《渡来人たちの宴 扶余編》:片山通夫

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飛鳥美人の図

 初めにLapiz 2019秋号で「スサノオ追跡」で、スサノオが高天原で大暴れして追放され、地上に降りてきたところまでは書いた。
こうしてみると、スサノオはいわゆる末っ子のわがままという性格がもろに出ているように思えた。その後、日本書紀によると、彼はまっすぐに出雲に降りたわけではなかった。どうも朝鮮半島の新羅の国の曽尸茂梨(そしもり)というところに降り立った。
京都の八坂神社の社伝に「斉明天皇二年(656)高麗の調度副使伊利之使主の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔鳴尊をまつった」とある。656年というと、まさに白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍に敗れた頃であり、大勢の兵士や百済人たちが倭国に帰国・亡命してきた混乱の時期だった。勝った新羅にしてもあまり平和な雰囲気ではなかっただろう。まして略奪と焼き討ちに明け暮れた扶余の都は見る影もなかったと思われる。現に奈良や京都の社寺のような当時の遺構はほとんど残っていない。

 筆者は深まりゆく秋の扶余の町を先月(11月半ば)に訪れた。日本書紀の記述と司馬遼太郎氏の街道をゆく「韓(から)の国紀行」に誘われて。
これは「スサノオ追跡」の続編ともいうべき「渡来人たちの宴」である。
扶余(ぷよ)へ

 昔、歴史の時間に「白村江の戦い」という戦いに関して至極簡単に習った覚えがあった。ハクスキノエ?ハクソンコウ?読み方もおぼろげなら、時代もあいまいだった。ひょんなことから古くからの友人たちと島根県へ行くことになった。昨年の秋のことだった。その旅行は単なる観光というか、旧交を温める目的だけの気楽な旅行だった。その時、ボクは出雲大社の隣にある島根県立古代出雲歴史博物館で驚くほどの数の青銅の剣をみた。
もちろん出雲には「たたら」という製鉄技術があることは知っていた。しかし日本中の青銅の剣や銅鐸がこの博物館で見るとは思わなかった。
それからである。出雲風土記や日本神話、古事記と日本書紀などを読み漁ったのは…。面白いほどの世界はボクの目の前にあった。伊弉冉と伊弉諾、高天原、アマテラス、とりわけ第三子の神・スサノオに取りつかれた。高天原で大騒ぎしたスサノオは多くの神々の追及を受けて高天原を追放された。なんでも母・伊弉冉のいるという根の国に行きたいと駄々をこねて大あばらしたとか…。わがままな末っ子だった。出雲には彼のエピソードがあちこちに残されている。極めつけは東出雲の「黄泉平坂(よもつひらさか)」。根の国との境というか、行き来する入口なのだ。

ところが日本書紀を読み進んでいるうちにとんでもないスサノオのエピソードが出てきた。「スサノオはまっすぐに出雲へ降りたわけではなかった。一説には朝鮮半島の新羅・曽尸茂梨(ソシモリ)というところへ立ち寄っている。この曽尸茂梨という場所は確定できていない。ついでに言うと白村江の戦いの場所も確定されていない。このことはあとで述べる。
いずれにせよ、白村江の戦いで倭国と百済の連合軍は唐と新羅の連合軍に惨敗した。つまり倭国は4万もの軍勢を送ったのに、そのほとんどを失ったようであった。そして百済は滅亡した。
その百済の滅亡前の都が扶余で、当時は 泗沘(サビ、しび)と呼ばれていた。
ソウルから高速バスで忠清南道・公州を経ておよそ3時間で扶余に着く。

百済 4世紀前半-660年
   漢城時代(475年まで)、熊津時代(475-538年)、
   泗沘時代(538年ー660年滅亡)

扶余の町

 結論から言うと、扶余の町にはほとんど何も残っていなかった。博物館では先史時代からの土器など、そして百済の都時代でも悲しいほど大したものが残っていなかった。ただ「百済金銅大香炉」(左の写真)と呼ばれてる香炉は素晴らしい出来だ。また百済という国は仏教が盛んだったようで、百済末の120年間で唯一残っているのが定林寺という寺院の5層の石塔(右の写真)だ。考えてみれば、石なのだから、焼失するわけはない。
百済は660年に滅んだ。唐・新羅軍と倭・百済軍が錦江河口付近で最後の戦いをした。白村江の戦いである。倭軍が乞われて出兵したのは663年で同年8月27日-同年8月28日間戦ったが倭・百済連合軍は惨敗した。

 

「落花岩」

身を投げる官女を描いた絵

百済や白村江の戦いなどに関しては、様々な歴史本が出ているのでここでは述べない。ただ戦いの陰には悲劇に見舞われた女性が多くいた。百済滅亡の時も王宮には3000人ともいわれた官女は「落花岩」と後世名付けられたであろう錦江にのほとりに立つ岩山。官女たちは背後から追ってくる唐・新羅連合軍の兵士からの凌辱を避けるためこの岩山の崖から次々に身を投げた。彼女たちは身を投げる際、恐ろしさを和らげるためか、チマ(民族衣装のスカートのようなもの)を頭からかぶって飛び降りた。そのさまがその姿が水に落ちる花にように見えたのだという言い伝えから「落花岩」と名付けられたともいわれている。

