Lapiz 2020春号 びえんと Lapiz編集長 井上脩身

「憲法9条と世界の記憶」

もし九条すべての国にあったなら
今年1月1日付毎日新聞の川柳欄「仲畑流万能川柳」(仲畑貴志選)の秀逸句としてが選ばれた句であれる。「憲法9条を世界の9条に」との投句者(福岡の「名誉教授」)の思いに、仲畑さんが強く共感したのであろう。相前後して自民党の重鎮、古賀誠さん(79)が昨年上梓した『憲法九条は世界遺産』が同紙の書籍広告欄に掲載された。自民党の幹事長も務めた古賀氏には憲法9条への強い思いがあるようにうかがわれ、さっそく同書を購入。こうした書籍がほかにあるかを調べてみて、お笑い芸人・爆笑問題の太田光さんの共著に『憲法九条を世界遺産に』があることを知った。古賀さんと太田さんの主張に耳を傾けつつ、憲法9条が世界遺産になり得るかを考えてみた。 行商の母は戦争未亡人

古賀さんは2018年夏、神戸市で「憲法九条は世界遺産」の題で講演した。この内容をもとに原稿をまとめ、2019年9月、かもがわ出版から同書を刊行(写真左)。B5判95ページ。表紙に、自転車の荷台にうず高く荷物を積んで行商に出かけるお母さんを、下駄ばきの男の子が寂しそうに見送る絵(おちあいけいこ画)があしらわれている。この子が幼児時代の古賀さんだ。
後に「憲法9条は大事」と考えるに至る原風景だという。
古賀さんは1940年、福岡県生まれ。1980年の衆院選で初当選して以来、連続10期当選。自民党の総務局長、国対委員長、幹事長と同党の要職を務めたほか、1996~97年には第2次橋本内閣で運輸大臣になっている。さらに派閥である宏池会の会長(現在名誉会長)として党の中核を担ってきた。2012年に議員引退後も、政界のご意見番としてたびたびマスコミに登場している。
そんな古賀さんがなぜ「九条は世界遺産」と言いだしたのだろう。2019年11月24日付毎日新聞の書評欄に、同書が古賀さんの顔写真付きで紹介された。記事には、古賀さんの政治哲学は「戦争未亡人を再び生み出さない平和な国をつくりあげていくこと」とあり、「世界の国々も本当は(日本のような)憲法を持ちたがっているはずですよ」と語っているという。

以下は同書による古賀さんの生い立ち。

 父親は大牟田市に近い福岡県南部の農村地帯で小さな乾物店を営んでいたが、古賀さんが2歳のときに出征。1944年10月、フィリピンのレイテ島で戦死した。母親は古賀さんを入れて二人の子どもを育てるために行商に出た。古賀さんが国会議員になった後も、「自分で自分の生活をする」と言って、60歳まで行商をつづけ、足腰が弱ってからは小さな乾物店を開いた。そんな母親のもとで育った古賀さんは「なぜこういうつらい思いをする母親の背中を見なければならないのだろう」「なぜ日本の国は戦争をしたのだろう」と自らに問いかけながら育った。

「再び戦争をしてはならない」との思いがつのるようになり、やがて政治家を志すように。高校時代の先生から「お母さんに金銭的な迷惑をかけないために、国会議員の秘書になっては」とアドバイスされたが、母親に「住み込みで人間修行しなさい」と大阪の問屋に放り込まれた。こうして1年間「丁稚奉公」をした後、東京の大学に進学。大学に通う傍ら、地元選出の参院議員の書生になった。学費を出してもらったので庭掃除や靴磨きなどをした。大学を出たあと12年間秘書をつとめ、1979年、衆院選に立候補。泡沫扱いだったが「貧乏で行商に行きよった人の息子が立候補しよる」と支持の輪が広がり、落選したが4500票差と予想外に善戦。7カ月後の衆参同日選挙で初当選した。39歳だった。
写真は古賀誠氏

9条は世界へのおわびの証し

古賀さんは選挙を通じて、母親と同じ境遇の人が大勢いることを知った。政治家として歩むことになった古賀さんは「戦争未亡人を再び生み出さない平和な国をつくることが政治」と考え、「我が国が永久に平和であるための努力をすることが責務」と自分にいい聞かせた。その「永久平和」は憲法の基本理念でもある。古賀さんは憲法9条を次のように考える。

