宿場町《美濃路・大垣宿》井上脩身

奥の細道むすびの地
~水運の町で芭蕉のあわれを思う~

松尾芭蕉の不朽の名作『奥の細道』。そのスタートは芭蕉が庵をむすんだ江戸・深川であることは無学な私でも知っていた。奥州から日本海沿いに敦賀まで行ったことも知っていた。そしてその最後は大坂だと思い込んでいた。高校時代、大坂で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という最後の句を詠んだと習ったからだ。敦賀からなら琵琶湖沿いに京、大坂に行けるという地理感覚もあって、まことに恥ずかしい話だが、全く疑問をもたなかった。あるとき、JR大垣駅に止まった電車の車窓から「奥の細道むすびの地」の看板が目に留まった。大垣が『奥の細道』の最後の地というのだ。これはいったいどういうことだろう。調べてみると、大垣は江戸時代、美濃路の宿場だった。芭蕉は大垣宿で何をおもったのだろう。冬のある日、岐阜県大垣市を訪ねた。

芭蕉の到着、門人集合

いささか煩わしいが、『奥の細道』のなかの大垣のくだりを原文(小宮豊隆、横澤三郎著『芭蕉講座 第八巻紀行文篇』三省堂)のまま掲載する。
露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ國へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外したしき人ゝ日夜とぶらひて、蘇生のものにあふごく、且悦び且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮尾おがまんと、又舟にのりて、
 蛤の
   ふたみに
      わかれて行秋ぞ

以上の原文に筆者(横澤氏)による評が付されている。以下はその概略(一部口語化)。
芭蕉の生涯の大旅行『奥の細道』の旅もここで終わりを告げた。大垣に入って、越人をはじめ蕉門の誰彼が如行の家に集まり、「且悦び且いたは」ったりする。その蕉門の誰彼の喜びは、とりもなおさず芭蕉その人の喜びでもあったのだ。しかしその賑やかな喜びの一面に一脈のあわれが漂っているように感じられるのは、筆者のみであろうか。
この評によると、芭蕉は大垣の蕉門の俳人たちと会えたのがうれしくてたまらなかったようである。しかしそこにあわれが漂よっていた、というのはどういう意味であろうか。140日以上にのぼる『奥の細道』の旅がようやくゴールにたどりついたのである。普通の人は達成感をおぼえるだろう。俳聖は並みの人間とは違うというのであろうか。
私は芭蕉の「あわれ」を知りたいと思いながら大垣の宿場跡を歩いた。

揖斐川水系の大垣湊

まず大垣宿についてざっと説明しておこう。
大垣宿は美濃路の宿場であることはすでに述べた。美濃路の原型は東海道から尾張国の国府を経て美濃国内の東山道・不破関に至る古代のルートだったとみられている。関ヶ原の戦いで東軍の先鋒、福島正則が美濃へ進軍し、勝利した家康がこの道を凱旋して通ったことから「吉例街道」とも呼ばれ、将軍の上洛の際にも使われた。
江戸時代になって東海道の宮宿(名古屋市熱田区)と中山道の垂井宿(岐阜県垂井町)を結ぶ脇往還として整備された。長さは14里、56キロ。朝鮮通信使が10回、美濃路を通行して大垣で泊まったという。また琉球王使も1714(正徳4)年以降11回、美濃路経由で江戸に向かっている。このほか宇治で詰められた新茶が江戸に運ばれる、いわゆるお茶壺道中は、往路は東海道、復路は中山道だが、元禄以降、復路は美濃路経由になった。1729年、象が江戸まで運ばれた際も美濃路を通っている。
このように美濃路が頻繁に使われたのは、宮宿と桑名宿の間の七里の渡しで水難事故が多かったためだ。京から江戸に向かう際、水難事故を避けるため遠回りでも美濃路が使われた。
大垣宿は宮宿から数えて8番目の宿場。大垣藩の城下町でもある。京口門から名古屋門まで1キロ余り。この二つの門は有事の場合、大垣城の七つの門とともに閉鎖されることになっていた。
すでに述べたように大垣宿は美濃路の重用な城下町宿場であったが、もう一つ見逃してはならないのは水運が発達していたことだ。
水路の研究をしている水田恒樹氏の論文「大垣の近世運河と近代運河に関する研究」がネット上で公開されている。水田論文によると、天文年間(1532~55)に創建された大垣城には5筋の堀があるが、このうち城の西は揖斐川支流の水門川が流れている。近世の初頭、揖斐川では上流の年貢米や諸物資を河口の桑名まで運び、逆に茶や塩などを上流に運搬する水運として使われ、その一環として水門川も水運の川になった。このため、元は原野だった京口門の南で1601(慶長6)年に市街化が始まり、約10年間の間に32戸が城下から移住。水門川左岸に町民5人が共同の倉庫を建てて、船問屋を開設した。さらに慶長末の1615年ごろから、水門川をさかのぼり大垣湊で荷揚げされるようになったため、美濃路から中山道に至るルートが開発された。大垣湊辺りは船町と呼ばれ、大垣の経済の中核をなすようになる。
揖斐川水系の水運のうえで問題となったのは、堆積によって水深が浅くなることだ。大垣藩が役船を制度化した1626(寛永3)年ころ、70~75石積みの平田船が運行していたが、水門川の堆積がさらに進んだため、浅瀬でも積み替えをしなくても済む50石以下の鵜飼船に切り替えられた。1785(天明5)年、藩は「船荷の積み下ろしによって旅人の往来を妨害しないように」との制札を立てた。このころには水運が盛んになる一方で、旅人も多くなったことがうかがえる。
こうした水運によって大垣は、本陣、脇本陣などをかかえる宿場として発展。伊賀上野で生まれ育った芭蕉はそのことを知っていたにちがいない。

