Lapiz2019冬号《東海道・草津宿》井上脩身編集長

和宮の輿が華やかに~3万人の降嫁の列~

10月上旬、京都駅からJR琵琶湖線の電車に乗って彦根方面に向かった。草津あたりで左の窓から比叡山がくっきり見えた。草津から先に行くにしたがって比叡山が遠ざかり、比良山が車窓の景観を占める。ということは、草津はいわば京都の見納めの地ということだ。草津は江戸時代、東海道と中山道の分岐点の宿場として栄えた。京から江戸に下る旅人は、いずれの経路をとるにせよ、草津で比叡山を見つめて都での雅やかな日々を思いめぐらし、これからの長い旅路への不安に心がふさがれるおもいだっただろう。と考えていて、ふと和宮が頭に浮かんだ。第十四代将軍・徳川家茂の御台所になった和宮である。島崎藤村の『夜明け前』に、将軍家に降嫁する和宮一行が馬籠宿を通る様子がえがかれている。和宮は草津から中山道に進んだのだ。和宮は草津で比叡山を見て何を思ったのだろう。私は有吉佐和子の『和宮様御留』(講談社)のページを繰った。

公武合体の政略結婚

和宮(1846~1877)は仁孝天皇の皇女。ペリー来航を機に鎖国から開国に180度カジを切った幕府に対し、朝廷は強く攘夷を主張。欧米列強が軍事力をちらつかせていることから、幕府にとって朝廷との対立は避けねばならず、「公武合体」は急務だった。1860(万延元)年、4月12日、京都所司代の酒井忠義が幕命を帯びて和宮降嫁を要請。和宮は強く固辞したが孝明天皇は10月18日、和宮降嫁を勅許、和宮付女官に庭田嗣子(宰相典侍)らが選定された。

10月20日、和宮一行は京の桂御所を出発。行列は警護や人足まで含めると3万人にのぼったと言われ、和宮を乗せた神輿の警護に12藩、沿道の警備に29藩が動員されたという。この一行のなかに公武合体派公家の中山忠能や岩倉具視らの姿があった。藤村は「厳めしい鉄砲、纏、馬簾の陣立ては、殆ど戦時と異ならなかった」と書いている。

一行は11月15日、江戸城内の清水屋敷に到着。12月11日、和宮は江戸城大奥に入る。到着から1カ月かかったのは、御所風の順守を求める和宮側と幕府側の調停が難航したためといわれている。和宮と家茂の婚礼が行われたのは文久2(1862)年2月11日。内親王である和宮の方が征夷大将軍である家茂より身分が高いことから、和宮が主人、家茂が客分という異例の婚礼となった。

慶応元(1868)年、和宮とともに江戸に下った母・観行院が死去。7月20日、家茂が大坂城で亡くなり、12月9日、静寛院宮と改める。同25日、孝明天皇が死去。明治2(1869)年1月18日、和宮は京都に向かったが、明治10年に東京に戻る。足を患い、箱根・塔ノ沢温泉で療養中の同年9月2日に逝去、32歳だった。

和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約していた。「公武合体」という政治目的のためにこの婚約を解消させられ、幕末動乱の渦中に巻き込まれることになった。時代の犠牲者ではあるが、結果として時代の表舞台に(脇役ではあるが)立ったことも事実である。

以上が和宮の生涯についての概略である。その人生の一頁にも至らない草津での彼女の様子を想像してみようというのが本稿の意図だ。『和宮御留書』を参考にしようと考えたのは、図書館でたまたま目に留めたからにすぎない。読み始めて驚いた。江戸に下った和宮は替え玉というのだ。さらにビックリは江戸に到着すると、替え玉に代えて別の女性を和宮に仕立てたという。二重替え玉というのだ。信じがたい話ではあるが、小説としては実におもしろい。ならば草津宿でのニセ和宮を思いえがいてみようと、私は考えをかえた。

