ投票ヲ要請スル事ヲ得
「欠ケテル点ハ司法権」(「」内は後の書き込み)

国民の願いの具体化

 大島憲法が作られて8カ月後の46年11月、日本国憲法が公布された。すでに述べたように大島は日本の領土として認められ、暫定だった大島憲法を現実化する必要がなくなった。やがてその存在は忘れられたが、大島で教員をしていた文化財保護委員の藤井伸氏が原本を発見、1997年1月7日付で朝日新聞が報じ脚光を浴びるようになった。
なかでも注目されたのは前文で「万邦和平ノ一端を負荷シ」と平和への思いを強くうたいあげたことだ。同紙の報道に際し、憲法学者の古関彰一氏は「思わぬ危機に直面したとき、自分たちがどう生きていくかを模索し、持てる知恵と知識のすべてを生かして憲法を作ろうとしたことはすごい。法律は必要とする人が作る。それは専門家でなくともできるのだ、ということを見せてくれる」とコメントを寄せた(榎澤論文)。その古関氏は著書『平和憲法の深層』(ちくま新書)の中で「敗戦後の日本人が多くの苦難を償いつつ自信をもって精神の平和を得て明るく生き始めていた」と、現憲法ができる背景として日本人が強く平和を求めていたことを強調している。そうした当時の国民の思いを具体化したのが大島憲法といえるだろう。
一方、大島憲法は第1条で「大島ノ統治権ハ島民ニ在リ」としていることを重視したい。明治憲法の第1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と天皇統治を掲げている。これに対し現憲法の第1条は「(天皇の象徴の)地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と、主権在民を規定している。大島憲法をつくった人たちにとって憲法といえば明治憲法しかなかった。したがって明治憲法の規定を下敷きとしながらも、天皇統治主義から島民統治主義に変えようとしたことは明白だ。この「島民統治」は現憲法が「主権在民」をうたいあげるに至るプロセスの一つとみることができる。
 大島憲法にも問題はある。この憲法の元でもある「大島島民会(仮称)設立趣意書」に「米軍と協力して世界平和建設に力を尽くせば、必ず文明人としてとり扱われる」としていることだ。米軍が平和をもたらしてくれた、という素朴な島民の思いから生まれた発想だろう。今から見れば悲しい錯誤というほかない。

 
「押し付け」でない証拠

 2014年5月、大島憲法の原本が行方不明になっている、と朝日新聞が報じた。戦後の日本人の憲法への思いを示す貴重な史料が失われたことはかえすがえす残念である。
 だが、この報道がかえって大島憲法が見直されるきっかけになったことも事実だ。
2017年、東京・調布市の郷土史家の古橋研一氏が『幻の大島憲法草案』と題する280ページの冊子を作製した。古橋氏は国会図書館で元村の旬間広報紙「もとむら」の2号(46年2月25日発行)~第8号(同年9月15日発行)の写しを見つけた。そこには6村長らでつくる準備委員などに関する記述があったことから、さまざまな資料をまじえて冊子にまとめた。毎日新聞が17年月4月26日付都内版で報道。記事によると、古橋氏は大島憲法について、「日本共産党の新憲法の骨子」と共通点があるとしながら、「骨子の理念を取り入れ、独自の憲法草案を作った」と結論。「GHQと関係のない素人が作った憲法草案が、現行憲法に通じる主権在民や平和主義をうたっている。戦争から学んだ当時の一般国民がこうした考えをもっていたことが分かる」と評価しているという。
 同じ17年月、東京新聞が「大島大誓言が教えるもの」と題して①主権在民を掲げ、リコール制も盛り込んでいる②戦前、大島では自治権や公民権を制限する「島嶼町村制」という差別的な制度が敷かれていた③こうした状況を反面教師とした――などとして「大誓言の存在は、明治から昭和にかけて数多くつくられた私擬憲法とともに、平和主義や主権在民が、日本人が自ら考え出した普遍的結論であることを教えてくれる」と論評した。
 今年7月、東京・紀伊國屋サザンシアターで青年劇場「みすてられた島」が公演される。大島憲法から構想を得て、突然本土から独立を言い渡された架空の島の混乱を描くもので、中津留章仁演出。大島憲法そのものが直接のテーマではないが、島の人たちが「独立となれば憲法を作らねば」とかんかんがくがくの議論をする、というストーリー。憲法とは何なのか、を考えるうえでの一つの素材の提供になりそうだ。
 安倍晋三首相は「現憲法はアメリカからの押し付け憲法」として、在任中に改変への道筋をつけようと政治生命をかけるなか、以上みたとおり大島憲法がクローズアップされている。現憲法は国民が求める憲法であったからにほかならない。