先の)戦争で多くの人が無念の思いで命をなくし、その結果として、子どものために人生のすべての幸せを捨てた戦争未亡人をはじめ多くの戦争遺族の血と汗と涙が流された。その血と汗と涙が9条にはめこまれている。9条というものを我が国が持ったことによって、戦争を引き起こし世界の国々に大きな迷惑をかけ、いい知れない損害を世界の国々にも与えた日本の国が、そのことに対するお詫びをしているという意味あいをもつことになった。こうしたお詫びを世界の国々に発信していることが世界遺産(に値すること)なのであって、(9条を)なくしてはならない。
以上のように憲法9条をとらえる古賀さんは「憲法9条を守りぬくことが使命」として、自衛隊が戦争することにつながるものにはすべて反対してきた。1992年に成立したPKO法の採決では、政府は「人道支援に限ったもので、戦争地域でない所に限って派遣する」と説明したが、古賀さんは本会議を退席した。戦争にかかわる風穴は小さな穴でもあけたらとんでもないことになる危険がある、と考えたからだという。

実際、PKO法によって自衛隊が戦後初めて海外に派遣されることになり、小泉政権下でイラクに自衛隊をだすための法案が出された。古賀さんは、いくら歯止めをかけたつもりでも、一つ穴があくと運用がどんどん広がる、と顔をしかめた。危惧した通り、安倍政権は集団的自衛権の行使容認を閣議で決定した。
「一番腹立たしいのは集団的自衛権の解釈変更の問題。集団的自衛権の行使は憲法違反なので、専守防衛でやっていくことに戦後の内閣はずっと維持し、国民も支持してきた。閣議だけでこの見直しをしたのは本末転倒。国民のみなさんに取り返しのつかない禍根を残した」と憤慨する。

安倍首相は憲法9条に自衛隊を明記する、と公言していることに対して、「(9条の)1項、2項とも残して自衛隊のことを書くと言うが、少しでも憲法9条改正につながるようなことは針の穴程度でもやってはダメ」と手厳しい。だが自民党のとくに若手議員から「憲法9条を守るだけでは日本の平和を国民に約束できない。万が一のときのためには、それに立ち向かうだけの軍備は必要」と、疑問を投げかけられる。憲法改変を求める人の意見はおおむね、こうした「理想だけでは国は守れない」だ。古賀さんは「9条は国民の決意であり覚悟。理想に向かってそれを実現するために頑張り、努力するものだ。日本の国は世界遺産のようなすばらしい平和憲法を持ったのだから、9条を守るのが我々の使命」と答えるという。その気概。保守政治家としての筋を通す心根であろう。

9条は血塗られた時代の奇跡

1965年生まれの漫才師、太田光さんの憲法9条観は、25歳年上の古賀さんとはまるでちがう。田中裕二さんと「爆笑問題」コンビをくみ、風刺たっぷりに時事ネタを取り入れて笑いをさそう太田さん。「うまれた時から(現在の)憲法の中で生きてきた。それを簡単に変えるな。俺の生きてきた歴史でもあるんだぞ」と言い放つ。古賀さんが「戦前生まれの反戦憲法観」ならば、太田さんは「戦争を知らない世代の平和憲法観」といえようか。

埼玉県生まれの太田さんは日大在学中に田中さんと知り合い1988年、爆笑問題を結成。最も売れている漫才コンビとしてテレビに引っ張りだこだ。なかでも太田さんの毒舌は、世代を超えて多くのファンを引きつける。その魅力の元は幼少期にある。女優志望で発声が得意だった母親は毎晩、太田さんが寝床に入ると本を読み聞かせた。それがきっかけで太田さんは児童文学書を読むようになり、現在でも1年に100冊の本を読むように心がけているという。

太田さんが少年時代に特に愛読したのは宮沢賢治の童話。大人になってから、賢治が石原莞爾の思想に傾倒、満州事変を肯定していたと知る。賢治は1933年に亡くなっていることから、自分が傾倒した思想が、やがて人と人が殺し合う戦争になるとは想像も及ばなかったのではないか、と擁護したい太田さん。賢治に対して複雑な思いをいだくことが、後に独自の9条観をもつに至る。

