昭和の引き出し 私の半生 元民族新聞記者 鄭容順

2016 年 12 月 11 日、奈良県内で活動する奈良県女性センターの「奈良女性史研究会」の聞き取り会に招待された。私が生きてきた人生をお聞きしたいという。
聞き取りはテープ起こしをして他の聞き取り者も含めて冊子に編集されるという。仕事しているときは多忙で慌ただしく現場をかけまわつて記事にしていた。現職時は楽しかったが終わってみると、なんとハードな仕事だったのか。生き方というよりも現場で取材した体験だけの記憶になっているという私のわびしいちっぽけな人生と気が付いた。
奈良女性史研究会は、県職員の川合紀子さんが、奈良県女性センターの所長のとき、奈良県の女性史を編纂したいと、編集者を集めて何年間、編集委員は奈良県内の女性に関係するあらゆる分野を調査、取材して「花ひらくー奈良女性生活史」を編纂、著書を1995年に発刊した。のちの 1996 年 1 月にこのグルーブたちが「奈良女性史研究会」を立ち上げて現在も活動を続けている。  私は 23 歳で結婚して専業主婦 15 年に後、奈良県の「月刊奈良」編集局で 5 年、記者と編集者、転職をして韓国系民族新聞、日刊紙の統一日報大阪支社に 5 年、転職して民団新聞で 21 年間、関西担当をした。69 歳で仕事を引退、引退して 1 年後、風邪をこじらせて 2015 年 1 月末、緊急搬送されて、危篤から命びろいをして、退院をした 2015 年 5 月の始めから介護支援生活をしている。
病名は血管に関係するもので難病としておこう。
招待した中に友人 2 人がいた。聞き取り会は役員 5人だったのでほっと安心していた。私は「肩書きも何もなく名刺もありません。終った人です」と話した。そこで2人の友人は「終ってからでも呼ばれることはいいことよ」といって下さった。

当日の聞き取り会で話した概要のプログラムを紹介。
□鄭容順・金定保子・平川保子の使い分け
□特別永住者と永住者
□日本国籍の収得に向けて自分との闘いから月刊奈良か
ら在日の新聞社に転職
□介護支援者になって(2015年5月7日から)、1世
と2世の違いを体験(大阪府内の在日の介護支援から)
□夜間学級との出会い
□母親の人生

私が1時間話し後の1時間は3時前から質問コーナーにした。

鄭容順・金定保子・平川保子の使い分け

在日韓国・。朝鮮人をここでは在日としていきます。在日のほとんどは生活の中では日本植民地時代の創始改名で日本式の名前を付けることになりました。いわゆる通名です。戦後、朝鮮半島は日本植民地支配から解放されたものの、通名を名乗る人がほとんどでした。
これは行政とも関係しています。韓国では男子誕生の際は各家の族譜(チョッポ)によって名前に1文字が取り入れられてつけられる。私の代は「容」です。女子はまれにつけられることもあるがほとんどなかったらしい
です。私の場合は日本の植民地時代、日本で生れて(昭和 19 年= 1944 年生れ)本名と通名を名乗ると一族と分かるように本名に「容」を入れてつけてくれました。日本の植民地時代の創氏改名で、通名の名前は当時、鄭家の一族の集まるところに「平川書院」がありました。その書院からつけました。由緒ある家です。韓国。慶尚南道の晋州博物館の近くに「密陽鄭氏」の家が復元されていました。韓国政府が建てましたが財政は分家が出しました。分家は大阪府内で財を成して財閥で有名です。祖父の弟になります。祖父の代は往来していましたが、父の代になって経済格差で往来をやめました。植民地にするときは地主から倒していきます。祖父の父親は 1 度留置場に連れていかれています。まもなく、土地は一町の田んぼを残して全部、日本に取られました。
そのときの祖父の父親の妻は、稲穂が実る田んぼの前でショック死をしています。結婚して行政機関に婚姻届を出しました。そのときに本名と夫の金定に入籍しました。行政機関には本名と通名が奈良市の住民として登録されました。行政から届く案内や書面は通名が優先です。健康な時は本名を名乗っていてもそんなものと、関心も薄かったのです、しかし大病して入院して私の名前は金定保子になっていました。
最初は鄭容順に慣れていて戸惑いもありましたが、行政機関の通名優先に納得しました。国民保険、介護保険は通名の金定保子になっていますので入院の名前は金定保子です。
学生時代の同級生たち、私の本名の読み方も結婚後の通名を知らない人が多いです。今も学生時代の同級生たちは旧名の平川保子をと呼んでいます。こんな事情もあって通名を名乗っている人、それぞれの事情があります。理解して下さい。
特別永住者と永住者特別永住者、永住者についてですが様々なかたちで日本に外国人が多くが暮らしています。特別永住者と永住者は同じように思われがちですが、日本に住んでいる日本植民地支配下から日本に移り住んだ在日韓国・朝鮮人は違います。戦後から1991年までは在日は在留資格で住民登録されていました。3 年に 1 度の外国人登録証明書の切り換えでした。3 世までは在留資格がありました。しかしその後の子供たちは無国籍という現実になっていました。様々な形で在日本大韓民国民団は研修会、など勉強会を行い日本政府にも在留資格の改善を要請していました。1965 年の日韓国交正常化の話し合いで、当時の首相、佐藤栄作は 30 年後になると、在日は日本国籍に切り換えていて、在日韓国・朝鮮人はいないと言い切りました。それで在留資格の問題をはじめ数々の問題を積み残したまま、日韓国交正常化をしました。30年後、日本には多くの在日韓国・朝鮮人が住んでいて、無国籍の子どもが生まれていました、1991 年、当時の首相、海部俊樹は韓国に行き、在日韓国・朝鮮人の在留資格について話しあいました。1965 年の日韓国交正常化で当時の朴正煕大統領はお金が必要だったのです。日本に来て日本の経済発展は物流が盛んに交流している名神高速道路にあると思われました。日本からの資金で、ソウル・釜山の京釜高速道路に着手、経済発展させました。これは漢江の奇跡といわれています。
植民地支配から住んでいる在日韓国・朝鮮人、台湾人などの子々孫々まで(特別永住者)となりました。その他の外国人、渡日して 5 年以上、日本に住んでいる人は永住者としました。