Lapiz2019夏号 徒然の章 中務敦行

この春は「花の命は短くて・・・」ではなく、各地でサクラは長~く咲いたように思います。
 4月26日、親しい人を見送るため千葉に行きました。車窓から見る花は東京の中心部では満開、千葉県の成田近くでは七分咲きでした。関西は例年ならもう3~5分咲きなのにまだ咲き始め、肌寒い日が続き満開を迎えたのは入学式が始まるころ。
咲き始めた花は途中で寒波が襲来、いつまでも咲き続けた。
撮影にもよく出かけた。いつもと違うのは黄砂が少ないこと。
「満開の・・・」は秋のような青空、サクラ青空は恰好のバックだ。
そこにこの雲、春には珍しい。空あっての花だ。
花を求めて、各地を回った。
いずこもいつもと開花の時期が違う。
また昨年9月の台風でいたんだ木も多く、見るものの心もしおれる。
「咲いて良し、散って良し」がサクラだ。
奈良・橿原市の曽我川では花びらの流れをカモが泳いでいた。
三重県津市の三多気のサクラは今年も田んぼの水に映えていた。
北海道では満開の花に吹雪だという。
年ごとに変化があるのがサクラの魅力だろうか。

花びらの流れ泳ぐカモ」=橿原市曽我川で
三多気のサクラ
満開の桜(大和郡山市ファミリー公園で)

Lapiz2019夏号 成田街道 佐倉宿 文・写真 井上脩身

開明の風そよぐ幕末の街

~行き交う順天堂の門人と患者~

駐日公使、タウンゼント・ハリス像

日米修好通商条約を締結した初代駐日公使、タウンゼント・ハリスの銅像が佐倉城内にたっていると耳にした。佐倉は下総の国、現在の千葉県佐倉市。ここにハリスが行ったことはないはずだ。にもかかわらず、なぜハリスの像があるのだろう。

ふと司馬遼太郎の『胡蝶の夢』に佐倉の順天堂が登場するのを思い出した。幕末の蘭方医、松本良順をえがいた歴史小説だが、順天堂について「大坂の緒方洪庵塾(適塾)とならんで蘭学塾の日本における二大淵叢になる」と司馬はいう。開国か攘夷かをめぐって騒乱の嵐が吹きすさぶなか、佐倉は先取の空気につつまれていたのだろうか。佐倉は「成田のお不動さま」で知られる成田山新勝寺に通じる成田街道の宿場町でもあった。お不動さんへの参拝に向かう旅人たちは、この佐倉で何を見たのだろうか。

