Lapiz2019冬号《びえんと》井上脩身編集長

令和元年と昭和3年
~共に遠くで軍靴が聞こえる年~

 令和の時代が幕を開けた今年、ラグビーワールドカップでの日本チームの活躍に沸き、来年の東京オリンピックへの期待が高まっている。明るい未来が約束されているかのようだ。そういえるのか。9月24日の毎日新聞夕刊に気になる特集記事が載った。見出しは「今は昭和3年に酷似」とある。昭和3年は西暦でいえば1928年。91年前である。そういえば10月に天皇の即位礼の儀式が行われたが、昭和天皇の即位礼が営まれたのも昭和3年だった。その13年後の1941年に太平洋戦争が始まっている。酷似とは、「戦争前の時代」ということなのであろうか。

戦前回帰へのルビコン川
「酷似している」と主張しているのは内田博文・九州大学名誉教授。専門は刑事法学。戦時体制の礎を築いた治安維持法の制定過程を研究している。
記事のなかで内田氏は、安倍政権が行った特定秘密保護法制定、集団的自衛権の行使容認、安全保障関連法の整備など、この数年急速に進めてきた国の権限を強める法整備や自衛隊を明記する憲法改正への動きなどの現況と、戦時体制を強めてきた昭和3年とはよく似ていると指摘する。

昭和3年とはどんな時代だったのか。内田氏の解説を要約すると以下の通りである。
治安維持法(1925年に制定)は昭和3年に緊急勅令と議会の事後承認の形で大幅に改定された。国体の変革が厳罰化されて最高刑が死刑になり、結社目的遂行罪も新設された。
この法律の対象は、当初は無政府主義者や共産党員だったが、やがて労働組合員や反戦運動家に広がり、太平洋戦争直前の41年の改正時には、「普通の人たち」の「普通の生活」が国の監視や取り締まりの対象になった。

内田氏によると、国が戦時体制を推し進める際には①治安体制②秘密保護・情報統制③国家総動員法制④組織法制――などをセットで整備する。実際、改正軍機保護法(1937年)、国防保安法(1941年)の制定によって国家のすべての人的・物的資源を戦争遂行のために統制、運用できるようにした。こうした流れのなかで満州事変(1931年)が勃発、戦線が拡大し太平洋戦争になだれこんだ。

内田氏は「昭和3年の段階であれば、治安維持法を廃止して引き返す選択もできた。しかし当時の世論は軍部にくみし、後戻りできない状況に進んでいった」という。
では内田氏がみる現在はどんな時代なのか。
第2次安倍政権が発足したのは2012年。以降、国の安全保障に関する情報漏れを防ぐ特定秘密保護法制定(2013年)を皮切りに、翌2014年に集団的自衛権の行使を容認する閣議決定、2015年に自衛隊での海外での武力行使を可能にする安全保障関連法などの整備が矢継ぎ早に行われた。さらに1917年には、過去3度廃案になった共謀罪の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法を成立させた。

内田氏は「一連の法整備で、国は都合の悪い情報を国民に隠し、国民を監視できるようにした。しかも現行憲法と明らかに矛盾する決定が、戦前よりスピーディーに行われている」という。そしてこうもいう。「現政権は日本を新たな戦前にしようと企てている。その証拠に、戦時体制の構築に向けてさまざまな下準備を進めてきた。改憲はその総仕上げ。私たちは今、戦前に向かう一歩手前、ルビコン川の岸辺に立っている」

人見絹江の銀メダル
 内田氏による「昭和3年酷似記事」を読みながら、私は『昭和史全記録』(毎日新聞社刊)の昭和3年のページを繰った。月ごとに1ページが割かれている。2月に初の普通選挙が行われ、3月は岩波書店待遇改善スト、4月は野田醤油大争議の記事が見える。どちらかといえば民主主義が浸透し、労働者の人権意識が高まっているように感じられる。これだけなら「戦争一歩手前」の気配はない。

6月のページには「満州某重大事件」の記事と写真が掲載されている。「張作霖奉天引き揚げの途中、関東軍河本大作大佐らの策略で列車爆破され当日死亡。当時は満州某重大事件として真相が隠された」(6月4日)▽張作霖爆死事件の責任者処分を発表、陸軍の圧力により、前関東軍参謀河本大作大佐を停職にとどめる。田中義一首相、天皇に叱責される」(7月1日)▽「田中内閣総辞職、浜口雄幸民政党内閣成立」(7月2日)――などとあり、列車爆破現場写真に加えて張作霖とその子どもが写った写真も掲載されている。

7月はアムステルダム・オリンピック。800メートル競走で人見絹江が銀メダルに輝いたことが写真で紹介されている。このオリンピックでは織田幹雄が三段跳びで、鶴田義行が200メートル平泳ぎでそれぞれ金メダルを獲得。だれがどうみても平和そのものだ。

