Lapiz2019夏号 成田街道 佐倉宿 文・写真 井上脩身

開明の風そよぐ幕末の街

~行き交う順天堂の門人と患者~

駐日公使、タウンゼント・ハリス像

日米修好通商条約を締結した初代駐日公使、タウンゼント・ハリスの銅像が佐倉城内にたっていると耳にした。佐倉は下総の国、現在の千葉県佐倉市。ここにハリスが行ったことはないはずだ。にもかかわらず、なぜハリスの像があるのだろう。

ふと司馬遼太郎の『胡蝶の夢』に佐倉の順天堂が登場するのを思い出した。幕末の蘭方医、松本良順をえがいた歴史小説だが、順天堂について「大坂の緒方洪庵塾(適塾)とならんで蘭学塾の日本における二大淵叢になる」と司馬はいう。開国か攘夷かをめぐって騒乱の嵐が吹きすさぶなか、佐倉は先取の空気につつまれていたのだろうか。佐倉は「成田のお不動さま」で知られる成田山新勝寺に通じる成田街道の宿場町でもあった。お不動さんへの参拝に向かう旅人たちは、この佐倉で何を見たのだろうか。

お城跡のハリス像

 佐倉は東京から直線距離で東に約50キロ、成田からは南西約10キロの所に位置する。江戸時代、水戸に向かう水戸街道と分岐する形で成田街道ができた。幕府の文書には「佐倉街道」とも書かれている。この佐倉に1610年、土井勝利が城の普請を開始。佐倉は成田山への宿場町であるとともに、城下町にもなった。第五代藩主、堀田正睦はペリーが来航して2年後の1855年、老中に再任され、翌年56年、外国御用取扱を兼務する。その年にハリスが来日。正睦はいわばハリス担当幕閣であった。ハリス像が佐倉城内にあるのはこのことと大いに関係があるにちがいない。
 以上を予備知識として私は佐倉にむかった。京成電鉄の佐倉駅で降り、駅前の国道296号を西へ。この国道は旧成田街道なのだ。20分ほど歩くと鹿島川にかかる鹿島橋に着いた。橋のたもとから城跡は間近だ。ここが佐倉宿の西の端とみてよいだろう。
 鬱蒼とした森のなかの道を本丸跡へと進む。石垣はなく土塁を積み上げた形だ。天守閣はない。1813年、失火によって焼失した。老中まで輩出した11万石の城としては質素な造りだ。
 ハリスの銅像は本丸跡から100メートル先にあった。ほぼ等身大の立像。左手にサーベルを提げている。台座には「ピアス大統領の親書を携え下田に到着しました。来日の目的は、他国に先駆けて日本と通商条約を結び、開国を実現させることでした。こうしたアメリカの動向が、開明派の藩主堀田正睦公を外交の舞台に登場させることになりました。(中略)正睦公の指揮下で交渉にあたってきた井上清直、岩瀬忠震の両名がアメリカ軍艦ポーハタン号に赴き、日米修好通商条約に調印しました」との佐倉市長名の説明盤が組み込まれている。その日付は平成20年6月14日。1858年に同条約が調印されて150年になるのを記念して2008年に建立されたのだ。
 ハリス像の向かいには堀田正睦の立像がたっている。こちらはライオンズクラブ創立40周年記念として06年にたてられたもので、「諸藩に先駆けて蘭学を導入した」と正睦を顕彰している。
 佐倉城跡を後にして周辺を歩く。幅6メートルの古い道の片側に武家屋敷が保存されていた。旧河原家住宅、旧田島家住宅、旧武井家住宅の3棟だ。いずれも見学でき、わらぶきの質素な住居に鎧兜が安置されているのが印象的だった。その隣には西村茂樹旧宅「修静居」跡。説明板によると、旧佐倉藩士の西村茂樹は儒学を修め、佐久間象山からも学んだとある。後で調べるとペリー来航に衝撃を受けた西村は堀田正睦に、積極的に海外に進出して貿易を行うべきだとの意見書を提出。正睦が外国御用取扱になると、貿易取調御用掛に任じられている。1873(明治6)年、福沢諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之と明六社を結成。翌年「開化ノ度二因テ改文字ヲ発スベキノ論」という漢字廃止論を発表した。
 西村だけをもって佐倉が開明の城下だったと言い切ることはできないだろう。だが、攘夷旋風の世を思うと、大いに興味がそそられる。それだけに、この旧宅に入れなかったのはいささか残念だった。