お城跡のハリス像

 佐倉は東京から直線距離で東に約50キロ、成田からは南西約10キロの所に位置する。江戸時代、水戸に向かう水戸街道と分岐する形で成田街道ができた。幕府の文書には「佐倉街道」とも書かれている。この佐倉に1610年、土井勝利が城の普請を開始。佐倉は成田山への宿場町であるとともに、城下町にもなった。第五代藩主、堀田正睦はペリーが来航して2年後の1855年、老中に再任され、翌年56年、外国御用取扱を兼務する。その年にハリスが来日。正睦はいわばハリス担当幕閣であった。ハリス像が佐倉城内にあるのはこのことと大いに関係があるにちがいない。
 以上を予備知識として私は佐倉にむかった。京成電鉄の佐倉駅で降り、駅前の国道296号を西へ。この国道は旧成田街道なのだ。20分ほど歩くと鹿島川にかかる鹿島橋に着いた。橋のたもとから城跡は間近だ。ここが佐倉宿の西の端とみてよいだろう。
 鬱蒼とした森のなかの道を本丸跡へと進む。石垣はなく土塁を積み上げた形だ。天守閣はない。1813年、失火によって焼失した。老中まで輩出した11万石の城としては質素な造りだ。
 ハリスの銅像は本丸跡から100メートル先にあった。ほぼ等身大の立像。左手にサーベルを提げている。台座には「ピアス大統領の親書を携え下田に到着しました。来日の目的は、他国に先駆けて日本と通商条約を結び、開国を実現させることでした。こうしたアメリカの動向が、開明派の藩主堀田正睦公を外交の舞台に登場させることになりました。(中略)正睦公の指揮下で交渉にあたってきた井上清直、岩瀬忠震の両名がアメリカ軍艦ポーハタン号に赴き、日米修好通商条約に調印しました」との佐倉市長名の説明盤が組み込まれている。その日付は平成20年6月14日。1858年に同条約が調印されて150年になるのを記念して2008年に建立されたのだ。
 ハリス像の向かいには堀田正睦の立像がたっている。こちらはライオンズクラブ創立40周年記念として06年にたてられたもので、「諸藩に先駆けて蘭学を導入した」と正睦を顕彰している。
 佐倉城跡を後にして周辺を歩く。幅6メートルの古い道の片側に武家屋敷が保存されていた。旧河原家住宅、旧田島家住宅、旧武井家住宅の3棟だ。いずれも見学でき、わらぶきの質素な住居に鎧兜が安置されているのが印象的だった。その隣には西村茂樹旧宅「修静居」跡。説明板によると、旧佐倉藩士の西村茂樹は儒学を修め、佐久間象山からも学んだとある。後で調べるとペリー来航に衝撃を受けた西村は堀田正睦に、積極的に海外に進出して貿易を行うべきだとの意見書を提出。正睦が外国御用取扱になると、貿易取調御用掛に任じられている。1873(明治6)年、福沢諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之と明六社を結成。翌年「開化ノ度二因テ改文字ヲ発スベキノ論」という漢字廃止論を発表した。
 西村だけをもって佐倉が開明の城下だったと言い切ることはできないだろう。だが、攘夷旋風の世を思うと、大いに興味がそそられる。それだけに、この旧宅に入れなかったのはいささか残念だった。

長州、会津の志士泊まる

 お昼を「房州屋」というソバ屋で摂った。メニューに「般若そば」がある。初めて聞いたので注文した。そばつゆのほかに日本酒がなみなみと入ったお碗がついている。この日本酒を盛りソバにかけて食べるのだ。酒かけそば、といえばわかりやすい。
 店の壁に「房州屋」と書かれた手提げ提灯がかかっている。一見時代ものにみえる。店内もレトロな工夫がこらされており、その昔、旅人たちが立ち寄ったかとも思えるたたずまいだ。
「房州屋」の斜めむかいに「佐倉養生所跡」の碑が建っている。幅2メートル、高さ1・5メートルの長方形の石碑。養生所は1867(慶応3)年、藩の医師、佐藤尚中が西洋式病院として開設。オランダ軍医ポンペや蘭医の松本良順が長崎に設立した長崎療養所をモデルにしたもので、藩士だけでなく領民の患者も受け入れた。安心して診察を受けるように、との領民向けの趣意書も出されたが、翌年に勃発した戊辰戦争で藩内が混乱、閉鎖を余儀なくされた。わずか1年の寿命だったとはいえ佐倉の開明ぶりを示す一つであることはまぎれもない。
 この石碑の近くから国道を東にとって順天堂跡へと向かう。ここからは、国道も旧街道らしく古い商家が目につくようになる。その一つ、今井家住宅。1889(明治12)年ごろに建てられたとみられ、今井家は「駿河屋」の屋号で呉服屋を営んだ。ここは江戸時代の旅籠「油屋」があったところだ。長州の桂小五郎、会津の山本覚馬、庄内の清河八郎ら幕末を彩る志士たちが宿泊したことが宿帳に記録されているという。
 今井家住宅からほど近い所に高札場跡。高札には、慶応4年3月、太政官名で人を殺し家を焼き財を盗むような悪行を行うな、などのお触れが記され、佐倉藩知事がこれを守れ、と添え書きしている。桂や山本、清河らが闘争に明け暮れていたころも似たような高札がかかっていたに違いない。彼らは触れ書きを見てどう思ったのだろう。
 さらに10分あまり歩くと赤壁に格子窓の住宅が目に留まった。三谷家住宅だ。説明板には「明治初年に建てられ佐倉の伝統的な民家」とあり、佐倉市の登録有形文化財に指定されている。

