昭和の引き出し《いりこのあった生活》鄭容順

 昭和から平成、そして今年は令和元年を迎えた。昭和19年(1944年)生れの私は昭和時代を長く生きてきた。西暦の記述にこだわる人もおられるが、昭和時代を長く生きた私にはこの度、日本政府が発表している元号で記述していく。

平成は電子機器の発達で昭和では考えられなかった生活スタイルが一変した。携帯電話が発達し、各々鞄の中に携帯電話が入っていた。どこに居ても通話ができた。携帯電話がない時代、待ち合わせに苦労した。待ち合わせに遅れて来る人に、最寄りの駅の掲示板にチョークで、今どこにいると書いていた。駅の改札口を間違うというすれ違いもあった。
今はお金さえ出せば何でもある世のなかになった。 家庭料理の味、出汁を作るのも今は、液体、粉末、固体と数知れず、種類豊富にある。最初は抵抗があるものの使いだすと便利でスーパーに並んでいる出汁を何種類か購入して家庭料理に使っている。その片隅に置かれているのが「出汁じゃこ」である。つまり「いりこ」である。いりこは鰯、鰺などの子どもである。

年輩の人は今も出汁じゃこで出汁をとっておられるだろう。出汁には昆布もかつお節も貴重である。
私の子どものころ、ざるの中にじゃこが入っていた。母親は朝の味噌汁にこれで出汁をとっていた。時にはじゃこが栄養があるのか、菜っ葉などの野菜といっしょに煮付けて、じゃこも一緒に食べていた。どこの家でもこれが普通だった。自然にカルシウムになって骨が作られていた。当時の子供たちの骨の強さはここにあったのだろうか。当時の子どものおやつはサツマイモのをふかしたもの。これも飽きてくる。私は時々、じゃこをおやつにしていた。これを知った母親は「また食べた」と、言っては怒っていた。
現在の家庭で、もちろん出汁をきちんととっている人もいるだろう。しかしスマートフオンで料理画面を見ていると、老若問わず、家庭の主婦は種類豊富な市販の粉末、液体に固形などの出汁を取り揃えて調理にあれこれと使い分けている。もちろん便利になった。時短で調理もできる。
もうひとつの出汁に「()鰹節」がある。。鰹の身を加熱して乾燥した保存食品。削り器で削って味噌汁の出汁にした。削り器から漂う香りに食欲もわいた。その昔、手作業で家事をしていた主婦たち、その都度、削り器で鰹出汁を作っていた。
それが普通だった。
料亭では今もこの出汁だろうか。手間がかかるが高級感がただよう。

介護施設の高齢者が話していた。「いりこは好きになれず、野菜の煮付けに入っていると食べなかった。削り器で削る鰹節、小さくなると鰹節を金槌でたたいていた」と。なるほど、昔の人の生活の知恵がどこかにあった。
台所は炊飯器、ガスコンロ、洗濯機と開発して女性の暮しは楽になった。スピードを尊いと考えた社会は、削り器を使う家庭も減少、もちろんいりこを使用する家庭も少なくなった。

インスタントラーメンが美味しくなったのは、出汁の開発の重ねてきたものだろうか。1950年代に出はじめたインスタントラーメン、ここにインスタントラーメンのネーミングを記述、「日清ラーメンのチキンラーメン」、私は1961年、高校2年の時、初めて食べたが、美味しいと思わなかった。また挑戦して高校3年の時、食べた時は美味しかった。、それからどれほどの会社、どれほどの種類のインスタントラーメンが登場してきただろう。やはり出汁が美味しいから老若男女問わず、虜にしたのだろうか。あまりの人気に食べ過ぎると体に悪いといわれたが、今も人気は衰えない。ラーメンの中にも出汁、「いりこ」が使われているのだろうか。最近、骨折しやすい子どもたち、せめて子育て時代は「いりこ」を出汁にして、菜っ葉の煮付けに入れて見てはいかがだろうか。いりこは苦味や臭いがあるというので、料理番組を見ていると、いりこの頭とはらわたをとっていく。この作業も面倒なことである。私の子どもの頃、取っている家もあっただろうが、ほとんどそのままにしていた。時には味噌汁にも入っていた。中には出汁じゃこを残しておいて佃煮にもした。

なにげない、「いりこ」の話だが、昭和の引き出しを開けてみて思う。時には戦争もあった昭和だが、人の繋がりがあったほのぼのとした家庭料理を思いだす。

参考 「いりこと煮干しは同義語:一般的に、西日本ではいりこ、東日本では煮干しと呼ばれている」ようだ。関東では小さい煮干しをいりこと呼ぶ人がいるなど、地域によって呼び名が異なる。