この戦いの時期、つまり660年当時、倭国は斉明天皇の時代。実際は中大兄皇子が政務をつかさどった。この時代、倭国はいわゆる古墳・飛鳥時代。まだまだ天皇の存在を国中に知らしめるところまでゆかなかった時代だったと思う。

書き忘れたわけではないが、斉明天皇は女帝で、のちの天智、天武天皇の母である。さて斉明天皇は友好国・百済の復興を助けるために、朝鮮半島・錦江まで一説には4万という大軍を出した。当時倭国には”人質”として滞在していた百済王子・扶余豊璋がいた。豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣したが、この白村江で惨敗した。

663年の白村江の戦いの後,667年3月中大兄皇子は都を飛鳥から近江へと遷都した。そして翌年1月に天智天皇として即位する。遷都の理由の大きな理由に、白村江の戦いの惨敗があった。飛鳥では国の守りが十分ではないと考えたのだと思われる。よほど応えたのだ。
同時に百済人が渡来人として大勢やってきた。彼らの力を借りて国造りをした。律令制の確立もこの時期のことだった。660年に百済滅亡、663年の白村江の戦いでの敗北などの諸条件並びに唐・新羅との対立などで、倭朝廷は深刻な国際的危機に直面した。そこで朝廷は、まず国防力の増強を危機感を共有した支配階級とともに図り、天智天皇は豪族を再編成するとともに、官僚制を急速に整備し、統一国家としての国制改革を精力的に進めていった。その結果、大王(天皇)へ権力が集中することになった。この時期に編纂されたとされる近江令は、国制改革を進めていく個別法令群の総称だったと思われる。
相当恐ろしかったと見える。

鬼室集斯と鬼室福信

日野の鬼室神社

その近江に日野町という町がある。ある時筆者は国道307号線を走っていた。ふと気が付くと「鬼室神社」と書かれた標識が目についた。かわった名前にひかれていってみることにした。

調べて分かったことは「鬼室」は古代百済の貴族の姓だということ。そしてこの神社に祀られているのは「鬼室集斯(きしつ しゅうし)」という人で、日野町小野という見るからに素朴な集落にその神社はある。
ただこの鬼室集斯はタダモノではなかったようで、百済にでの官位は達率、倭国亡命後の倭国における官位は小錦下・学職頭だった。この学職頭とは今で言う大学長、もしくは律令制下での文科大臣かとも思われる。つまり、国の学制をつかさどったのではないか。
実は今回扶余の町へ行ったのには訳がある。この鬼室氏の縁者ともいうべき鬼室福信(きしつ ふくしん、生年不詳 – 663年)に興味があった。この福信の遺跡ともいうべき彼が祀られているのは、扶余の町の恩山別神堂である。秋がたけなわの扶余の町外れにそれはあった。あいにく周りには人はいない。
かけられていた説明版は日本語も書かれていて次のように読める。

(前略)百済復興軍の魂を慰めた余徳で疾病を退治し、村全体が穏やかになったので祠を建てるようになったと伝えられている。(後略)

鬼室福信の廟・扶余

ここで少し百済滅亡時の様子を説明して置きたい。新羅の武烈王は百済に侵犯された領土の回復を唐の高宗に訴え、唐はその機会を捉えて新羅支援を口実に百済を討つことに。そして運命の660年、唐は水陸合わせて13万もの大軍を百済攻撃に向けた。一方の新羅は5万が出兵、百済を東西から挟撃した。百済兵は果敢に戦ったが、泗沘城は陥落、熊津城にいた最後の国王義慈王も降伏、百済は滅亡した。しかし唐の目的は高句麗の攻略で、唐から見てかなり遠い百済はあまり魅力がなかったように思える。唐軍はこの後、高句麗へ北上する。この間隙を縫って鬼室福信や黒歯常之らによる百済復興運動が起きた。百済王族の一人扶餘豊(日本書紀では豊暲)は倭に人質としてきていたが、呼び戻され、百済の復興をめざして立ち、倭(大和王権)に救援を要請した。663年、錦江の河口の白江(日本書紀では白村江)に倭の援軍の水軍が到着、百済の水軍とともに唐・新羅連合の水軍と衝突し百済・倭軍側が大敗し百済は完全に滅亡した。
さて日野町の鬼室集斯と鬼室福信の関係だが、鬼室集斯の叔父だとか諸説があるが定かではない。
鬼室福信は『日本書紀』によると、663年6月に、百済王豊璋が福信の謀反を疑って捕らえ、その掌を穿って革紐で縛った。それから諸臣に対して福信を斬るべきかと問うた。達率(二品官)の徳執得は「これは悪逆人であるから放しおくわけにはいかない」と答えた。福信は執得に唾して罵ったが、王は福信を斬らせ、その首を塩漬けにした。鬼室福信の最後である。

一方の鬼室集斯は665年2年に福信の功績によって天智天皇から小錦下の位階を与えられ、百済の民男女四百余名と近江国神前郡に住居を与えられたが、天智8年(669年)男女七百余名とともに近江国蒲生郡に移住させられたとある。反逆者に落ちた「福信の功績」というのがよくわからないが、いずれにしても鬼室集斯は天智天皇のもとで律令の制定に持っている知識を使った。そして学職頭となり、官僚の育成に力を注いだ。
また一説には肥後国の豪族菊池氏を集斯の後裔とする系図もあるようだがこれは筆者は未確認である。。

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