蘭癖の面目躍如

 三谷家住宅から道ひとつ隔てた隣が佐倉順天堂記念館。佐倉順天堂の一部が保存、公開されているのだ。今回の旅の最終目的地である。歩き出して3時間がたっていた。入り口はなんの変哲もなく、上級武士宅の玄関といった風情だ。説明板にはおおむね次のように記されている。
順天堂は蘭医、佐藤泰然が1843(天保14)年に開いたオランダ医学の塾。ここではオランダ医学書を基礎としながら、当時としては最高水準の外科手術を中心とした医学教育が行われ、全国各地からやってきた多くの塾生が学んだ。泰然の養子、佐藤尚中は長崎でオランダ医、ポンペに学んだ後、系統的な医学教育を取り入れたことから、ここで学んだ塾生の多くが医学界で活躍した。明治時代、尚中はお茶の水に順天堂医院を開設。佐倉の順天堂は佐倉順天堂として医療活動を続けた。1858(安政5)年に建てられたものの一部が現在残っている。
 以上の記述から、佐藤泰然が順天堂を開き、養子の尚中が花開かせたとわかる。
建物の中に入るとまず泰然の肖像画にであう。長さ30センチほどもある長い白ひげをたくわえた面長な顔立ち。きっと目を見開いており、切れ長な目元は断固たる意志の持ち主であることを表している。江戸で塾を開いていた泰然が佐倉に移住した理由について、解説パネルに「蘭癖と呼ばれていた佐倉藩主堀田正睦の存在があった」とある。ここでも正睦が登場。「蘭癖(らんぺき)」と呼ばれていたというのだから、単なる開明派のレベルをはるかに超えていたようだ。
 順天堂の門人は慶応元年の史料によると松前藩から宮崎藩まで110人。幕末から明治にかけて述べ1000人におよんだとみられている。入り口の説明板に「外科手術をした」とあるように、大腿部を切断している手術図がパネル展示されている。塾生たちに教えながらメスを施しているひげの男性は若き泰然なのか、あるいは佐藤尚中なのか。図だけではよくわからない。
 順天堂に残る記録では1850(嘉永3)年から53年にかけて33例の手術が行われた。そのなかには13歳の女性の盲腸炎の手術、43歳の女性の乳がんの手術などがあった。この乳がん摘出手術は1時間ほどで終了、苦痛と出血が少なかったという。
私が注目したのは「泰然と種痘接種」の説明パネル。それによると、1849(嘉永2)年7月、長崎で我が国初の牛痘接種が成功、その5カ月後の同年12月、佐倉でも実施されるようになった。本稿の冒頭、佐倉が蘭学塾の日本における二大淵叢になると司馬が書いていると述べたが、長崎の蘭方医学を当初から積極的に取り入れたことが、この種痘接種からもうかがえる。
 佐倉藩は順天堂での種痘接種が始まると「疱瘡(ほうそう)徐け」という木版刷りの文書を出した。そこには「江戸ではお姫さまも種痘をした。薬種料は藩の積立金から出すので医師への礼物の心配なく誰でも治療が受けられる」などと記され、加えて「漢方による種痘法は大いに害がある」とも付言されていた。蘭癖の面目躍如たる藩民サービスといえるだろう。
 ほうそうと呼ばれた天然痘は「死に至る病」として恐れられた。この文書が配布されたことで、たちまち藩外にも治療のうわさは広がった。100万の人口をかかえる江戸の町には患者は少なからずいたはずだ。佐倉なら2日で行ける。そこで治療を受けられるというのは大変な朗報だったに相違ない。順天堂には入院施設がないため、大黒屋市太郎など3軒の宿に患者が泊まった。ほどなくこれらの宿は病人宿と呼ばれるようになった。
 佐倉は成田山への参拝者の宿場であるだけでなく、順天堂患者たちの宿場でもあったのだ。

