編集長が行く《もく星号墜落に見る奪われた空》井上脩身編集長

伊豆・大島、三原山

松本清張 風の息全3巻

 松本清張の小説『風の息』は実にユニークな作品だ。もく星号墜落事故をテーマにした1100ページにものぼる超大作だが、最初の85ページは新聞記事や政府の調査報告書などの資料に基づき事実を丁寧に記述、残る1000ページで清張ならではの推理を展開させるという構成。私はノンフィクション編で取り上げられた『サン写真新聞』の現場写真に目を見張った。同紙は1946年から60年まで発行されたタブロイド判夕刊紙。廃刊の30年後、紙面を抜粋してネガフイルムを再プリントし、『サン写真新聞 戦後にっぽん』のタイトルで毎日新聞から15冊に分けて発刊された。もく星号墜落事故が扱われているのは第7集。表紙に現場写真があしらわれている。私はこの第7集を本棚にしまいこんだままにしていた。清張の小説にふれたのを機にそのページを改めて繰った。確かに衝撃的な写真だ。前号で大島憲法について報告したが、伊豆の大島を訪ねたのは、実はもく星号の墜落地を自分の目で確かめたい、と思ったからである。

事故原因は闇の中

 清張が書いたノンフィクションを引用しつつもく星号墜落の概要を記す。
 事故は1952年4月9日に起きた。午前7時34分、乗客乗員37人を乗せ、大阪経由で福岡に向けて羽田空港を飛び立った日航のマーチン202型双発機「もく星号」は離陸20分後に消息を絶った。

 同機が館山上空から羽田に連絡したが、大島上空からは連絡がなかったことから、館山―大島間で遭難したと思われた。

 ところが同日午後3時、横田の米軍基地から、静岡県沖で遭難しているとの情報があり、3時15分、浜名湖沖で機体発見、米巡視艇による救助開始との情報が寄せられた。さらに3時50分、国警静岡県本部は米軍からの情報として浜名湖沖海上で米軍救助隊が乗客乗員全員を救助と発表。これを受けて日航本社では同社常務が「全員救助された」と報告、詰めかけた家族らは喜びにつつまれた。

 この歓喜にやがて暗雲が垂れ込める。午後8時、海上保安庁は救助の報告を受けていないと述べ、同10時半、極東米海軍は「米船は救助していない」と通報。10時45分、横須賀基地司令部の海掃艇が、救助を行っておらず機体も発見していない、と伝えてきた。

サン写真新聞 戦後にっぽん』第7集の表紙

 一夜が明けた10日午前8時34分、日航の捜索機「てんおう星号」が三原山の噴火口東約1キロの地点で、バラバラになっているもく星号の機体を発見。ほぼ同時刻ごろ、米空軍の捜索機5機のうち1機がもく星号の機体を見つけ、第3救助隊の降下医療隊員2人がパラシュートで降下、遭難機がマーチン202であることを確認し、生存者はいないと報告した。

 遺体の収容や慰霊の営みと並行して墜落原因の究明作業が行われた。一番のナゾは同機が墜落前、なぜ高度2000フィート(約600メートル)という低空で飛行していたか、だった。三原山(758メートル)は高さ約2400フィート。スチュワード機長は羽田―福岡間の操縦経験があり、館山から大島に向かう際、ルート上に三原山があることは当然知っていた。このことから、墜落原因はおおむね計器類の故障か、人為的ミスかに絞られた。

 事故から1カ月がたった同年5月9日、政府は事故調査結果を発表。それによると、低空飛行しなければならない気候状況でなく、羽田、館山、大島、焼津の航空無線標識に異常がなく、操縦者も航路に相当慣れていたと認定。このうえで、「航空交通管制について、羽田出発時において一度誤った交通指示が出されたが、直ちに訂正された。館山通過後の記録に多少の矛盾が認められ、航空機との連絡に不十分な点があった。これは事故の直接原因になり得ないが、航空管制官の不手際が操縦者の錯誤を誘発する原因になり得たかもしれない」とし、「航空管制官の不手際とその他何らかの間接原因にもとづく操縦者の錯誤ということを非常な確実性をもって推定しうる」と結論づけた。

 事故調査委員会はパイロットの錯誤を第一原因としつつ、その背後に航空管制官のミスがあることを認めたわけだ。ではなぜ管制官がミスをしたのか、については踏み込まなかった。踏み込めない政治状況にあるため、と思われた。

