渡来人たちの宴《安曇族の謎》 片山通夫

 前回、海族・安曇族のことをチラッと書いた。白村江の戦いで都合4万人もの兵士を長朝鮮半島に送り込んだと思われる安曇族は忽然と歴史の上から消えた。

ただ倭国各地に散らばってその名を地名に残したと思われる。滋賀県には安曇川がある。また信州という海のないところに安曇野という地名が残っている。

 これら、今に残る地名はあの安曇族が博多湾から移住と言っていいのかどうかはわからない。原因は不明だが海を捨てて移動した先だとおもわれる。発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされる。古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じた奴国の王族であったとされ、神武東征後に最初の本拠地である北部九州の福岡志賀島一帯から離れ、畿内へ進出した後に、摂津国西成郡安曇江を根拠地として、全国の海人集団・海部を管掌する伴造の地位を得たとされる。

ともあれ、安曇族が白村江の戦いで数多の兵士を朝鮮半島に送り込んだ。筆者は古来からの「族」に非常に興味をおぼえる。時代は変わっても石積のプロ集団・穴太族も同様である。安曇族はこの功績で天智天皇もしくは朝廷から重んじられたと思われる。

 逆に言えば恐れられ、新羅や唐に味方される危険を感じたのかもしれない。その危険を避けるには、本拠地であった志賀島や博多湾から遠く離れた近畿や信州に移住させるに限ると考えた結果だと、筆者は妄想する。後世のことであるが、元寇に備えての防人などの備えも同様だったと思うのだ。

そして律令制の下で、宮内省に属する内膳司(天皇の食事の調理を司る)の長官(相当官位は正六位上)を務めた。これは、古来より神に供される御贄(おにえ)には海産物が主に供えられた為、海人系氏族の役割とされたことに由来するらしい。(写真はいずれも安曇野で)

考えてみたらこれほどの優遇、逆に言えば武力を削いで料理番に起用するという巧妙な安曇族対応だったのだ。