日本国籍の収得に向けて自分との闘いから月刊奈良から在日の新聞社に転職
夫の身内のほとんどは日本国籍に変えていきます。子息の就職のためです。私もそんなことを考えて日本国籍に切り換えていくことにしていて法務局に書類を取りにいっていました。そんなときにふと、自分の国籍と民族
とが気になりだしました。当時は在日に対することは何も知りませんでした。在日の付き合いは身内だけでした。
民族機関に足を踏み入れたのは帰化申請のために必要である戸籍でした。戸籍整理のために民団奈良県本部に行き戸籍整理をしていました。帰化申請のためでした。民族のことを何もしらないで、このまま帰化申請をしてい
いのだろうかと、私は葛藤していました。1987 年の 4月、とりあえず、ハングルを習ってから帰化申請を考えようと思って民団奈良県本部の韓国語教室に通い始めました。当時の韓国語教師はソウルから赴任したばかりの海
外派遣教師でした。私の雑誌記者の名刺は通名でしたが、月刊奈良編集局の記者と書いてありました。その名刺に派遣教師は驚かれました。そして私のことは当時の総領事館に伝えられ、当時、大阪では有名な在日の新聞の日刊紙、統一日報大阪支社に私は組み込まれていました。

統一日報大阪支社に転職するときは、ずいぶん悩みましたが、周りのある方かたは「人生が変わるかもしれない」といってくれていました。
私の職歴は月刊奈良編集局に 1982 年 8 月から勤務しました、その後、月刊奈良編集局を 1987 年 8 月に 5 年間の勤務をして退職しました。
その後、統一日報大阪支社を 1987 年 9 月から 1992 年12月まで5 年間の勤務で燃え尽き退職しました。
1カ月ほど家にいたのですが、また総領事館から電話があって「遊んではいけない」と言われて、民団新聞の前身、韓国新聞に私を領事館の方の紹介で就職したのです。
就職してすぐの1年間は民団大阪本部の建物に通い、現場取材をして記事を送稿していましたが、夫のこともあって 2 年目からフリーになって自宅を事務所にして現場を駆けまわって記事を書いていました。
在日の新聞社でもいろいろとありました。辛いこともたくさんありました。そのとき、いつも「日本人のふりをして日本の記事は書きたくない」と、言い聞かせて踏ん張ってきました。双方とも同僚とのこともありましたが上司にはとてもよくして頂きました。特に民団新聞では上司のフォローで 21 年間、仕事ができました。
介護支援者になって(2015 年 5 月 7 日から)、1 世と 2世の違いを2016 年 1 月 26 日の夜半、意識不明になっていた私を夫は救急車を呼んで、市立奈良病院に緊急搬送しました。意識不明が続いて一週間後に意識が回復しました。その
ときつけられた病名は難病だった。2015 年 5 月 7 日、退院してきてからは在宅介護、ホームヘルパー、看護師、リハビリの先生、デイサービスなど。多くの人の尽力で1年半寝たきりだったが、歩行もできるように回復して、5 年半の在宅介護。部屋の中は杖なしで歩けるようになりました。
介護支援生活者になって私はデイサービスを利用していて、1 世が日本の施設を利用できないことに気がつきました。1 世の言語は韓国語、日本語は韓国訛りの日本語、しかし食物は日本食だけでは食べられないのです。子供のころから食べている韓国の食材がないと食べられないのですん。キムチがないと食べられないのです。在日がキムチが食べられないと、施設の利用は大変だと見抜かれたのは、現在、大阪府堺市などで特別養護老人ホーム、こころの家族・故郷の家の理事長・尹基さんでした。