門人にいたわられる芭蕉

大垣に向かう前、私は推理作家、森村誠一氏の『芭蕉の杖跡――おくのほそ道新紀行』(角川マガジンズ)を読んだ。同書は2400キロにわたる『奥の細道』の全行程を、2008年から翌年にかけて5回に分けて踏破した紀行文だ。森村氏は俳句に造詣が深く、その先々で詠んだ俳句も交えており、平成版の奥の細道といった感の装いである。
同書で大垣について「色浜(敦賀)から我々は旅の終着、大垣へ向かう」と書き始め、「大垣では記念館(奥の細道むすびの地記念館)に立ち寄る」と続けている。どうやら森村氏は大垣に着くなり、真っ先に同記念館を訪ねたようである。私もJR大垣駅に着くとまず同記念館に向かった。
駅から南に徒歩約20分、水田論文に出てくる船町についた。現在の地名も船町である。記念館はその水門川沿いに建っている。2012年にオープンした白亜の瀟洒な建物だ。このなかの芭蕉館に松島や山寺など奥の細道ゆかりの地の紹介パネルが展示されており、会場を一回りするだけで、その全体像をおおざっぱながらも理解できる。
大垣については独立したコーナーが設けられている。ここでまず目についたのは、大垣に関する奥の細道の原文とその注釈が記載されたパネルである。写真撮影が許されていないので、私はノートに写し取った。
原文についてはすでに紹介しているので、ここでは注釈を書きとどめたい。
「露通」は正しくは路通。蕉門の俳人、41歳。もとは奥の細道の旅に同行する予定だったが、芭蕉は曾良に変更した。
「此みなと」とは敦賀の港のこと。
「大垣の庄」に入ったのは『荊口句帖』によると8月21日(太陽暦10月4日)
「越人」は芭蕉の門人、名古屋の人。享保5(1720)年、『更科紀行』に芭蕉に同行。
「如行」は大垣の蕉門の中心人物。通称源太。
「前川子」は大垣藩士、津田庄兵衛。弓頭、知行300石。
「荊口」も大垣藩士、名は宮崎太左衛門。3人の子(此筋、千川、文鳥)も蕉門の俳人。
「蘇生」とは、ここでは「死者がよみがえる」ことを意味し、芭蕉の病状が深刻だったことを表している。
「物うさ」は心身がだるい状態。
「長月六日」の午前8時に船出。水門川から揖斐川を下り、午後3時ごろ桑名市長島町杉江で上陸。
「伊勢の遷宮」が行われたのは内宮が9月10日、下宮が9月13日。
「ふたみ」は蛤(ハマグリ)の「蓋と身」に「二見」(伊勢)をかけている。「蓋と身」は離れがたいもの。芭蕉の句は、大垣の「したしき人々」に対する名残惜しさを述べた挨拶句。
以上の注釈を手掛かりに私なりに句を訳した。芭蕉についても古文についても、さらに俳句そのものにも門外漢である。いささか荒っぽい訳ではあるがご容赦ねがいたい。
敦賀港では門人の路通が出迎えにきてくれた。路通を伴って美濃の国へと向かう。馬の背に乗って8月21日、大垣に入った。(旅の途中、別行動をとった)曾良が伊勢から来てくれ、門人の越人も馬をとばてやってきた。大垣の門人、如行にやっかいになることになった。如行邸に、やはり大垣の門人で大垣藩士の前川子、荊口、それに荊口の子やそのほかの門人らが集って、まるで死んだ者が生き返ったかのように日夜、喜んでくれ、またいたわってくれた。まだ旅の疲れはとれておらず、心身がだるかったが、9月10日(内宮)と13日(下宮)に行われる伊勢神宮の遷宮をおがみたいので、伊勢に行くことにした。9月6日午前8時、船に乗って水門川を下り、揖斐川を経て桑名に着いた。伊勢の二見に向かう私はここで、離れがたいほどに親しい門人たちと別れねばならない。世話になったお礼の意味もこめて、別れの挨拶の一句を詠むとしよう。
蛤のふたみにわかれて行秋ぞ