太田さんは2006年、宗教史学者の中澤新一さんと対談。雑誌『すばる』に「宮沢賢治と日本国憲法」「憲法九条を世界遺産に」と題して連載され、同年、『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書・写真左)として出版された。
対談で中沢さんが「平和とそれがはらんでいる矛盾について賢治ほど考え抜こうとした人はいない」と述べたうえで、「その背景に動物と人間との戦争があり、その上で平和の実現が可能かと考えた」という。これを受けて太田さんは「彼の作品には(動物に対する)正義や愛があふれているけれど、その正義が結果として人を殺す思想につながっている」と語る。太田さんが言う通り、ほとんどの戦争の錦の御旗は「正義」だ。あの太平洋戦争では日本もアメリカも「我が方に正義あり」だった。
太田さんは「日本とアメリカは戦争が終わったとたん、日米合作で理想憲法をつくった。日本人が15年も続いた戦争に嫌気がさしたピークの感情と、この国を二度と戦争を起こさせない国にしようというアメリカの思惑が重なった瞬間にぽっとできた。日本国憲法の誕生は、あの血塗られた時代に人類が行った一つの奇跡だと思う」とユニークな発想をする。そして「奇跡的な瞬間を人類の歴史が通り過ぎてきたのだとすれば、大事にしなければいけない。エジプトのピラミッドは人類の英知を超えた建築物であるがゆえに世界遺産に指定されている。憲法9条もそういう存在だ」と述べると、中沢さんは、アインシュアインの相対性理論を引き合いにだして、「その瞬間の輝きとともに世界に出たものは二度と取り消しがきかない人類の共有財産だ」と応じた。
現政権は憲法9条を変えようとしているが、「憲法9条はたった一つ日本に残された夢であり理想でもあり、拠り所でもある。どんなに非難されようと、一貫して他国と戦わない、二度と戦争を起こさないという姿勢を貫き通してきたことに日本人の誇りがある」と太田さんはきっぱり言った。

9条は日米の合作

古賀さんの場合、戦争未亡人になった母親への追慕が、「9条を守らねば」の思いに結び付いた。太田さんは母親に読み聞かせてもらった体験から本好きな少年になり、9条に考えが及ぶようになった。ともに母親の影が人格を形づくっているのが興味深い。だが、本稿は母親論ではない。ここでは二人の9条観に注目したい。
太田さんのそれは宮沢賢治への複雑な思いが下敷きになっている。太田さんは「賢治の作品を信頼する。けれど、おそらく賢治は満州事変も肯定する。そこが自分と相容れない」という。確かに賢治は国粋主義的宗教団体「国柱会」に入信したが、私が読んだ『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『セロ弾きのゴーシュ』などの童話からそうした好戦的傾向はうかがえない。私の読み方が浅いのかもしれないが、賢治の作品から9条論に話しを進めるのはいささか無理があるように思う。
太田さんは9条について「日米合作」という。どういうことだろう。
評論家の立花隆さんは雑誌『現代』で「私の護憲論」を発表。この中で憲法制定に中心的役割を果たした入江俊郎・法制局次長(当時)の「幣原さんが実質的イニシエーターだったという感じだった」という証言などに基づいて、「憲法九条はこういう(幣原喜重郎首相のような軍備全廃の)信念を持った人が発想し、それに共鳴したマッカーサーとその幕僚たちが法文化した。そういう意味で日米合作の憲法だったと言える」と結論づけた。

太田さんは立花さんの論文を読んでいたのかもしれない。前掲書でこのことを紹介した古関さんは幣原発案説を否定。マッカーサーが1946年2月3日、民生局の憲法起草チームに示した3原則のなかで、戦争放棄について「国権の発動たる戦争は廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための戦争をも放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍をもつ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない」としており、この表現の中に憲法9条中の「国際平和を誠実に希求し」との平和条項がないことに着目した。
古関さんによると、同年6月22日の衆議院本会議で社会党の片山哲が「日本国民は平和愛好者たることを世界に向かって宣言する、世界恒久平和の為に努力する、且つ国際信義を尊重する建前であることを声明することが必要」と述べた。この本会議の後に設置された「帝国憲法改正案特別委員会」の委員長に片山は就任したこともあって、憲法に平和条項が入ることになった。つまり、戦争放棄条項が米側の発案で、平和条項は日本側の意思で生まれたわけである。古関説によっても日米合作といえるだろう。