決然とした佐藤泰然像

 佐倉の私の旅は本稿の冒頭に書いたように、ハリスの銅像を小耳にしたことと、司馬の『胡蝶の夢』に佐倉が登場するのを思い出したことから始まった。この小説の中で、ハリス、堀田正睦、佐藤泰然がどう関係づけられているかを記して、この旅の終わりとしたい。
(堀田正睦、佐藤泰然)
――蘭方医学を学ぶなら佐倉にゆけ。
ということが、東日本のその道の志望者の常識になりはじめているが、この塾は(松本)良順の実父佐藤泰然のひとりの手で興った。ただ佐倉十一万石の領主堀田備中守正睦が、江戸城の茶坊主あたりのあいだで、
「西洋堀田」
 というあだなをつけられていたほどの開明家だったことも、順天堂の繁栄の条件のひとつになっている。
(正睦、泰然、ハリス)
「西洋堀田」
 といわれた堀田正睦は、京都あたりの書生論壇がさわげば騒ぐほどその開明主義をいよいよ固くした。西洋と戦うよりは西洋の仲間に入ってしまえ、という粗放単純な開国論だが、その政治姿勢に小骨を付けたり肉をつけたりしてやるのが佐藤泰然の仕事だった。
 のちに堀田が閣老筆頭になり、米国の駐日代表のタウンゼント・ハリスと折衝をかさねてやがては日米条約の調印まで漕ぎつけるのだが、この間、泰然が堀田の西洋知識の非公式顧問のようになって働いた。泰然はハリスの人間に惚れてしまい、そのことを息子の良順に語ったりした。

 順天堂の玄関前の庭に佐藤泰然の胸像がある。その決然とした面構えをみていて、佐倉はこの泰然と正睦、ハリスによって順天堂宿場町になったのだと確信した。私はこの数年、あちこちの宿場を歩いた。宿場町としては、佐倉は本陣跡もない地味な存在だ。だが、ほかにない開明宿場であったことに、新鮮な驚きを感じた。ハリスの銅像が佐倉にあるナゾが解けた満足感をおぼえながら私はJR佐倉駅にむかった。

Lapiz2019夏号 原発を考える「耳を疑うような話」寄稿 一之瀬 明(年金生活者)

 驚くような話が聞こえてきた。あの原子力規制委員会が、どんどん再稼働の許可を出している規制委員会が過日次のようなことを決めたという。そしてそれを発表したのだとさ。

 ご存知のない方もおられようと思うので、2019年4月25日の朝日新聞が以下のように伝えた記事を紹介したい。

 原子力規制委員会は24日、建設が遅れている原発のテロ対策施設について、設置期限に間に合わない原発に対し、運転停止を求める方針を確認した。電力会社の求めていた期限延長などは認めなかった。すでに再稼働した関西、四国、九州の3電力の5原発9基は、期限を迎える2020年以降に順次、運転停止を迫られる。

当然のことながら電力会社側は期限の延長などを申し入れた。しかし「工事が著しく遅れるような自然災害や経済状況の変化はなかった」などと指摘が相次ぎ、設置が間に合わなくてもすぐに深刻な事態が起きるリスクが高まるわけではないとした上で、「不適合状態の原子炉の運転を看過することはできない」と電力側の意向を退けた。」
 この決定が実際に行われると、来年から順次運転停止になる発電所が出てくるわけである。

