渡来人たちの宴《短かった百済の春》片山通夫

百済が簡単に滅びた原因はいくつかあると思われるが、ここで筆者の妄想を紹介したい。

百済の建国は古い。紀元前18年の建国から660年の滅亡まで約700年の歴史を持つ。百済は漢江の中流から下流に起り、次第に周辺の小国家を併合しつつ発展した。しかし紀元後475年に高句麗に首都のソウルを奪われて熊津(公州)に遷都し538年には泗沘(扶余)に遷都した。
筆者の妄想では、いわゆる引っ越し貧乏だったのではないかと思うわけである。この間に、百済は外国とも積極的な外交を展開し、科学と技術を発達させて優れた文化を花咲かせ、先進的な文化国家を築き上げた。ところが百済の王族・貴族たちは文武両道というわけではなかったようである。

中国は当時唐の国だった。時代は変わるが晩唐の時代、杜牧(とぼく、803~853)という詩人が次のような詩を読んだ。

千里鶯啼緑映紅
水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺
多少楼台煙雨中

百済の文人や王侯貴族は時代が重なっていないのでこの詩は知る由もなかったが、ここに詠われているような揚子江の南、江南と呼ばれていた風景に心を寄せて、唐の栄華を百済の地に移していたであろうことは想像に難くない。それほど百済は文化的には水準が高かかったと思われる。あまり証拠にはならないかもしれないが、大津に都を移した中大兄皇子(後の天智天皇)は律令国家の建設を目指し、その一翼を百済人に担わせた。百済人は、その知識を唐に求めた。
とまれ、筆者が昨秋訪れた泗沘(扶余)は温暖の地で優しいイメージが付きまとっていた。調べてみると、2015年、百済の時代、475年から660年までの王陵、城、城壁、寺院跡など8つの遺跡(扶余を含む百済王朝後期の3つの古都の遺跡)が世界遺産に登録された。百済は早くから中国の都市文明や仏教、儒教などの文化を取り入れていたのである。

いうなれば百済人は文化人だったのだ。文化人に戦争は似合わない。いかに倭の国の戦力を頼っても、唐と新羅の連合軍の前には歯が立たなかったようだ。倭軍4万の兵士は白村江の藻屑と消えた。