比叡山を望む京方見附

『和宮様御留』の「あとがき」によると、幕末に高田村(東京都)の名主だったという元豪農の婦人が有吉のところに訪ねてきて、「和宮は私の家の蔵で縊死なすったのです。御身代りに立ったのは私の大伯母でした」と語ったことから替え玉を発想。和宮女官の庭田嗣子が日記風にしたためた記録「御留」を基にストーリーを組み立てた。

主人公はフキ。公家屋敷に近い京の町家に奉公している14歳の無学な娘だ。祇園祭も近づいた夏のある日、桂御所の観行院から呼び出された。帰されずに御所に留めおかれ、いろいろな作法を教え込まれる。フキが気づいた時にはニセ和宮になっていた。

という次第なので、以降は替え玉和宮をフキ和宮と呼ぶ。

替え玉であることを知っているのは観行院、嗣子らごくわずか。和宮は片足に障害があるとうわさされているのに、フキ和宮の足には何の障害もないことから、やはりお付きになった命婦の能登が「ほんまに和宮さんやろか」と疑う。といったあんばいだから、ばれないようにとヒヤヒヤしながらの江戸への出発となった。

桂御所でフキ和宮が輿に乗ると、女官の少進が恭しく頭を下げた。彼女はフキ和宮を決して偽物扱いせず、本物の和宮として付き従っている。八瀬の童子と呼ばれる逞しい男が輿を担ぎ、五条通を行く。輿のわずかな隙間から比叡山をちらっとのぞむ。京の街から比叡山を見るのはこれが最後だ。この日は大津宿で泊まり、翌朝、一行はゆるゆると東へ。やがて草津宿の西の端に当たる京方見附に着く。ここに門があり番所役人が通行人を見張っている。

この門は黒門と呼ばれている。文京14(1817)年に設けられた。門のあたりは家々が少なく、輿から比叡山が望める。やがて宿場に入ると商家の脇の井戸がフキ和宮の目に入る。彼女は町家で下働きしているとき、釣瓶を井戸に落として水を汲み上げるのが好きだった。手桶を引き上げるとき、コンチキチンコンチキチンと祇園ばやしが聞こえてくるような気がするのだ。あのころは晴れやかで楽しかった、と振り返るフキ和宮。運命の不思議さを思わないわけにはいかない。

私は草津宿場探訪のスタートとして、JR草津駅からまっすぐ黒門跡に向かった。駅から歩いて約30分。幅70メートルほどの川に着いた。草津川である。

草津川はもともと宿場の東端を横断するように流れていた。市街地よりも高いところを流れる天井川だったため街は常に氾濫の危険にさらされていた。川の付け替え工事が行われ、2002年にようやく完成。お役ご免となった元の草津川については後でもう一度述べる。

新たな草津川にかかる旧東海道に矢倉橋という橋がかけられ、たもとには灯篭がつけられている。川はほぼ北から南に流れており、橋の中央から比叡山がくっきり浮かんで見える。

この堤防の下にいくつかの案内看板。その一つに歌川広重の浮世絵「東海道五拾三次・草津」のコピーが刷り込まれている。4、5人の裸の男が小屋を担いでいる様子を描いたものだ。かなりのお金持ちが利用したようだ。とはいえフキ和宮が乗った華麗な輿とは比べるべくもない。もしフキ和宮がこの小屋を見かけたら、粗末な小屋の方がずっと気が楽なのに、と思ったにちがいない。

御簾のある本陣上段の間

和宮の一行は草津宿の街道を北東にむかって進む。街道沿いに本陣が田中七兵衛本陣(七兵衛本陣)と田中九蔵本陣(九蔵本陣)の2軒、脇本陣が2~4軒、旅籠が天保年間(1830~1844)には72軒。最盛期には132軒を数えたというから、東海道のなかでもにぎやかな宿場の一つだ。