長州、会津の志士泊まる

 お昼を「房州屋」というソバ屋で摂った。メニューに「般若そば」がある。初めて聞いたので注文した。そばつゆのほかに日本酒がなみなみと入ったお碗がついている。この日本酒を盛りソバにかけて食べるのだ。酒かけそば、といえばわかりやすい。
 店の壁に「房州屋」と書かれた手提げ提灯がかかっている。一見時代ものにみえる。店内もレトロな工夫がこらされており、その昔、旅人たちが立ち寄ったかとも思えるたたずまいだ。
「房州屋」の斜めむかいに「佐倉養生所跡」の碑が建っている。幅2メートル、高さ1・5メートルの長方形の石碑。養生所は1867(慶応3)年、藩の医師、佐藤尚中が西洋式病院として開設。オランダ軍医ポンペや蘭医の松本良順が長崎に設立した長崎療養所をモデルにしたもので、藩士だけでなく領民の患者も受け入れた。安心して診察を受けるように、との領民向けの趣意書も出されたが、翌年に勃発した戊辰戦争で藩内が混乱、閉鎖を余儀なくされた。わずか1年の寿命だったとはいえ佐倉の開明ぶりを示す一つであることはまぎれもない。
 この石碑の近くから国道を東にとって順天堂跡へと向かう。ここからは、国道も旧街道らしく古い商家が目につくようになる。その一つ、今井家住宅。1889(明治12)年ごろに建てられたとみられ、今井家は「駿河屋」の屋号で呉服屋を営んだ。ここは江戸時代の旅籠「油屋」があったところだ。長州の桂小五郎、会津の山本覚馬、庄内の清河八郎ら幕末を彩る志士たちが宿泊したことが宿帳に記録されているという。
 今井家住宅からほど近い所に高札場跡。高札には、慶応4年3月、太政官名で人を殺し家を焼き財を盗むような悪行を行うな、などのお触れが記され、佐倉藩知事がこれを守れ、と添え書きしている。桂や山本、清河らが闘争に明け暮れていたころも似たような高札がかかっていたに違いない。彼らは触れ書きを見てどう思ったのだろう。
 さらに10分あまり歩くと赤壁に格子窓の住宅が目に留まった。三谷家住宅だ。説明板には「明治初年に建てられ佐倉の伝統的な民家」とあり、佐倉市の登録有形文化財に指定されている。