 航空管制官の指示について『科学朝日』は同年6月号で次のような記事を掲げた。
羽田空港の滑走路に停止して出発許可を待っていたもく星号の機長に対して、空港のコントロールタワーから与えられた出発許可は「グリーン・テン(館山)通過後、高度2000フィートで南へ十分間飛べ」というものだが、機長は「高度が低すぎる」と抗議。コントローラーは改めて「羽田を出発後、高度2000フィートで飛び、その後、高度6000フィートで」と訂正した。
この記事の通りだったとすれば、事故機の機長の抗議にしたがって6000フィートに訂正されたのに、自らそれに反してわざわざ低空飛行したことになる。なぜそんな危険飛行をしなければならないのか。疑問は解消されるどころか膨らむばかりだった。

 柳田邦男氏は『航空事故――その証跡に語らせる』(中公新書)の「日本の主な事故一覧」のなかで、もく星号事故について「米軍管制ミスと見られるが、うやむやのまま調査打ち切り」と記している。同書は世界各地で起きた航空機事故について述べたもので、もく星号墜落にはふれていない。だが、柳田氏は事故結果報告に納得できなかったのだろう。ほとんどの国民が納得できないまま真相は闇の中に葬られた。

占領政策の中で

 清張は当時の新聞報道を丹念に調べているが、特に注目したのが冒頭に述べた『サン写真新聞』だ。清張は「現場写真の白眉」と最大限に賛辞。「第一ページにはスチュワード機長の横向きの死体を頭部のほうから大写しで撮っている。傍らに機体の一部が斜めに出ていて、背後には破片が散っている」と書いている。『サン写真新聞 戦後にっぽん』に2ページ見開きで掲載されている写真がそれに当たるようだ。

 この写真では、うつぶせになり顔を横に向いている男性を頭部から撮影。さら一人の男性があおむけに倒れている。この男性の向こうに機体の残骸が散らばっており、垂直尾翼が地面に斜めに突き刺さっている。写真のわきに「『米軍機が発見、全員救助』の朗報が一転暗雲に」の主見出しと、「占領下の米軍主導の航空体制が生んだ事故『もく星号遭難』」の脇見出しがつけられている。
 この見開きページにつづいて2ページにわたって5枚の写真と記事が載っている。女性の遺体のそばに警察官2人が写っており、尾翼のそばにエンジンが転がっている写真もある。

 現場は「砂漠」と呼ばれる火口直下の樹木のない広大な平地。遺体が機体のそばに散在しているうえ損傷が小さいことや、エンジンが近くに落ちていることなどから、低空飛行を続けてきた同機が砂漠まで来たところで機首を下げたか、胴体着陸を試みて失敗した可能性が高いことを示していた。

 墜落した時の状況がそのまま写しとられているのは、現場保存と捜査のために警察が縄張りする前に撮影したためと思われる。撮影したのは、「本社(サン写真新聞)大島通信員・勝瀬一夫」。大島地区署員と思われる警察官が写っていることから、清張は午前11時ごろの撮影と推測している。

 『サン写真新聞 戦後にっぽん』の記事は次のように書いている。
日本航空史上空前の事故に、ただちに事故調査委員会が設けられ、あらゆる角度から原因究明がなされた。その結果、遭難の遠因は、機長が航空路に規程されている最低高度以下で飛行し、三原山に激突したものと断定された。事故原因については、さまざまに取り沙汰された。当時日航専務の松尾静麿は次のように述べた。

 「事故の責任が、誤った指示を与えたと思われる米軍の地上管制官にあるのか、管制官の指示通りに飛行したスチュワード機長にあるのかについては、大いに意見の分かれるところであった。たとえ地上から誤った指示を受けたにせよ、機長が日本の地形に精通していれば、館山から二千フィートの高度で八分間飛行すると三原山にぶつかることはわかりきっているのだから、地上の指示に盲従せず、その訂正を要求できたはずだ。従って管制員のミスは、事故の間接原因になったかもしれぬが、直接原因はあくまで機長の錯誤にあるとの討論もなされたのである。それはともあれ、この不幸な事故は、管制員のミスや、機長のちょっとした油断などが、運悪く重なった結果起こったものだ」

 松尾はこう断言しながらも、その真相は、まだ占領下にあったため、ついに徹底的な解明を見なかったと述べている。
 いずれにせよ、もく星号の惨劇の原因は、営業を除く航空権の一切がアメリカに支配・運営されていて、日本人の手の届かないという機構のなかにあったといってよい。
写真:民間機として初めて飛び立つ直前のもく星号(『サン写真新聞 戦後にっぽん』第6集より)

 我が国は敗戦後、アメリカの占領政策によって航空活動が禁止された。しかし、米ソの対立、朝鮮戦争の勃発などによってアメリカは日本を極東での対共産圏の基地とすることに方針を転換。その一環として連合軍総司令部は50年6月、日本政府に対し、航空機の保有と運航を除く切符販売活動に限って1社のみに営業権を認めることを許可した。翌51年3月、日本航空が設立され、米・ノースウエスト航空と運航委託契約を結んだ。日航がノ社から飛行機とパイロットを賃借して営業するというのがその内容だ。

