Opinion《渡来人と呼ばれた人々》:片山通夫

鬼室神社

 過日、鬼室神社(写真)というところへ行った。変わった名前の神社なので、何の予備知識もないままその名前に惹かれてのことだ。 

情報を滋賀県日野町の観光協会からいただいた。鬼室神社の項には以下のように紹介されていた。

近江朝廷が大津に都を定めた頃、現在の韓国、往時の百済(くだら)国から我国へ渡来をした多数の渡来人の中の優れた文化人であった鬼室集斯(きしつしゅうし)という高官の墓が、この神社の本殿裏の石祠に祀られているところからこの社名がつけられました。古くは不動堂と言い小野村の西の宮として江戸期まで崇拝された社であり、小野の宮座である室徒株(むろとかぶ)によって護持されてきました。また今日では鬼室集斯の父、福信(ふくしん)将軍が大韓民国忠清南道扶餘郡恩山面(ちゅうせいなんどうぷよぐんうんざんめん)の恩山別神堂にお祀りされているところから、姉妹都市としての交流が盛んに行われています。

鬼室集斯は百済の人のようだ。いわゆる渡来人である。この墓の真贋はともかく、近江の国に大津京があった。 ただ大津京は5年余りで壬申の乱の影響などもあり、廃都された。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都し、天皇はこの宮で正式に即位したようだ。この時代、朝鮮半島では百済が新羅と唐に攻められて亡んだ(660年)頃である。我が国にとっては白村江(はくすきのえ)まで兵を出して百済を助けようとしたが、惨敗したこともあってか、百済からの亡命者たちが大挙して我が国を頼ってきた。
 そんな事件を背景に、ちょうどまだまだ発展途上国(?)然としていた我が国は、法令などの整備や、様々な技術を百済などから来た人々の力を借りて国造りに励んだようである。鬼室集斯を例にとってみると、渡来人の倭国(日本)での活躍が理解できよう。鬼室集斯は百済の貴族・達率だったが、663年の白村江の戦いで敗れたの後に一族とともに日本へ亡命を余儀なくされた。『日本書紀』によれば、鬼室集斯は天智天皇4年(665年)2月に小錦下(しょうきんげ)の位に叙せられた。小錦下は、664年から685年まで日本で用いられた冠位である。26階中12位。

また天智天皇のときにわが国で初めて大学寮が設けられ、鬼室集斯が「学識頭」になった。今でいう文科省の大臣である。このころの日本は前述したようにまだまだ発展途上にあったため、滅びたとは言え百済の貴族である鬼室集斯を頼った。
 まだ十分統一された国家ではなく、律令を基本とする文治主義へ移行するための官僚養成が急がれていた時期であったので、学校制度創設などで百済からの亡命知識人は重用された。

 余談だが1910年、我が国はさきの戦争が敗戦に終わるまでの35年間、朝鮮半島全域を植民地にした。一部と思いたいが、日本人は朝鮮を植民地にしたことで、《学校や鉄道などインフラの整備という「良いこと」も朝鮮にしてやった》という説がまかり通っている。トランプがアメリカの大統領になった時だったか、「移民は自国へ帰れ」といったことがある。それを聞いたネイティブのアメリカ人は「へえ、トランプはせっかく大統領になったのに出身国へ帰るんだ」といったとか言わなかったとか…。

 わが国も飛鳥時代にまでさかのぼったら、渡来人にどういわれるのかしらん。