徒然の章 中務敦行

今、世界中でコロナウィルスによる肺炎が流行り、マスコミも国会もそればかり。挙げ句の果てにトイレットペーパーが姿を消すという騒ぎに。最近は毎年のように大きな災害が起き、日本中を騒がせています。このような病気の大流行も災害と言うべきなのでしょう。

私は昨年初め、友人たちと全国災害復興活動支援機構というNPO法人を立ち上げ活動を始めました。そもそもは8年前にかつての職場の先輩に誘われて、自衛隊、警察、消防などの撮影した災害現場での撮影画像がパソコンの中で眠っているのを多くの人に見てもらおうとしたのが始まりです。

これまで西日本を中心に、37回の写真展を開き、これまでは中国、四国、九州が中心だったが、一月には大阪市役所で開催した。来場者は熱心に写真に見入ってくた。今回のマスク騒ぎも前回のオイルショックの時の記憶のない人だけではなく、高年齢の人も多く動かれたようだ。「災害は忘れたころにやってくる」と言われるが、全くその通りである。

今も京都や奈良に住む人は災害の少ない町だ、昔の人はいいとこに都を作った、エライという。確かに古い社寺や文化財が多く残っている。ところが京都は応仁の乱という大きな戦乱の舞台になったし、奈良の大仏も平安末期と戦国時代に戦火を受けて焼失している。

大阪で開いた写真展のため、私が生まれ育った大阪の道頓堀川と木津川が交差する大正橋の東詰にある安政津波の碑を数年ぶりに訪ねた。幼いころ祖母に連れられてよく渡った橋で、アーチ橋だったのが普通の橋になり、欄干にはベートーベンの「運命の楽譜」がデザインされている。生家からこの橋を渡った所にその碑はある。驚いたのは碑文には黒々と墨が入れられ、花が手向けられて周りには碑文の現代語訳や解説まで加えられている。清潔に掃除され、いつも世話が続けられているようだ。

世話する人を訪ねたくて、近所を探した。一軒目の商店に人がいたので「あの碑を世話しておられる方は?」と訪ねると、このビルの持ち主だった。「今、外出されてます。夕方にはお帰りになるでしょう」という返事。何という僥倖、生家で時間を過ごし、夕方に再び訪ねた。その人は80過ぎの白いあごひげの方で親切に「あの碑にある5人発起人の一人で、今消息の分かる人は他にいません」と語ってくれた。毎年地蔵盆に墨を入れること、供花を欠かさないこと、等など。こういう奇特な方がおられるんだ。ちょっと感動した。

そして数日後、理事長にその話をすると一度会ってみたいというので、再会した。数日後、出雲の出身の理事長が「奥出雲に当時の瓦版があるよ」との電話。貸し出しにも応じてもらえて、当時の瓦版4枚が大阪市役所の会場に石碑などとともに飾られた。

 あの碑のそばを通る人の大部分は素通りだが、165年たった今も伝えようとする人がいる。これは一人でも多くの人に見て、災害はいつかくる。その日に備えておいてほしい。そんな気持ちを一層強く持った。災害は近年ますます増えているように思う。どうか普段の生活の中に心構えをしてもらいたい。そんな気持ちを強く持った。3月11日は東日本打大地震から9年になる。