11月は2ページ見開きで昭和天皇御大典の記事と写真。「今上天皇即位礼、京都紫宸殿で挙行。この日午前の銀座街、それはあたかも元日の朝の様であった」(11月10日)▽仙洞御所にて大嘗祭」(11月14日)などとある。京都駅前から進む天皇が乗った馬車の写真が目を引く。

12月で注目されるのは東京初の陪審裁判。「放火未遂事件を題材として開廷」(12月17日)。陪審法は1923(大正12)年に成立、昭和3年10月1日に施行された。1943年に停止。

以上見た通り、オリンピックでの金銀メダルの歓喜あり、天皇の即位礼の喜びありで、この国は我が世の春に包まれている。「満州某重大事件」が、やがてアジアから太平洋を戦争の惨禍に巻き込む起点になると誰が予想するだろう。

もしこの令和元年が昭和3年に似ているとすれば、この事件のどこかに一致点があるのではないか。私は張作霖爆死事件に注目した。

内閣に「ノー」と言わなくなる天皇
『日本のいちばん長い日』『ノモンハンの夏』などを著したノンフィクション作家、半藤一利氏の『昭和史1926→1945』(平凡社)。タイトル通り昭和元年から敗戦までの間のトピックスを拾いあげたものだ。その最初に取り上げているのが張作霖爆死事件である。

半藤氏は「張作霖爆殺事件」としている。列車に乗っている張作霖を、列車もろとも爆破して殺したのだから、たしかに爆死でなく爆殺だろう。本項では半藤氏にしたがって張作霖爆殺事件とする。

同書によると、満州に駐留する関東軍は「われわれは関知しない」と押し通すが、日本軍の謀略であることが徐々に明らかになる。元老の西園寺公望は「さては陸軍がやったな」と気づき、田中義一首相に「政府としてこの問題をしっかり調べ、犯人が日本人ということになれば厳罰に処さねばならない」と言い渡す。元陸軍大将の田中首相は「天皇の即位の大典の儀式が済むと陛下に申し上げる」と返答。実際に天皇に会ったのは事件から半年後の12月24日。「この事件は世界的にも大問題なので陸軍としても十分に調査し、陸軍の手が伸びているということならば厳罰に処するつもり」と述べたところ、天皇は「非常によろしい。しっかりやるように」と答えた。
年が明けると陸軍の謀略であり、首謀者が河本大作大佐であることがはっきりしてくる。しかし田中首相は、陸軍の幹部から「あなたも陸軍出身でしょう」などと牽制されたこともあって、昭和4年5月6日、天皇に「実は陸軍がやったのではない」などと報告。仮に関東軍に責任が生じるにしても、ほんの軽い処分で済ませたい旨を述べた。

これに対し、天皇は『昭和天皇独白録』の中で、「田中は再び私の処にやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたいという事であった。それでは前言と甚だ相違したことになるから、私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表をだしてはどうかと強い語気で云った」と回想している。

『昭和史全記録』にも「田中義一首相、天皇に叱責される」とあり、その翌日、田中首相は辞任している。

一応これでケリがついた形だが、問題はこの後である。最初に「犯人を厳罰に処すべし」と言った西園寺は、天皇が田中首相に辞任せよと政治に口出ししたことについて、「天皇自らそのような発言をすることは大きな間違い」との態度をとった。それがどう影響したかは定かでないが、天皇は「(辞めるようにとの)こんな云い方をしたのは、私の若気の至りである」(『昭和天皇独白録』)ので、「この事件にあって以来、私は内閣の上奏する所」のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与える決心をした」という。違う意見でも認めることにしたというのである。

半藤氏は「昭和史のスタートのこの事件の意味はここにある。昭和天皇が以後、内閣や軍部が一致して決めたことをノーと言わない、余計な発言をしないという立場を守りぬく、これが立憲君主国の君主のあり方と自ら考えた。これがのちに日本があらぬ方向へ動き出す結果をもたらす」という。「あらぬ方向」とは軍部の暴走によって、アジアから南太平洋にかけて多くの人々に犠牲を強いるような大戦争を起こすことにほかならない。

「日本国憲法守る」抜きのおことば

天皇を象徴とする現憲法は「天皇は国政に関する権能を有しない」(第4条)と定めており、天皇は内閣が決めたことに口をはさめない。天皇に君主としての権力を与えることは国民主権主義の原則に反しており、当然の規定であろう。