 驚くべきは、電力会社が「再稼働優先」でテロの安全対策を怠っていたことである。先ごろ、スリランカで大規模なテロ事件が起きたことは記憶に新しい。あんなテロ事件が原発で起きないという保障をだれがしているのだろう。東日本大震災が起きて福島第一原子力発電所の惨事をだれが責任を取ったのか。東京電力といえども、国民の税金から驚くべき額を引き出している状況で、なおテロ対策を怠っているというのには恐れ入るばかりだ。
 安倍首相も「北朝鮮からミサイルが飛んでくるぞ」とばかり言っていないで、電力会社の尻をたたくべきだ。

Lapiz2019夏号 読切連載「アカンタレ勘太 <1>」 作 いの しゅうじ

にゅうがく

おまわりさん帽子

 勘太が小学校に入学した。
 おじいさんがとてもよろこび、おいわいに学生帽をおくってくれた。
 勘太はこの帽子をきりっとかぶり、おかあさんにつれられて学校の門をくぐる。金次郎さんがむかえてくれた。
 
 金次郎さんは、たきぎを背にしょって歩きながら本をよむ二宮金次郎の像のこと。勘太は帽子をぬいで、金次郎さんにぴょこんとおじぎした。もういちど帽子をかぶったとき、そばにいた二年生の勝也がはしゃぎたてた。
「アカンタレ勘太、おまわりさん帽子」
 勘太はなんのことかわからず、ぼーっとしている。
すると、勘太とおなじ新入の子ら4、5人がいっしょになってふざける。
「アカンタレ勘太、おまわりさん帽子」
 みんながかぶっている帽子は波だっているけど、勘太のはてっぺんが平だ。ときおり巡回にくるおまわりさんの帽子のようなので、みんながわらったのだ。
 勘太は三つになっても歩けなかった。ほとんどの子は1歳半くらいには歩きだす。3歳にもなれば、自転車ではしりまわっている子もいるというのに、勘太はよっちらよっちらとはいはいしている。
 おかあさんは買いものにいくとき、いつも勘太をおんぶする。と、近所のおばさんたちが、
「あのこ、アカンタレやねえ」
 と、かげぐちをした。あっという間にうわさが広がり、悪ガキどもから勘太にアカンタレをつけて「アカンタレ勘太」とよばれるようになった。
 おじいさんは、
「この子は一生歩けんやろ。かくごしておけ」
 と、なんどか勘太のおかあさんにいい放ったが、おかあさんはそのつど、きりっと言いかえした。
「わたしが歩けるようにします」
 勘太がひょっこり歩きはじめたのは3歳と3カ月くらいのころだ。
 お兄さんの淳吉がつくえの上で飛行機のもけいを作っているとき、勘太がいすにつかまり立ちした。
 そのままひょろひょろと二、三歩あるいているのを、ハサミをさがしていた淳吉が気づき、大声をあげた。
「勘太、歩いてる」
 台所にいたおかあさんがとんできた。
「カンちゃん、やったね」
 勘太をだきあげるおかあさん。涙をぽろぽろながしてる。
 あくる日、となりまちにいるおじいさんがやってきて、勘太にやくそくした。
「学校に上がるとき、帽子を買うたる」
「帽子なんか……」
 とけげんそうなおかあさんに、
「ふつうのとちがう。りっぱな大人がかぶる。そんな帽子や」
 おじいさんは大阪駅のえらい駅員さんにあこがれていた。いくつもの赤や金色の線がついた帽子をかぶっているからだ。
 さすがに勘太におくった帽子に線はないけど、おじいさんの気分は「大阪駅の駅員帽」。
 勘太の町から大阪駅まで電車で1時間半もかかる。ほとんどの子は大阪駅に行ったことがない。勘太の帽子を見て、おまわりさんの帽子とおもうのもむりはない。
 勘太のおかあさんは子どもたちをにらみつけた。
「この帽子はりっぱな帽子です」
 勝也もまけてはいない。
「アカンタレ勘太には似合わん」
「この帽子をかぶったらアカンタレでなくなるの」
 ナイフの先みたいなするどい声に、勝也はひるんだ。
「負けたらあかんよ」
 おかあさんにそういわれても、勘太は肩をすぼめてぶるぶるふるえていた。