韓国全羅南道木浦市にある孤児が暮す「共生園」の理事長の母親は日本人でした。父親は朝鮮戦争の時に行方不明になりました。母親は夫が帰ってくるまでと孤児院の運営を続けていました。そして年老いて、病気になり。東京の病院に入院している時、余命がわずかの時に、「梅干しが食べたい」といいました。母親はそれまで韓国語しか話さず、民族衣装を着ていた人でした。尹基さんは、日本で在日韓国人も日本人も利用できる「梅干しとキムチがり食べられる施設を作ろう」と、決心されました。

そして一世の高齢化で切迫していたのが、高齢者の介護でした。東大阪市立長栄中学校の夜間学級に通学していました1世たちの行場所でした。長い間、。夜間学級に通学していても、いずれ卒業する日が来るのです。卒業した1世たちは。とりあえず。日本のデイサービスの施設を利用するものの、食べ物や文化が合わないようでした。1・2度、参加しても行かなくなります。ずっと家に引きこもりになるのです。それを見かねた長栄中学校夜間学級の教師たちでした。が元看護師さんだった鄭貴美さんは日本語を教え、看護師もしていました。そこで教師たちは鄭貴美さんに一案を投げました。一世たちが利用できるデイサービス、母国語、つまり韓国語が話せてキムチなど韓国料理の食べられるところの施設になりました。最初は長屋から始まったデイサービス、やがて少しずつ広げていき、今は宿泊できる建物になりました。1世たちは故郷の話に弾み食べ物も口にあっているので毎日、楽しく過ごしています。二世は日本で生れ育ち、ほとんどが日本の学校教育を受けているので、日本人と同じように介護施設利用して暮らしています。

□夜間学級との出会い

最初の夜間学級の出会いは京都市立郁文中学校からでした。灯りの灯る学び舎で勉強に励む一世たちの姿に心を打たれました、母親の人生と重ねて涙を流しながら取材していました。雑誌記者時代、この後、夜間中学の創設時はうどん学校、奈良新聞の記者にうどん学校の話を聞きながら、何もわからなくてぼんやりしていました。在日の新聞記者になってから夜間中学の実態、目にして学ぶことになりました。夜間中学の創設に走り回った東京都在住の高野雅夫さん、戦争で孤児になって朝鮮人の男性に育てられ、名前もこの方につけてもらったといっていました。この方に文字も教わり、夜間中学に行くようになり、全国に夜間中学設置にの奔走されました。出来たのが、奈良市立春日中学校夜間学級、天理市立北中学夜間学級などである。天理市立北中学校夜間中学に通学しておられた人は、私の実家の近くに住んでお折られました。今は 90 代、ご健在であると聞く。学校にも通っていると聞いています。高野さんは全国に夜間中学校設置に奔走されました。