 こうして51年10月25日午前7時42分、戦後初の民間機マーチン202型機が飛んだ。この飛行機が奇しくももく星号だった。『サン写真新聞 戦後にっぽん』第6集には同機が羽田空港を飛び立つ前の写真や機内写真が載っている。サン写真新聞のカメラマンが同乗して撮影したもので、伊豆半島上空で朝食のサンドイッチが配られたという。この半年後、ほぼ同じ上空で遭難するとはだれ一人知るよしもなかった。
 
火口直下の砂漠

 私は今年3月末、伊豆の大島を訪ねた。東京の民放を定年前に退職して大島に移り住んだ大学時代の友人に会うためだった。彼に大島憲法のことを教えてもらい、前号でレポートしたが、本来の目的はすでに述べたように三原山に登り、もく星号の墜落地を見ることだった。
 三原山の西の山麓から歩きはじめた。褐色の岩がごつごつと散乱する溶岩地帯に道がつけられていて、道沿いにはいくつかのコンクリート製シェルターが設けられている。噴火の際の避難地だ。

 大島は全体が火山の島である。「大島火山」ともいわれ、過去1万5000年の間に100回以上噴火したという。近年では1986年11月15日、三原山が噴火、火柱が300メートルに達し、噴煙は高さ3000メートルにのぼった。19日には溶岩がカルデラに流れ出し、21日には新たな割れ目噴火が起きるとともに、溶岩が住宅地に向かって流出、1万人が島外に避難した。このような大規模噴火が起きれば、シェルターに逃げ込んでもとても助かるまい。

 溶岩が流れた跡は三原山の斜面を、何筋にもわって渇筆でかすり書いたように残っている。そのわきを登ると火口に到着。登山道は火口を一周できるようにつけられている。火口を西から右回りに北へ、さらに東へと進むとだだっ広い平地が広がる。草むしているところもあれば、岩と砂だけの荒涼とした場所もある。流れ込んだ溶岩が堆積してできたといわれ、樹木が全くないのは溶岩によって焼かれたためらしい。草が生えている所があるということは、新たな溶岩が流れ込まなければ、何百年先には木々が生えてくるのかもしれない。

機長が大写しされている墜落現場写真(『サン写真新聞 戦後にっぽん』第7集より)

 もく星号はこの砂漠に斜めに突っ込んだのだ。もし三原山に激突していたなら、機体はもっと粉々になり、遺体の損傷ははるかにひどいものになったに違いない。機長は三原山を避けようとしたと考えるべきだろう。

 目を南の海に向けると、利島、新島が春の日を背後に受け、シルエットになって浮かんでいる。東に目を移した。「よく晴れた日は房総半島が見える」と友人はいう。あいにくこの日は霞がかかっていて、目を凝らしても同半島は見えない。私は見えないながら、館山から大島に向かってくる飛行機を頭に描いた。その飛行機は私がいる所よりも低空を飛んでいる。それが民間機であれば驚愕以外のなにものでもないだろう。

 もく星号は大島上空を、危険を百も承知で2000フィートの高度をとったというのだ。アクロバット飛行をなぜしたのだろう。素朴な疑問が頭から離れない。
『砂の息』のフィクション編を読みだしたのは大島から帰ってからだ。「アメリカ空軍作成航空路線図」に関する次の説明記述部分に目が留まった。

 米軍の演習による危険区域として「三宅島の西側」が指定されているが、「この演習区域は極めて狭小だから、各軍用機は危険区域からはみだす可能性が強い」とし、「館山・大島を通る民間機は終始、付近を航行中のアメリカ空軍機におびやかされている」とある。

 もく星号は空軍機との衝突を避けるため低空を飛ばざるを得なかった、というのが清張の見方だ。清張はさらに想像をたくましくし、米軍演習機の仮想敵機として攻撃されたのでは、と大胆な推理をする。
仮想的機として撃たれたというなら大変な事件だが、もちろん推理の範囲を超えない。だがそんな推理をされるほどに占領時代は闇に包まれていた。

米軍機のはみ出し容疑

もく星号の墜落事故の発生は52年4月9日であることはすでにふれた。この19日後の4月28日、対日講和条約と行政協定が発効し、占領時代が終わる。もく星号は占領時代の終了まで秒読みに入ったときに、大島の砂漠に散ったのだ。柳田邦男氏は「米軍の管制ミスとみられる」という。当時の米軍の管制体制はどのようなものだったのだろうか。