芭蕉のための道しるべ

記念館でもらった観光マップをみると、芭蕉が船出したところは同館のすぐ前のようだ。そこは大垣宿の京口門よりも200メートルくらい南に位置しており、当然美濃路からも外れている。『奥の細道』の旅では芭蕉は馬の背にのって大垣に入ったのだから、大垣の宿場内では街道を歩かなかった可能性が高い。本稿は「宿場町シリーズ」の一環である。これでは困る。
森村氏の『芭蕉の杖跡』のページを繰った。「大垣は『野ざらし紀行』『笈の小文』の旅で曾遊の地であり、今回の『おくのほそ道』のむすびの地として三度目であった」とある。冒頭の『芭蕉講座』を開いた。『野ざらし紀行』は「甲子吟行」という目次で掲載されている。同紀行は1684(貞享元)年8月から翌年4月まで、故郷の伊賀上野への旅を記録したもので、「大和より山城を経て、近江路に入り、美濃に至る」芭蕉は「大垣に泊りける夜は、木因が家を主とす」としたため、
死もせぬ旅ねのはてよ秋のくれ
と詠んだ。
この後、芭蕉は「熱田に詣づ」のである。
『笈の小文』は「『芭蕉講座』の「芳野紀行」の項にある。1687(貞享4)年に伊賀上野に帰省したときの記録を芭蕉の死後、門人の乙州が編さんした。「此間美濃・大垣・岐阜のすきもの訪ひ来りて、歌仙あるは一折など、度ゝに及ぶ」とそっけない。この後、「師走十日餘り名古屋を出でて舊里に入んとす」とあることから、大垣から名古屋に向かったようだ。
『野ざらし紀行』『笈の小文』とも、芭蕉は美濃路を通って大垣に入り、名古屋に向かったことはまぎれもない。ということは、芭蕉は大垣の宿場内でも美濃路を歩いたはずである。私は、記念館から京口門跡を経て名古屋口門跡コースをとることにした。
同館を出ると真っ先に目に留まるのは二つの像である。一つは杖と笠を手にしていることから芭蕉像であることは明白だ。もう一体は台座に「木因像」と刻まれている。『野ざらし紀行』で、芭蕉が大垣滞在での主にしたという家のあるじの木因である。二人の像のそばに石造の道標がある。「南いせ くわなへ十り さいがうみち」と彫られている。説明板には「谷木因が芭蕉を歓迎するために建てたと伝えられている」とある。
谷木因(1646~1725)は大垣生まれの俳人。北村季吟に師事しており、芭蕉とは同門。代々船問屋を営み、大垣の蕉門の発展に尽くした。
芭蕉は木因への信頼が厚かった。大垣で奥の細道の旅を終えて伊勢におもむいた時、芭蕉は江戸の杉風に書簡を送っている。そこには、「木因舟に而(て)送り如行其外連衆舟にのりて」としたためられてあり、伊勢に行くために水門川で乗った船は木因が提供したものとわかる。
水田論文には「水門川左岸に町民5人が共同の倉庫を建てて、船問屋を開設した」とあることはすでに触れた。木因は大垣水運を商いとする問屋として財をなした有力商人の一人であったのだろう。