問題は、天皇が「自分の意見と異なる考えに対しても認めざるを得ない」ことを逆手にとって、天皇に承認を得ることがどこまで許されるかである。

前号で私は今年5月の天皇の即位に際しての「おことば」で、前天皇(現上皇)の「おことば」との違いについて言及した。

前天皇は「皆さんともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たす」と決意を込めたのに対し、現天皇は「憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たす」と述べたにとどまった。

現天皇の「おことば」は、前天皇のそれを基本的に踏襲しており、前天皇と同じ「おことば」にしようと考えていたことは明らかだ。したがって、「皆さんともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たす」との文言にしようとしていたと私は想像する。

ではなぜ、「日本国憲法を守り」とせず「憲法にのっとり」に変えたのか。前号で、安倍晋三首相が即位の前に2度、皇太子だった天皇を訪ねていることから、首相が「日本国憲法を守り」としないよう依頼したのではないか、との疑念があると書いた。この点をもう一度考察したい。

そもそも前天皇は「憲法を守り」ではなく、なぜ「日本国憲法を守り」と述べたのであろうか。

おそらく前天皇は「ほかならぬ日本国憲法」を強調したのであろう。平和主義を掲げる日本国憲法の最大の特徴は、「戦争を放棄」した第9条にある。前天皇は「憲法9条を守る」と言いたかったのではないだろうか。即位時点(平成元年)はすでに憲法9条を守るかどうかは大きな政治論争になっていた。このためストレートに「憲法9条」とは言わず「日本国憲法」とオブラートに包んだのであろう。

安倍首相は「憲法改正」を政治家としての宿願としている。10月5日の首相所信表明演説では「令和の時代にふさわしい、希望と誇りある日本をつくり上げる」としたうえで、憲法改変について「令和時代にどのような国を目指すのか。その理想を論議する場こそ憲法審査会ではないか。国会議員がしっかり議論し、国民への責任を果たそう」と述べた。ここでは野党を意識して「憲法審査会での論議」と論点をすり替えているが、その実質は「憲法9条に自衛隊を明記する」ことであることは論をまたない。所信表明演説をひとことで言うなら「令和の時代の今こそ憲法9条を変える」であろう。

その安倍首相にとって、天皇が令和の即位に際して「日本国憲法を守る」と述べるのは政治的に非常に具合が悪い。そこで「日本国憲法を守る」と言わずにほかの表現にするよう要請、少なくともその示唆を天皇にしたというのは大いにあり得ることだ。そして、天皇が自分の考えと違っても首相の意に沿わざるを得ないというも大いにあり得るのである。しかし、これらはいずれもそう断言できる証拠はなく私の推測に過ぎない。

だが、私だけの推測とは限らない。10月22日の即位にともなう「即位礼正殿の儀」での「おことば」の中でも天皇は「憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たす」と述べている。ノンフィクション作家の保阪正康氏は「日本国憲法とせずに一般用語である憲法としたのは、現状では政治上のテーマになっている憲法改正論議から距離を置いていることを示しているのではないか」と指摘」している(10月23日付毎日新聞)。天皇の本心は「日本国憲法を守る」と保阪氏は思っているようだ。私もそう信じたい。

すでに述べたように昭和3年と平成元年はいずれも天皇即位の式典が行われた年である。昭和3年はアムステルダム・オリンピックでわき、令和元年は来年の東京オリンピックへの期待が膨らむ年である。昭和3年は国民が「バンザイ」と歓喜の声を上げるような光の裏で、「満州某重大事件」という暗い影がひそんでいた。令和元年にそうした影はあるのか。

内田氏は冒頭に挙げた記事の中で「戦前の政府は治安維持法の制定により、大日本帝国憲法の事実上の改正をはかった。現政府も集団的自衛権行使を認める閣議決定や安全保障関連法案の制定によって憲法9条を骨抜きにした。過去のあしき手法に学び、踏襲したかの印象だ」と語る。そして著書『治安維持法と共謀罪』(岩波新書)の「はじめに」で、「日本国憲法に明確に違反する諸制度が日本国憲国下の制度として存在する。この大いなる矛盾が今や日本国憲法を全面改正することによって解消されようとしている」と指摘する。内田氏からみれば、「憲法9条の骨抜き」が影の突端なのであろう。

 海洋進出をはかる中国、ミサイル発射をつづける北朝鮮、そして共にアメリカの同盟国である韓国との外交・経済上のきしみ。今、東アジアは緊張状態にある。こうしたなか、自衛隊がからむ謀略が行われれば一触即発の危機になりかねない。当然、政府は「戦前の軍部と自衛隊は違う」と、このような危惧を一笑にふすだろう。だが、それを鵜のみにしてよいかどうか。「昭和3年と酷似している」との指摘がある以上、外交、防衛面での動きに目を離してはならない。あの不幸な時代に戻らせないために。
写真は省略