 最近、『横田空域――日米合同委員会でつくられた空の壁』(角川新書)が刊行された。著者はジャーナリストの吉田敏浩氏。吉田氏は日米安保とそれに基づく日米地位協定に詳しいという。
 同書によると、47年10月ごろ、米軍がジョンソン基地(埼玉県入間市、現航空自衛隊入間基地)に東日本管制センターを、板付基地(現福岡空港)に西日本管制センターを設置、日本とその周辺上空の広範囲にわたって航空管制を開始した。
もく星号もジョンソン基地の管制にしたがったはずだ。しかし、政府の事故調査結果報告には「航空交通管制について、羽田出発時において一度誤った交通指示が出された」とあるものの、ここにはジョンソン基地は登場しない。また『科学朝日』の記事には「空港のコントロールタワーから与えられた出発許可はグリーン・テン(館山)通過後、高度2000フィートで南へ十分間飛べ」だったあり、羽田空港の管制官が誤った指示をしたとしか読みとれない。
 ジョンソン基地の管制官は何の指示もしなかったのだろうか。
『風の息』のノンフィクション編には5月7日付毎日新聞の記事として、次のような記述がある。

 機長が羽田の管制塔から離陸前に受けた指示は「南方へ十機が飛行中であるから館山以降十分間は高度二千フィートを保て」とのことだった。機長が大島上空は五千フィートと規程されているので、この指示に抗議したところ「館山とあるのは羽田出発後十分の誤り」と訂正してきた。もく星号からの初めての連絡は、ジョンソンコントロールタワーの記録では「館山通過、高度六千」とあるのに、同所のモニターの記録には二千フィートになっていた。
 一方、事故調査結果発表後の航空庁長官と記者団とのやり取りのなかで、「なぜ発表が遅れたのか」とただされ、長官は「米軍からコントロールセンターのテープレコーダーなどが提供されるはずで、それを待っていた。督促しても来なかった。(資料を提供してくれなかった理由は)わからない」と答えている。

 記事によると、コントロールセンターはジョンソン基地の航空管制室を指しており、このコントロールセンターが羽田空港の管制官に指示したことは明らかだ。毎日の記事の「南方に十機が飛行中」というのは、米軍機10機が飛行していたことを示すもので、ジョンソン基地の管制官が「米軍機10機が演習中なので2000フィートで飛行せよ」と羽田の管制官に指示させていた可能性が濃厚だ。同基地が資料を出さなかったのは、自らのミスを隠すためと見られてもやむを得ないだろう。『サン写真新聞 戦後にっぽん』が「もく星号の惨劇の原因は日本人の手の届かないという機構のなかにあった」と書いたのもむべなるかなであろう。
 この10機は三宅島西側の演習区域で飛行していた戦闘機を指すと思われる。区域内を守っての演習飛行なら、コントロールセンターがわざわざ「南方に十機が飛行中」と言う必要はなかったはずだ。区域をはみだして民間航空機の空路にまで演習飛行をした疑いを拭えない。この演習機を避けるためにやむなく機長が低空飛行したとみる方が説明がつく。もしそうならば、事故の遠因は米軍機の不法演習ということになる。占領中の米軍が事実を明らかにするはずはなかった。

空の壁の横田空域

 問題は占領時代が終わって後も日本の空はなお米軍に牛耳られていることだ。『横田空域――日米合同委員会でつくられた空の壁』によると、首都圏とその周辺の空は「横田空域」(正式名称・横田進入管制区、略称・横田ラプコン)に覆われている。具合的には、東京、神奈川、埼玉、群馬のほぼ全域、栃木、新潟、長野、山梨、静岡、福島の一部の合わせて10都県にわたる広大な空域が横田空域として、米軍が優先的に使用できるよう設定されている。各空域は最高高度約7000メートルから約5500、約4900、約4250、約3650、約2450と6段階に区分されていて、日本の民間航空機は悪天候や機体の故障などの例外的な場合を除いて、この高度を守って飛行しなければならない。
 横田空域はいわば見えざる空の巨大な壁だ。羽田から関西、北陸、中国、四国、九州や韓国、中国、東南アジアに向かう民間機は離陸後東京湾上を急旋回して高度を上げないと横田空域を飛び越えられない。着陸の場合も千葉県側に回り込む迂回ルートをとらなければならない。

 こうした空域は岩国基地を中心に中国、四国地方にも設定されおり、岩国空域と呼ばれている。東京や大阪から大分に向かう場合、岩国空域を飛び越えた後、急な高度低下に入らねばならず、パイロット泣かせだという。
これらの空域は1975年の日米合同委員会での密約によって合意に至ったと吉田氏はいう。「政府は占領時代の米軍の既成事実としての特権を承認した」と指摘したうで、「法律上の根拠なく横田空域における管制を米軍に委任している」と論難している。
もく星号事故当時、日本の空を米軍が我が物顔で飛び回り、日本政府はご無理ごもともとひたすらへりくだっていた。事故から67年がたったが、米軍の我が物顔も政府のへりくだりようも、何ら変わっていない。    了