レンゲのかんむり

イッ子せんせいがしゅっせきをとりはじめた。
「名前をよばれたら、ハーイと元気よくこたえるのよ」
 勘太の席はさいぜんれつ。イッ子せんせいは勘太のつくえの前にたっている。
せんせいは背がひくいのに、勘太が首をぐっとそらさないと顔はみえない。あおぎ見ると、まるい顔からやさしい笑みがこぼれている。
(こないだもこんな顔してはった)
 勘太は1週間ほど前のできごとを思いだした。
 おかあさんの買いものについて行くとちゅうだった。タバコ屋のわきのポストにイッ子せんせいがはがきを入れようとしているのを、おかあさんが気づいた。
「あら、宮井先生、むすこの勘太。こんど入学しますねん」
 宮井先生。名まえは衣津子。先生になってまだ1年。いつもニコニコ顔だ。みんな「イッ子せんせい」とよんでいる。
「ああ、アカン……勘太くんね。勘太くんのクラスの担任になるのよ」
 
 イッ子せんせいになれなれしくしていた勘太のお母さんは、たいどをガラッとかえた。
「アカンタレですけど、よろしくお願いします」
 と、頭を九十度いじょう下げる。
「勘太、ちゃんとあいさつしなさい」
「……」
 カンタです、と言おうとしたが、声がでない。勘太ののどが、北極にほうりだされたみたいにこおりついてしまってる。
「すいません。しつけをきちんとしてなくて」
 ぺこぺこ頭をさげるおかあさんの後ろに勘太はかくれた。
「井田勘太くん」
イッ子せんせいがなまえをよんだ。教室じゅうにひびく大きな声だ。そろっと勘太は手をあげた。でも「ハイ」がのどからでてこない。のどの奥がぴしゃっと戸じまりしてる。ウンウンうなってるだけ。
いまにも泣きだしそう。
「勘太くん。いないの?」
 教室の後ろにいたおかあさんが、
「勘太、ハイといいなさい」
 と声をはりあげる。
 勘太が声をしぼりだした。
「おしっこ」
 わーっとみんなが笑った。おかあさんは顔をまっかにしてその場にしゃがみこんでしまった。
「お便所にいきたかったのね。いいわよ、いってらっしゃい」
 というイッ子せんせいも出席簿で笑いをかくしている。
 勘太は自分でもなぜ「おしっこ」と口ばしったのかわからない。声をだそうとしたら、どういうわけかおしっこがもれそうになった。
 校舎はコの字型になっていて、勘太の教室は門の左。便所は門の右がわだ。講堂で入学式をおえたばかりだから、勘太は便所のばしょをしらない。
 勘太はいつのまにか門のそとに出ていた。
 まわりはいちめん田んぼ。どの田んぼにもレンゲソウが植えられていて、レンゲの花がひらひらと風にそよいでいる。
勘太は赤紫のレンゲのせかいにふらふらっと入りこんだ。
「どうしたのかしら」
 いつまでたっても勘太がかえってこないので、イッ子せんせいは便所をのぞきにいった。
「勘太くん、どこにもいない」
 大さわぎになった。先生もお母さんたちも手わけして探しまわる。
「レンゲ畑かもしれん」
 とつげたのは勘太と幼稚園がいっしょだった哲則だ。20分ほどして、勘太はみつかった。
 勘太はレンゲソウをつんでいた。
「何するの?」
 イッ子せんせいに、勘太は鼻水をすすりあげ、ぽそっとこたえた。
「レンゲのかんむりを作るねん」
「なんのため?」
「イッ子せんせいにあげるんや」