太田さんの主張のなかで私が感心したのは、憲法誕生を「人類が行った一つの奇跡」ととらえる点だ。本稿を執筆している時、たまたま私は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』(文春文庫)を読んでいた。天保11(1840)年、土佐の庄屋が秘密同盟を結び、「藩から身柄を差し出せと命じられても決して差し出さない」との密約を交わしたことに触れ、「半封建的国民思想が、土佐の草深い田舎の庄屋どものあいだにうまれていた、というのは歴史の奇蹟であろう」と司馬は書く。そして、この庄屋同盟が維新後の自由民権運動につながったとみる。

この自由民権運動から植木枝盛の「日本国国憲案(東洋大日本国国憲案)」が生まれた。このなかで植木は人民主権、徹底した人権保障(法律で自由権利を制限することの禁止)などを唱えた。憲法史研究者、鈴木安蔵は日本国国憲案の研究に没頭し、「国民は健康で文化的水準の生活を営む権利を有する」などを盛り込んだ憲法草案要綱を起草。同要綱は1945年12月26日、憲法研究会によって発表された。植木の思想は現行憲法の理念に通じるものがあったのだ。(高田健『改憲・護憲――徹底検証・憲法調査会』技術と人間)
司馬が「奇蹟」と感じた土佐の庄屋の秘密同盟が巡り巡って、憲法9条の奇跡を生んだと言えなくもない。

世界の記憶マグナカルタ

憲法9条は世界遺産になり得るのだろうか。そもそも憲法が世界遺産になった例はあるのだろうか。調べてみると「マグナカルタ」がユネスコの「世界の記憶」になっていることがわかった。

マグナカルタは1215年、イングランド王国のジョン王が制定した憲章で、「自由の大憲章」と訳されている。前文(王によるマグナカルタの確認)、第1条(教会の自由)、第9条(ロンドン市などの都市・港の自由)、第29条(国法によらなければ逮捕・拘禁されたり、財産が奪われない=適正手続き規定)、第37条(自由と慣習の確認)などで構成されている。国王の権限を制限していることから憲法の草分けと位置付けられており、この理念が基礎になって17世紀、英国裁判官らによって憲法原理としてまとめられた。これが清教徒革命の根拠となり、アメリカ独立戦争につながることとなった。こうした歴史的価値が高く評価され、2009年、「世界の記憶」に選定にされた。

世界の記憶は「危機に瀕した古文書や歴史的記録物を保全し、広く公開する」ことを目的に、1992年に創設、ユネスコが95年から選定を始めた。これまでに「光州事件の民主化運動に関する記録」(韓国)、「ピープルパワー革命時のラジオ放送」(フィリピン)、「ターニングポイント:国家誕生の時」(東チモール)や、複数国にまたがる例として「慶長遣欧使節関係資料」(日本、スペイン)、「朝鮮通信使関係資料」(日本、韓国)がある。

光州事件は1980年に発生したものだ。現代史の資料も世界の記憶になっている点からみると、憲法9条も十分その可能性があるといえるだろう。「朝鮮通信使関係資料」は民間と地方自体の主導で申請が行われた。政府が後ろ向きでも民間団体の手で申請できるのだ。九条の会などの団体が申請運動を進めるためには、多くの国民の賛同が要る。「戦争未亡人を出さないために憲法9条を守ろう」という古賀さんの思いの方が、太田さんの主張よりも多くの理解が得られると思われる。

すでに述べたように古賀さんは、「憲法改正」を党是とする自民党の重鎮である。その古賀さんの『憲法九条は世界遺産』に多くの耳目が集まる今、9条を世界の記憶にするまたとないチャンスである。太田さんの言い方をまねれば、古賀さんが同書を著したことが時代の奇跡なのだ。

私は受験生時代、マグンカルタの成立年を、「人に一言(1215年)大憲章」とおぼえた。憲法9条がマグナカルタに続いて世界の記憶になれば、受験生はその成立年を憶えなければならない。

憲法の公布は1946年11月3日だ。「平和憲法一句詠む(1946年)」というのはどうだろう。
実際、9条を詠んだ川柳句がある。
9条があるから保てた平和です(河原あや子)
(『新現代川柳必携』三省堂)