母の人生

母の人生を語ると暗い話になってしまいます。私がいなかったら親や兄弟と一緒に日本の敗戦後、韓国に帰っていました。私は敗戦の 1 年前、昭和 19年 8月 31日に生まれています。戦後、母親の親や兄弟たちは韓国に帰国、母親は私がいたために日本に残りました。そのとき、母の母親、私にとっては祖母は母に言って聞かせました。「この子を育ててこの家の人たちの世話をして仲良く暮していると、ここの人たちはあなたのことは最後まで面倒みてくれるでしょう」と。
それで母親は日本に残りました。手紙は私の高校1 年まで来ていました。そしてある日、韓国・仁川から来た手紙に「女の子が高校にいっているからお金があるだろう。50 万円を送ってほしい」と書いていました。その手紙を読んだ父親は母親に言いました。「うちにはそんな大金はない。これで手紙の返事も出さない。これで終わりだ」と言いました。
高校時代の記憶として、母親は縁側に座って、韓国語で「どうして私も一緒に連れて帰ってくれなかったの」と、いっては泣いていました。
音信不通が何年も続きました。私が民団新聞で記者として駆けまわっている時に1994年 10月、韓国のソウルの漢江にかかる聖水橋が崩落、女子学生など多数が事故に巻き込まれて犠牲になりました。そのニュースをテレビで見た母親は私に電話をしてきました。「あの橋の事故で弟が亡くなったかもしれない、夢枕に立つ」と話しました。わたしは母親に「女子学生ばかりで大丈夫」といっていました。しかし、韓国のことで私に物事を頼んできたのは初めてでした。
正月、実家に帰った時に父親に母親の本籍地を聞いて、本籍地の役場の面長(町長)に母親の身内の居場所を問い合わせました。さっつそく仁川に住んでいる弟の子息から電話がありました。弟は聖水橋の崩落事故の 5 日前に亡くなっていました。それで母親の夢枕に立ったのでしょう。この後、仁川の弟家族を訪ねて、また釜山に住む母親の妹を訪ねました。私は韓国語がそんなに話せないの
で、韓国在住で仕事で世話になった人たちに通訳をしてもらいました。
1995 年仁川を訪問、1995 年と 1996 年に釜山を訪問しました。釜山の妹には、母親が心臓の病気になり、後遺症で足が不自由になって歩けないと話しました。そしてその翌年、釜山から妹が日本の木津川市の母を訪問しました。1 週間、滞在して母親を看護して韓国に戻って行きました。
私は仕事があまりにも忙し過ぎて母親を介護できていない後悔が今もありますが、釜山に訪ねて釜山の妹を 54年ぶりに日本で再会させたことで親孝行したかなと思っています。
母は長男の家に嫁ぎ、本家の長男の法事は大変でした。1 年 10 数人の命日の法事、お供えの費用もそれなりにかかります。母は家計のためにリヤカーを押して廃品回収業をしました。父親は会社員でした。母親は無学でしたが、商いに向いていたのか、それなりに稼ぎ、私の時代の高校進学率は 50 パーセントでしたが、高校に行かせてくれました。商いのための倉庫の土地を 2 つ買いました。母親を語ればきりがありませんのでこの程度にしておきます。

質問

―脱北者と会ったことはありますか。
はい。あります。現在、大阪府内に 50 人ほど暮しています。北朝鮮に帰国した在日朝鮮人は日本に外国人登録がしてあります。外国人登録のある人や子供たちは合意的に日本に戻ってこられました。ない人は韓国に行きました。私が印象に残っている脱北者、女性ですが 18 歳の時に北朝鮮の清津の港についたときに「騙された」と気が付いたといっていました。それから結婚しても子どもを作らないで、日本にもどる機会をみていて、脱北したといっていました。

-両親の渡日。
父は大正 10 年生れで 5 歳で京都市南区東九条、そのまえに父親の祖父が仕事で京都にきていました。京都で鉄道工事をしていました。旋盤工 2 級の資格をもっていたので。京都府相楽郡山城町上狛の軍需工場で戦艦の部品を作っていました。京都市の軍需工場から引き抜かれてきました。戦後は技術を生かして京都のロール彫刻の会社に勤務、プリント柄の原板を彫っていました。定年退職後、厚生年金を受給した世代で 1 世では珍しいです。父は戦時中、日本の軍需工場で仕事をしていた。ことで、日本に貢献したということで、韓国に行くと問題視され
ると思い、決して韓国にはいきませんでした。母は9歳で大阪柏原市に渡日。フアスナー工場で働き、年頃になって父と結婚しました。

―現在の在日韓国人の住民登録
10 年まえ、外国人の登録証明書と自治体のあり方が変わりました。それまで各自治体が外国人登録証明書の切り換え作業をしていて自治体が管理していました。それが国が管理することになりました。外国人登録証明書などはすべて、国が管理しています。外国人登録証明書の切り換えは 5 年に 1 度になり、外国人も日本の住民基本台帳に掲載されるようになりました。それまでは外国人は日本の人口の数に入っていませんでした。今は日本の人口に入っています。しかしそこで見えない在日韓国・朝鮮人の現実があります。

略歴

専業主婦15年の後、
1982年8月~1987年8月まで「現代奈良協会・「月刊奈良」編集局で雑誌記者と編集者。
1987年9月~1992年12月、統一日報大阪支社
1992年2月~2013年12月、在日本大韓民国民団・民団新聞関西担当記者。