書評《日本は個性ある文化と関連性を持つ島々の連なりである》渡辺幸重

-『日本ネシア論』を深読みする-

101人の筆者が480ページをかけて島嶼世界を書き上げた『日本ネシア論』(別冊環㉕、藤原書店、税別4.200円)が刊行された。本書では「ネシアは島の大きな集合体」とし、「日本ネシアは、国としての政治的一体性の内部に、多様性・異質性を抱えつつも、島アイデンティティを重要な一部として共有している集合体である」と説明している。私なりに言い換えると「“ネシア”とは、それぞれを対等な地域の連なりとして島々及び周辺地域を捉える概念」であり、「ポリネシアやミクロネシア、メラネシア、ニューギニア、ボルネオ、フィリピンから琉球列島を含む日本列島、千島列島という環太平洋の島の連なりおよび島と関連のある大陸地域を考えるとき、新しい文明観や価値観が提案される」と期待している。本書はそのための貴重な情報を与えてくれるだろう。

構成は、総論に続いて、日本の島々を先島ネシア・ウチナーネシア・小笠原ネシア・奄美ネシア・トカラネシア・黒潮太平洋ネシア・薩南ネシア・西九州ネシア・瀬戸内ネシア・日本海ネシア・北ネシアに分類し、歴史や文化、民俗、社会制度、宗教、交流、自然など多岐にわたる視点から島嶼社会を論じている(番外遍として「済州島海政学」の項がある)。
ここでは個別に取り上げる余裕はないので、総論および「おわりに」を読みながら島嶼社会の可能性と“危うさ”について考えてみたい。

排他的経済水域(EEZ)の基点としての島

本書の「まえがき」には次のような記述が見られる。
――振興法の成果もあり、二十一世紀に入ると、離島の役割と認識が変わる。遠い島ほど国益のかかる存在として、荷やっかい観から解き放されていく。どんな小さな島にも「強い光」が当たり始めた。
私は「遠い島ほど国益のかかる存在として」という表現が気にかかった。ここで言う“遠い島”とは、国境に近い島のことを指すのだろうか。
「第1遍 総論」の「ネシア・ニッポン【島小宇宙の連なりで日本を捉え直す】」の中には次のような記述がある。
――国境・大陸棚・EEZの基点・限界線が、諸国の国益を巡る重要テーマとなる時代を迎えている。
――日本ネシア認識を、人の住まない島々のみならず、人の住むことのできない極小拠点にまで広げなければならない時代の到来である。
洋上にぽつんとでも自国領の島があると、国境線が伸び、島の周辺には半径200海里の排他的経済水域(EEZ)が広がる。その範囲内に海底資源があればその国のものだ。従って、国家は人が住めない小さな島でも領土に編入しようとする。
その典型が、東京から南に1,700km以上、沖縄から南東に1.000km以上離れた太平洋の絶海に浮かぶ沖ノ鳥島だ。白波が縁取る珊瑚礁のリーフの中に、北小島、東小島があるが、高潮(満潮)時には北小島は約16cm、東小島は約6cmが海面上に現れているにすぎない。面積もそれぞれ7.86㎡、1.58㎡で、太平洋の荒波に飲まれそうな心もとない存在なのだ。1933年の調査では6つの露岩があったというから4つは風化や海食で消失したことになる。日本政府は残った2つの島の周りに約285億円の費用をかけて直径50mのコンクリート製護岸を設置し、さらにその周りを鋳鉄製消波ブロックで取り囲んだ。東小島には護岸コンクリートの破片で傷つけられないように島の上部をチタン製の防護ネットで覆っている。珊瑚を移植して増やし、その殻で島を少しでも高くしようという涙ぐましい努力も続けているようだ。
中国や韓国は、沖ノ鳥島を領土としての“岩”とは認めているが、EEZを設定できる“島”とは認めていない。もし沖ノ鳥島が島と認められなくなると、日本は国土面積(約38万㎢)を上回るEEZを失うことになる。2、3坪しかない土地は私にも岩にしか見えないが、国連大陸棚限界委員会の勧告を根拠にかろうじて日本はEEZを維持できているようだ。

国防を押しつけられる“国境離島”

本書(「ネシア・ニッポン」)では、人類の島との関わりのドラマを次のような段階にまとめている。
①フロンティアとしての島嶼時代/アイランド現象=生き物の矮小化適応
②孤立性と資源制約が強い地域のアイランド現象時代
③沿岸先進性島嶼時代/島々が拠点+ハブ中心地に
④陸の交通体系革命期の本島沿岸・内陸発展先行化/「離島化」時代
⑤脱後進化時代/島々に対する国策的支援
⑥国家・国土の個性ある一部としての地位と役割の発揮を目指した展開の時代
⑦架橋化時代
⑧島個性全開時代/憧れと敬意も付与される島宇宙の提供時代
⑨地政学的科学技術的な新フロンティア性の時代
⑩地球環境測定・観察基点としての役割の時代
それぞれの段階で表れた要素は、強弱はともかくすべて島自身が抱え込んでいるものだが、それぞれの段階について説明する余裕はない。ここでは前述した“気にかかっている内容(「遠い島ほど国益のかかる存在として」)”に関してコメントしてみよう。
本書では、⑨(新フロンティア性の時代)の説明の中で次のような記述がある。
――(島は)EEZ二〇〇海里の基点であり、二〇〇海里に加える大陸棚延長の基点としての、今は国益の最重要先端地である。水産資源・海洋資源(温度差発電・海洋深層水等)・海底資源・海底地下資源などに国益・人類貢献的な寄与が期待されるその最先端の地である。むろん国防もある。
さまざまな資源の獲得についてはEEZと深い関連があり、沖ノ鳥島の例で述べたとおりであるが、私が気にかかっている最大のテーマは、ここでさりげなく付記されている“国防”のことである。
日本政府は北朝鮮や中国の脅威を強調して軍備増強に走っているが、自衛隊、軍事施設の配備先のほとんどは島なのである。2017年4月に施行された「有人国境離島地域の保全及び特定有人国境離島地域に係る地域社会の維持に関する特別措置法(有人国境離島法)」で“国境離島”として13都道県148島を指定し、交付金などの“あめ玉”をちらつかせながら、自衛隊基地の増強を進めているのだ。
特に南西諸島では急ピッチで軍事化が進んでいる。2016年3月に与那国島に、2019年3月に宮古島と奄美大島に自衛隊の駐屯地が開設された。石垣島でも同じ3月に自衛隊基地の建設が始まり、沖縄本島の自衛隊も増強されている。また、馬毛島(西之表市)を日米の軍事拠点とするべく購入交渉を行っている。石垣島・宮古島・奄美大島にはミサイルを配備するとしており、頻繁に島嶼防衛・奪還訓練を行っている。種子島や奄美大島での訓練は民有地や市街地まで使用しており、南西諸島では我が物顔で自衛隊員が闊歩する事態が生じている。南西諸島はまさしく「ミサイル列島=軍事要塞」にされようとしている。

