Lapiz 2020春号 巻頭言 Lapiz編集長 井上脩身

今年は60年安保からまる60年になります。安保条約改定を図り、その批准のために強行採決をした岸信介首相(当時)の孫、安倍晋三首相は「この60年、日米関係は強固になった」と岸元首相を賛美しています。おそらく安倍首相は、国会の前だけでなく、日本中で「岸を倒せ」のデモが渦巻いた熱狂的なエネルギーを、イメージとしてとらえることができないのでしょう。あるいは単純に「おじいさんが間違っているはずがない」と思っているのかもしれません。

写真:1960年6月18日の国会をうめたデモの渦の上空写真を前面に出した『60年安保闘争の時代』の表紙

私の書棚に『60年安保闘争の時代』(毎日新聞社)という写真を主体にした記録集があります。改定安保条約の自然承認を控えて、1960年6月18日、全国で反安保デモが展開されました。同書は、国会前をうずめた33万人(当時の主催者発表)のうねりを上空から撮影した写真を大きく掲載。同じページに6点の写真を散りばめています。その1枚に目がくぎづけになりました。キャプションには「高校生のデモ隊…大阪・大手前公園」とあります。男子生徒が女子生徒をはさむ形で整然と歩いているのですが、その女子生徒の夏用セーラー服に目が留まったのです。間違いなく私が出た高校の制服です。私はこの時のデモに参加していました。

カメラマンは私たちの学校の後に続いた大阪市内の高校の横断幕を狙って撮ったとみられます。「安保改悪反対」「批准を許すな」などと書かれています。写真には私たちの学校は後ろの列しか写っていず、前の方にいた私の姿はありません。しかしこの一葉の写真が私の記憶を呼び起こしました。
同書によると、1960年1月6日、日米安保条約改定交渉が妥結し同14日、閣議で正式決定。16日、全学連が羽田闘争を展開し、空港外で警察隊ともみあうなか、岸首相は渡米し、19日、ワシントンで安保条約は調印されました。
このように1960年は安保条約をめぐって騒然と明けました。そのころ中学3年生だった私は、最後の模擬テストや進路判定など、目前に迫った高校受験の準備に追われ、安保への強い関心を持つ余裕はありません。
高校に入学して間なしのとき、担任の先生がいきなり「安保反対」を訴えました。びっくりしましたが、新聞記事をよく読むようになりました。4月20日深夜、衆院安保委で自民党は強行採決を断行。このころから、生徒の間で安保勉強会が自主的に行われ、私も時おり顔を出しました。

5月20日午前0時5分に開会された衆院本会議で自民党は新安保条約を単独強行可決。自主勉強会では「民主主義を破壊する暴挙」として、ほぼ全員が岸首相への非難の声をあげました。私はこのころからデモに行こうと考えだしました。

初めてデモに参加したのは6月4日の国民会議統一行動だったと記憶しています。集合場所には私のような高校生も随分多くいました。「安保反対」「岸を倒せ」と声をからし、大阪のメーンストリートである御堂筋を歩いたのでした。

15日の統一行動で全学連主流派が国会の構内に突入、その学生たちの集団に警察隊が襲い掛かり、東大生の樺美智子さんが犠牲になりました。尊い命が奪われたことが国民の怒りを燃え上がらせました。憲法の規定により、衆院での議決の30日後にあたる6月19日に新安保条約が承認されます。この自然承認を阻止しようと18日、全国各地で安保反対デモが渦巻き、大阪でも大阪府学連の学生たちが御堂筋で座り込みを行うなど、激しい運動を繰り広げました。すでに述べたように私はこの時のデモに参加したのです。

1960年6月19日午前0時、新安保条約は自然承認されました。ではあの安保反対のうねりは何だったのでしょう。
20年前、安保闘争を振り返って、「熊さん八っつあんまでデモに参加したのは、いかに国民が民主主義を大事にしているかの表れ」といった趣旨の新聞記事がありました。しかし、それ以前も以降も、自民党政府が非民主的な政治を行ったことは数多くありますが、それでも自民党がおおむね政権与党の座を占めつづけています。「民主主義を大事にしてる」では説明できません。
あの安保の最中、私の高校で安保賛成、反対それぞれの立場の論者による学校主催の講演会が行われました。賛成論者は「安保条約によって日本はアメリカに守られる」と主張、反対論者は「日本にある米軍基地がソ連と中国の標的にされる」と切り返しました。
新聞記事をみても、これがおおむね賛成、反対の意見だったように思います。国民の多くはどちらが正しいのか判断できなかったでしょう。自民党支持者の方が社会党・共産党支持者より多いのですから、「戦争に巻き込まれるって本当?」と反対意見にクエスチョンマークをつけていた人が少なくなかったはずです。

自民党支持者まで一変させたのは国会での強行採決でした。新聞は「暴挙」「民主主義の破壊」と書き立てます。民主主義の否定イコール軍国主義という公式が読者の頭に浮かびます。なにせ岸首相は太平洋戦争開戦時の商工大臣であり、A級戦犯です。軍国主義時代の政治家が民主主義をぶち壊してでも成立を図ろうとしているのだから、安保というものは戦争のにおいがするものに違いない、と判断した国民が大勢いたはずです。戦争が終わってまだ15年しかたっていません。ほとんどの人は戦時中と戦後しばらくの間の塗炭の苦しみが骨身にしみています。みんな「戦争はもうこりごり」だったのです。
あの安保反対の声は「戦争こりごりの叫び」だったと私は思っています。その叫びは、戦争が終わったその日から、国民の胸の底にこびりついていました。ようやく生活が豊かになり、電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビの三種の神器をそろえた多くの人が忘れかけていた「もうこりごり」が、強行採決で噴出したのでした。
戦争が終わって2年後の1946年11月3日、憲法が公布されました。戦争放棄を定めた9条を多くの国民が受け入れたのは「戦争はもうこりごり」だったからに相異ありません。しかしその「こりごり感」がわからない安倍首相は憲法を変えようとしています。

憲法9条を変えると、またぞろ「もうこりごり」という憂き目にあうことにならないか。そんな危惧から、最近、「憲法9条を世界遺産に」という声が出てきました。
はたして世界遺産にできるのでしょうか。本号では、「びえんと」のなかで考えてみました。