和宮の東下にあたって、沿道の住民の外出や商売が禁じられた。「行列を高みから見ること、寺院の鐘などの鳴りものを鳴らすことを禁ず」とのお触れもだされ、犬や猫の鳴き声が聞こえないよう、遠くにつなげとまで命じられた。和宮を人々の目に触れないにしようというのだ。和子が実は替え玉、ということなら成る程と思われる措置である。

和宮の輿は七兵衛本陣か九蔵本陣のどちらかで休息したはずだ。どちらであれ、堂々たる門構えの屋敷に輿にのったまま入り、かなり奥の部屋で降り、一番奥の上段の間で一休みしたと思われる。

本稿は本物の和宮と替え玉であるフキ和宮が登場するのでややこしい。ここからの本陣での物語はフキ和宮だけにしておきたい。

上段の間は文字通り部屋が一段高くなっている。そのうえ、部屋の中央に分厚い畳が二つ敷かれていて、その真ん中に豪華な座布団が置かれている。部屋の入り口は御簾がかけられている。

フキ和宮が上段の間に入るとただちに御簾は下げられたに相異ない。

フキ和宮が桂御所にいたときも、几帳がかけられ命婦の能登と少進がかたわらに控えていた。おそらく草津宿の本陣では少進はいず、嗣子がそばで差配していただろう。挨拶に訪ねてくる者がいてもできるだけ会わせず、仮に謁見を認めざるを得なかったとしても、和宮フキは御簾の奥で「ありがとう」とひとこと言うだけだ。

和宮フキが輿をおりて上段の間まで歩いたとき本陣にお茶室があるのに気づいたかもしれない。

和宮フキは桂御所で西本願寺の茶の宗匠から茶を習わされた。和宮フキは茶室を勢いよく歩く。宗匠は「お畳の上は、おみ足六つでおはこびあそばされませ」と注意するしまつ。これひとつとっても和宮フキは公家の作法が身についていないことは明白だ。

上段の間に休んでいる和宮フキに、お茶菓子として「うばがもち」が振る舞われただろうか。うばがもちは永禄年間(1558~1569)に生まれた小豆の餡で餅を丸めこんだ餅だ。和宮フキがひと口食べたなら、藪餅を思いだしたにちがいない。藪餅はお茶を習わされたときの宗匠が茶菓子として用意したものだ。道明寺ちまきに白砂糖がまぶされていて、町家の奉公娘には縁のない和菓子だった。

うばがもちは「家康も食べた」と言い伝えられている。徳川の御台所になる和宮フキであれば、その甘さも苦々しく感じたかもしれない。

現在、草津宿には七兵衛本陣が残っており「草津宿本陣」として国の史跡に指定されている。同本陣のパンフレットによると、屋敷は妻入り平屋。建坪468坪(約1600平方メートル)、30室以上あり畳の数は268畳半。街道に面して高さ1メートルの格子塀がめぐらされており、格式の高さを今に伝えている。

表門を入ると白砂の広間。玄関から長い畳廊下がつづく。向こうに庭の緑が見えるというしつらえだ。その庭の手前が上段の間は。

上段の間の庭とは反対側の隣室は台子の間。板張りの水屋があり、ここで主客に出す茶をたてていた。

二つの膳の和宮の食事

本陣の上段の間の隣に雪隠がある。普通のトイレと違うのは排出物がしつらえられた箱に落ちるようになっていることだ。本陣の者がその度、この箱を運び出し、排出物を捨てる。だから臭気がただよわない。

和宮フキが桂御所で最初に和宮に会ったとき驚いたのは、和宮の部屋におまるが持ち込まれて大小便をすることだ。下半身を自分でふくことはない。お付きの女官がすべてやってくれる。和宮フキが和宮役になってからもこれは変わらない。江戸に向かうころにはもう慣れている。