本書からはこのような危機感は感じられない。わずかに三木健氏が、沖縄の島々における人頭税や琉球併合、戦争マラリアなどの歴史を綴る各論の記事の最後で、次のように語っているのみである。
――「先島」では、尖閣諸島を巡る中国公船の動向を理由に、「島嶼防衛」の名のもと、自衛隊配備がすすめられている。
――ネシアは主張する。ネシアは自らの目的のため以外の手段に使われることを拒否する。ネシアは物事を武力によって解決することを拒否する。ネシアはあくまで海に開かれた関係でなければならない。「先島」の歴史が照らすネシアの教訓に、私たちは今一度、学ばなければならない。
対等な島の集合体であるネシアの可能性

私は、島嶼研究者が喫緊の課題として政治と軍事の問題にも真剣に取り組むことを望んでいるが、本書に南西諸島の軍事要塞化の記述が少ないことに不満を述べているわけではない。むしろ、日本の首相をはじめ世界各国のリーダーたちが自国の利益ファーストの姿勢を露骨にぶつけ合う世界に対して、本書が提起している「島嶼側の論理」が新たな地平を切り拓くことを期待しているのだ。

本書にある表現を自分なりにつなぎ合わせてまとめてみると次のようになる。
――島嶼国日本(=日本ネシア)を本州などの4つの本島(本土)を中心にし、他を上から目線(遅れた地域・発展途上地扱い)で「外の島々」として捉える視座から「4本島+小ネシア群の集合」として見る視座に転換する必要がある。時代は変わりつつあり、金銭的一次元的な見方を離れ、等身大の人間性豊かな暮らしぶりや、自然からの豊かな恵み(=生態系サービス)に視座を広げ、あるいは文化・芸能・言語・社会・行事・自力更生(困窮島)制度の成り立ちの島的個性に目が行くとき、さらにそれによる防災・減災・救助・相互支援力の豊かな在り方に、しなやかで強靱な回復力を持つ持続可能性社会の模範を見ることであろう。

――日本ネシアは、国としての政治的一体性を成しているが、多様性・異質性を抱え、実はそれぞれの地域が島アイデンティティを重要な一部として共有している。この特性は、世界の島嶼域(=島を抱える沿岸域)や大小島嶼国、また島嶼集合体メガネシアとも共通し、友愛共感することで地球海洋の環境・文化・気候・平和利用(経済・政治)・科学研究の広域管理拠点として貢献できるということなのである。国際連携上のリーダーシップを共有することで、ネシア主体=日本に求められる地球規模的な役割と責任がそこにもある。

かえってわかりにくくしてしまったかもしれないが、要は、本土中心の考えからそれぞれの地域(島)が主体をなすという考えに転換するべきで、それぞれのアイデンティティを対等に認め合ってこそ国境を越えて世界共通の問題に取り組むことができるのだ、と私は解釈している。

現在の世界は民主主義と人道主義の行き詰まりに直面している。私は、人類が民主主義と人道主義を放棄するのではなく、その根っこに島嶼性(優しさと自然に対する畏敬の念)を据えることが克服の道だと考えている。
さらに本書で気にかかる記述がある。編者の長嶋俊介氏が「おわりに」で使っている“ホモデウス史観”という言葉である。縦軸の上に「火(人為:産業革命S3)」、下に「水(脱人為:生態系サービスS1)」、横軸の左に「風(脱地表:情報革命S4)」、右に「土(地表:農耕革命S2)」をとる座標を作り、反時計回りに第一象限を唯物史観、第二象限をホモデウス史観、第三象限を海洋史観、第四象限を生態史観としている。この図のタイトルを「陸と海の論理統合と島の場(克文明の足場)」としているが、説明がほとんどないため、長嶋氏の真意は読めない。もしホモデウス史観という言葉が、『サピエンス全史』を書いたユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書『ホモ・デウス』から取ったとすると、島嶼論を人類史の文明論のレベルで論じようという意図があるのだろう。
私の理解では、「人類はコミュニケーションを広げるために神を創造したが、人類に代わってAIが世界の支配者になるときAIは人類を神とする(存在する必要はない)だろう。ホモ・サピエンスは神としてのホモ・デウスに祭り上げられるのだ」という意味のことが『ホモ・デウス』に書かれてあったと思う。“海と島”をライフワークにしてきた人間として、島嶼論がAI時代にどう生かされるか、『日本ネシア論』の各論まで読込、今一度『ホモ・デウス』に取り組んでみようと思った。