スサノオ追跡《スサノオは渡来神?》片山通夫

白村江の戦い

 スサノオが、高天原を追放されて、一旦朝鮮半島に降り立ったという説があるということは前に書いた。その根拠になるのが日本書紀の記述である。
 ここでまず古事記と日本書紀の編纂時期を探ってみたい。
 と言ってもすでに知られているように、古事記は日本最古の歴史書である。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。 次に日本書紀は日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。
 こうしてみるとほとんど同時期の編纂だと言える。ではその違いと言えば、古事記は天皇家の存在の正当性を説いた部分が多く、日本書紀は日本の正当な、つまり公式の歴史書と言える。

 その日本書紀にはスサノオに関しては次のように説明されている。

 書紀には全部で六つの高天原追放神話がある。たとえば第二の「一書」ではスサノオは、安芸国の可愛(え)の川上に天降った。しかし、本文をはじめ、第一の「一書」、第三の「一書」、第四の「一書」と、多くの解釈ではやはり出雲の斐伊川上流に天降ったとしている。とくに第四の「一書」には新羅(しらぎ)を経て出雲国にある鳥上の峰に天降ったとあり、高天原から朝鮮半島を経由して出雲国へ至ったと記載されている。 この朝鮮半島を経由するルートについては第五の「一書」にも韓郷(からくに)から紀伊国を経て熊成峯(くまなりのたけ)に降りたとしるされている。第四と第五の「一書」によると、スサノオは朝鮮半島を経由しているということは、おそらくスサノオが渡来神であると考えられるんではないだろうか。

 話を戻す。古事記や日本書紀が編纂された時代と言えば、大陸や朝鮮半島はどんな時代だったのか調べてみた。
まず編纂されたのは700年代前半だと言える。この時代は当然と言えば当たり前のことだが、統一新羅の時代である。
武烈王の即位した654年から、その直系の王統が途絶える780年までの時代を中代と呼び、新羅の国力が最も充実していた時代であった。新羅は金?信が援軍を率いて、唐軍に付き随い百済へ進軍。660年に百済を滅ぼし、663年に唐軍が白村江にて倭国の水軍を破ると(白村江の戦い)、668年に唐軍が高句麗を滅亡させた戦いにも従軍した。ウイキペディア

 ここに出てくる白村江の戦いだが、663年とある。日本はこの時朝鮮半島に出兵し百済を助けたが、唐・新羅連合軍に敗れた。書紀には次の通り記載されている。

戊戌、賊將至於州柔、繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘、陣烈於白村江。戊申、日本船師初至者與大唐船師合戰、日本不利而退、大唐堅陣而守。己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得

唐の水軍に悩まされた完璧な負け戦だった。

 白村江の戦いはスサノオとは直接関係はない。しかしスサノオが新羅に降り立ったという日本書紀の記述に着目したい。日本書紀は663年の白村江の戦いのおよそ半世紀あとに完成している。その頃、朝鮮半島は統一新羅が治めていたことは前に述べた。
 スサノオはその統一新羅に降り立ったことになる。弥生時代にはすでに青銅や鉄器のが存在していた。それを手に入れる為に、弥生人はかの国を訪れた。『魏志』弁辰伝には弁韓の鉄を求める倭からの来訪者が書かれており、『漢書』の地理志には「楽浪海中倭人あり」とある。銅鏡、鉄製品、ガラス玉など大陸の品を入手するために、日本側では海岸で生産した塩、そして稲や生口(奴隷)を送った。伽耶には、鉄を得るために倭人が訪れていたという記述が『魏志』にある。

 これらの史実(朝鮮半島と倭との交流)から想像すると、スサノオは弥生時代の渡来人だったと思うしかないのではないか。

 しかしこれでは神話のありがた味も面白味も全くない。やはりスサノオは新羅から鉄を携えて出雲に来たと信じよう。そうでないと…。