本陣でトイレをどうしたかを有吉は書いていない。いくらなんでも上段の間ではしなかっただろう。畳廊下をへだてて上段の間と対面する形で向上段の間があり、そこからは御簾越しでも上段の間で何が行われているかがわかるのだ。おそらく和宮フキは雪隠で用を済ませただろう。畳敷きでないだけほっとしたかもしれない。畳の部屋で女官に見られたまま大小便をするというのは、普通の感覚ではできるものではない。

すでに述べたように草津宿では小休止だ。だから湯につかったり、夕食をとることはなかった。しかしここでは湯につかり夕食をとったとしたら、という仮定の上で話を進めよう。

桂御所でのまだ夏の暑さが残るあるとき、命婦の能登が蒔絵をほどこした盥で布をすすぎ、和宮フキの体をふいた。汗疹でただれていたが能登は手加減しない。全身をふき終わると少進が鉄漿つけにかかる。楊枝で黒いドロドロしたものを和宮フキの歯になすりつけて磨く。和宮フキはお歯黒が大嫌いだが、少進がやると我慢できる。

大津宿では湯屋で全身を女官にふいてもらい、鉄漿つけてもらったはずだ。全裸になるのだから場所は湯殿であったと思われる。少進がいないので能登が担当しただろう。能登を嫌う和宮フキだ。この先を思うと心に鉛が詰め込まれたような暗い気分であったろう。

夕食は二つ以上の膳がついたであろう。 和宮フキが桂御所でまだ和宮と一緒にいたころ、和宮の残したものだけが和宮フキの食事だった。だから和宮の食欲がない時、和宮フキは結構いただけるのだ。ごくたまに白身の柔らかい魚が蒸してあったり、タマネギとイカの和え物があったりするが、町方の夕食よりずっと粗末だと和宮フキは思った。そんな彼女にとって大津宿での夕食は驚きであっただろう。だがガツガツと食べることは能登が許さない。元来は町家の奉公人の和宮フキは、せっかくの豪華な料理もおいしくなかったにちがいない。

七兵衛本陣の湯殿は庭の横にある。入ると四畳の畳敷き。ここが脱衣所。板張りの部屋に湯舟が据え付けられている。直径2メートル以上の円形の風呂だ。和宮フキの場合、おそらく湯舟は使用せず専用の盥を使っただろう。。

七兵衛本陣では和宮の食事献立が再現されてモデル展示されている。二つの膳があり一つの膳にはご飯と汁、もう一つの膳は山菜料理や酢の物、和え物など四つのお椀だ。この献立をみると夕食のようにみえる。昼食がこれほど豪華だったのか、それとも夕食をとったのかは判然としない。

有吉の小説は「御留」を基にしているのだから、草津では小休止に過ぎなかったのは間違いないと思われるのだが。

七兵衛本陣の近くには「脇本陣 藤屋輿左衛門」の大型表札がかかった茶葉店があり、「旅籠 銭屋四郎兵衛」、「酒屋 丸屋仲右衛門」などの表札がかかった民家などが建ち並ぶ。いずれも「草津観光ガイド協会」の名前が入っており、草津宿の雰囲気づくりで町おこしにしようとの気概が感じ取れる。「草津脇本陣跡」の石碑のそばのベーカリーは「脇本陣」を店名にしているほか、十数階のモダンなマンションも街道側には時代がかった板塀をしつらえている。

すし屋のショーケースに、店自慢のはこずしの見本とともに、8皿の料理が並んだ写真パネルが展示され、「幻の皇女和宮御前をお楽しみください」と書かれている。これもガイド協会の名前入りだ。和宮フキが見れば仰天するだろう。「幻」が意味深長と言えなくもない。

天井川の下にトンネル

本陣を後にした和宮一行は中山道と東海道の分岐点までやってきた。大井川の水かさがましているうえ、公武合体に反対している過激攘夷派武士に襲われる恐れもあり、中山道をとることは始めから決まっている。