蘭癖の面目躍如

 三谷家住宅から道ひとつ隔てた隣が佐倉順天堂記念館。佐倉順天堂の一部が保存、公開されているのだ。今回の旅の最終目的地である。歩き出して3時間がたっていた。入り口はなんの変哲もなく、上級武士宅の玄関といった風情だ。説明板にはおおむね次のように記されている。
順天堂は蘭医、佐藤泰然が1843(天保14)年に開いたオランダ医学の塾。ここではオランダ医学書を基礎としながら、当時としては最高水準の外科手術を中心とした医学教育が行われ、全国各地からやってきた多くの塾生が学んだ。泰然の養子、佐藤尚中は長崎でオランダ医、ポンペに学んだ後、系統的な医学教育を取り入れたことから、ここで学んだ塾生の多くが医学界で活躍した。明治時代、尚中はお茶の水に順天堂医院を開設。佐倉の順天堂は佐倉順天堂として医療活動を続けた。1858(安政5)年に建てられたものの一部が現在残っている。
 以上の記述から、佐藤泰然が順天堂を開き、養子の尚中が花開かせたとわかる。
建物の中に入るとまず泰然の肖像画にであう。長さ30センチほどもある長い白ひげをたくわえた面長な顔立ち。きっと目を見開いており、切れ長な目元は断固たる意志の持ち主であることを表している。江戸で塾を開いていた泰然が佐倉に移住した理由について、解説パネルに「蘭癖と呼ばれていた佐倉藩主堀田正睦の存在があった」とある。ここでも正睦が登場。「蘭癖(らんぺき)」と呼ばれていたというのだから、単なる開明派のレベルをはるかに超えていたようだ。
 順天堂の門人は慶応元年の史料によると松前藩から宮崎藩まで110人。幕末から明治にかけて述べ1000人におよんだとみられている。入り口の説明板に「外科手術をした」とあるように、大腿部を切断している手術図がパネル展示されている。塾生たちに教えながらメスを施しているひげの男性は若き泰然なのか、あるいは佐藤尚中なのか。図だけではよくわからない。
 順天堂に残る記録では1850(嘉永3)年から53年にかけて33例の手術が行われた。そのなかには13歳の女性の盲腸炎の手術、43歳の女性の乳がんの手術などがあった。この乳がん摘出手術は1時間ほどで終了、苦痛と出血が少なかったという。
私が注目したのは「泰然と種痘接種」の説明パネル。それによると、1849(嘉永2)年7月、長崎で我が国初の牛痘接種が成功、その5カ月後の同年12月、佐倉でも実施されるようになった。本稿の冒頭、佐倉が蘭学塾の日本における二大淵叢になると司馬が書いていると述べたが、長崎の蘭方医学を当初から積極的に取り入れたことが、この種痘接種からもうかがえる。
 佐倉藩は順天堂での種痘接種が始まると「疱瘡(ほうそう)徐け」という木版刷りの文書を出した。そこには「江戸ではお姫さまも種痘をした。薬種料は藩の積立金から出すので医師への礼物の心配なく誰でも治療が受けられる」などと記され、加えて「漢方による種痘法は大いに害がある」とも付言されていた。蘭癖の面目躍如たる藩民サービスといえるだろう。
 ほうそうと呼ばれた天然痘は「死に至る病」として恐れられた。この文書が配布されたことで、たちまち藩外にも治療のうわさは広がった。100万の人口をかかえる江戸の町には患者は少なからずいたはずだ。佐倉なら2日で行ける。そこで治療を受けられるというのは大変な朗報だったに相違ない。順天堂には入院施設がないため、大黒屋市太郎など3軒の宿に患者が泊まった。ほどなくこれらの宿は病人宿と呼ばれるようになった。
 佐倉は成田山への参拝者の宿場であるだけでなく、順天堂患者たちの宿場でもあったのだ。

決然とした佐藤泰然像

 佐倉の私の旅は本稿の冒頭に書いたように、ハリスの銅像を小耳にしたことと、司馬の『胡蝶の夢』に佐倉が登場するのを思い出したことから始まった。この小説の中で、ハリス、堀田正睦、佐藤泰然がどう関係づけられているかを記して、この旅の終わりとしたい。
(堀田正睦、佐藤泰然)
――蘭方医学を学ぶなら佐倉にゆけ。
ということが、東日本のその道の志望者の常識になりはじめているが、この塾は(松本)良順の実父佐藤泰然のひとりの手で興った。ただ佐倉十一万石の領主堀田備中守正睦が、江戸城の茶坊主あたりのあいだで、
「西洋堀田」
 というあだなをつけられていたほどの開明家だったことも、順天堂の繁栄の条件のひとつになっている。
(正睦、泰然、ハリス)
「西洋堀田」
 といわれた堀田正睦は、京都あたりの書生論壇がさわげば騒ぐほどその開明主義をいよいよ固くした。西洋と戦うよりは西洋の仲間に入ってしまえ、という粗放単純な開国論だが、その政治姿勢に小骨を付けたり肉をつけたりしてやるのが佐藤泰然の仕事だった。
 のちに堀田が閣老筆頭になり、米国の駐日代表のタウンゼント・ハリスと折衝をかさねてやがては日米条約の調印まで漕ぎつけるのだが、この間、泰然が堀田の西洋知識の非公式顧問のようになって働いた。泰然はハリスの人間に惚れてしまい、そのことを息子の良順に語ったりした。

 順天堂の玄関前の庭に佐藤泰然の胸像がある。その決然とした面構えをみていて、佐倉はこの泰然と正睦、ハリスによって順天堂宿場町になったのだと確信した。私はこの数年、あちこちの宿場を歩いた。宿場町としては、佐倉は本陣跡もない地味な存在だ。だが、ほかにない開明宿場であったことに、新鮮な驚きを感じた。ハリスの銅像が佐倉にあるナゾが解けた満足感をおぼえながら私はJR佐倉駅にむかった。