分岐点の角に、南面に「右 東海道いせみち、西面に「左 中山道美のぢ」と刻まれた石碑がたっている。一行はこの標識にしたがって左にとってまっすぐ中山道にむかう。

この分岐点を過ぎるとすぐに草津川にさしかかる。和宮一行は天井川であるこの川の急な堤をあがり、向こう岸に渡った。川を渡るとやがて江戸側の見附にさしかかる。

中山道は日本橋から京まで69次(草津―京間は東海道と共有)。木曽路から信州に入り碓氷峠という急峻が待ちかまえている。八瀬の童子が担いでくれる輿の中とはいえ、和宮フキにとって気が遠くなる山道だ。「富士山が見える海沿いの東海道の方が楽なのに」と彼女は思ったかどうか。

厳しい旅路は和宮フキの精神を少しずつ蝕んでいく。碓氷峠を過ぎて板鼻宿(群馬県安中市)に着いたとき、別用があって一行から遅れて来た少進が追いついた。少進に手をとられて輿から降りたとき、彼女は心の緊張が解けてしまった。

和宮フキが突然、「あて、宮さんやおへん」と言いだした。観行院は「宮さん、そないなこと滅多にお口にお出しあそばされるな」といさめたが、フキに戻った彼女は「コンチキチンコンチキチン」と祇園ばやしを口ばしり、我を忘れてしまっていた。

祇園祭の楽しい思い出がつまった京の町家の奉公時代。その惜別が草津だったとは有吉は『和宮御留』の中では書いていない。だが、そうに違いないというのが私の読後感である。

東海道と中山道の分岐点には灯篭がのった石造の道標がたっていて、草津市の文化財に指定されている。この道標の街道をへだてて反対側に高札場があった。今も残されていて、当時をしのぶことができる。和宮の東下のさい、外出禁止のお触れが書き込まれたはずだ。

このすぐそばにトンネルがある。旧草津川の川底の下をくりぬいたものだ。その入り口の「草津川ずい道(トンネル)の由来」と題する説明板によると、明治18(1885)年、7368円の工事費をもって隧道開削工事に着手、翌年に完成した。石積みアーチ式で長さ43メートル、幅4・5メートル。「これによって中山道の川越はなくなり、車馬の通行は楽になった」とある。

和宮一行は3万人に及んだということはすでに触れた。この川越えだけでも大変な手間を要したに相異ない。和宮の輿を運び上げるのもひと苦労だっただろう。

草津川の川底は今は公園として整備されているが、堤防はそのまま残されている。このトンネルの西北約150メートルのところにJR東海道線が通っている。この線路も草津川の下を通っていた。今もかつての川底の下にほられたトンネルを列車が走っている。列車は堤防の上を走るもの、と思っている私の目には何とも不思議な光景だ。

私はふと和宮フキは天井川だった、という気がしてきた。本来下の方を流れるはずだったのに、天井にまつりあげられてしまった。決壊するのは当然なのだ。

ただし和宮が替え玉だったとしらの話だ。さらに高田村で別の豪農の娘に差し替えたとして、一朝一夕に皇女の真似ができるはずがない。見事な演技をしたとしても大奥の海千山千の女の目をごまかし続けることは不可能だ。ということは承知のうえで、和宮はフキだったと夢想しながら宿場を歩くと実に楽しい。

草津宿探訪の最後に「うばがもち」を食べたいと思った。本店は国道1号沿いにあるが、支店はJR草津駅前にあると聞いた。その支店で6個入りを1箱買った。もちは直径2センチの小さなもちだ。一口で食べられる。

ほおばってみると甘い味が口に広がる。御所風の雅な味というより素朴な甘さだ。舌触りはやわらかい。和宮フキが食べている姿を思いえがいた。和宮というより町家奉公のフキの方がどう見ても似合う。私はぱくりと口に放り込んだ。「コンチキチンコンチキチン」。ひとり祇園ばやしを口ずさんでみる。じわっと甘さが口に広がった。

写真は省略