朝鮮通信使が泊まった本陣

前項でみたように、船町界隈は「芭蕉思い入れの地」である。奥の細道のファンにとっては「芭蕉をしのぶ地」と言えようか。ここにはもう一度戻って来ることにして、私は京口門跡から大垣宿探訪を始めることにした。
京口門跡の説明板が水門川の東岸にたっている。それによると大垣城の西総門を兼ねており、明け六つ(午前6時ごろ)に開けられ、暮れ六つ(午後6時ごろ)に閉められた。門の近く土塀がめぐらされ、二重の櫓が建っていたという。現在、京口門跡のそばに、水門川にかかる京橋がかけられ、たもとには「右京みち 左江戸道」と刻まれた石造円形、高さ約2メートルの「船町道標」がたっている。文政年間(1818~1830)にたてられたもので、元は少し離れたところにあったが、戦災にあったため、戦後、移し替えられたという。
木因の邸宅がどこにあったかは定かでないが、問屋を営んでいたことから船町にあったと思われる。『野ざらし紀行』で木因の家から名古屋に向かった芭蕉は京橋門から、この道標にしたがって左の道を進んだはずである。私も左(北向き)に行く。しばらくすると、道は東に進路を変える。この辺りでは水門川はLの字を上下に重ねたように直角に2回曲がっていて、何ともいえない風情を醸し出している。「四季の広場」と名付けた公園として整備され、吊橋の下に一艘の船が係留されている。この船はシーズンには遊覧船になるのだろうか。
美濃路は現在、幅7メートルほどの生活道路になっていて、両側に住宅が建ち並んでいる。残念ながら宿場の名残はほとんど見かけない。いささか失望の念をいだいていると、京口門跡から15分くらいのところで、「美濃路大垣宿本陣跡」の標識が目に入った。
大垣宿本陣は永禄年間(1558~1569)に創建されたという。織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破ったのは1560年のことだ。大垣本陣の伝説通りなら信長が勢いをもつとともに大垣の町が形成されたことになる。水田論文に、大垣城は天文年間(1532~55)に創建されたとあることと併せ考えると、信長の時代、大垣は軍事的にも商業的にも重要な所であったことはまぎれもない。私は「奥の細道むすびの地」のみに焦点を絞ったが、歴史的にはかなり価値ある都市だったようである。
本陣跡に平屋のこじんまりした木造切妻の建物がたっている。説明板には「宿場のほぼ中央に位置し、大名、宮家、公家、幕府役人が宿泊、休憩した。本陣役は宝暦5(1755)年、玉屋岡田藤兵衛、天保14(1843)年、飯沼定九郎が問屋を兼ねて勤めた」とある。本陣を司るのはここでも問屋なのだ。
この本陣跡の建物の入り口は鍵がかかっていて入ることができなかった。その入り口のそばに横長の石碑がたっている。「朝鮮通信使に関する記録」とあり、その下に「朝鮮通信使宿泊の地」と小さく添えられている。大垣の本陣に朝鮮通信使が泊まった際の記録が建物内に展示されているのであろうか。それを目にできなかったのは心残りであった。
朝鮮通信使は第7回が1682(天和2)年、第8回が1711(正徳元)年である。第7回は『笈の小文』の紀行の2年前、第8回のときは芭蕉はこの世にいない。芭蕉は大垣で朝鮮通信使を見ることはなかった。
本陣跡から50メートル東に問屋場跡の石碑があり、その前の朽ちかけた家屋の壁に「駄賃人足荷物ノ次第」とかいた木札がかかっている。「御伝馬駄賃40人目」などと問屋での決まりが書いてある。荷物を運ぶには40人の人員が要るということであろう。もちろん本物ではあるまい。あちこちの宿場を歩いたが、このような札を見たのは初めてだ。芭蕉は本物の「駄賃人足荷物ノ次第」を目にしたかもしれない。
今回の宿場探訪の終点である名古屋口門跡は問屋場から北に600メートルくらいのところの川岸にある。この川も水門川だ。観光マップを取り出して確かめると、水門川は大垣城を囲むように北から南下、西に向い、さらに南下、L字を上下にしたような升形に流れたあと、船町に向かっている。大垣城をはさんで北東に名古屋口門跡、南西に京口門跡がある。つまり京口門は西からの敵を防ぎ、名古屋口門は東の敵を防ぐための門なのだ。京口門が大垣城西総門を兼ねていたことはすでにふれた。名古屋口門はいうまでもなく大垣城東総門を兼ねていた。
芭蕉はこの門を出ると、次の宿場、墨俣宿へと歩を進めたはずである。

現れた旅に病む兆し

宿場の街道を歩いただけでは、芭蕉が「あわれ」を漂わせていた理由はわからない。私はもう一度、むすびの地である船町の水門川のほとりに立った。
水田論文に「大垣湊がある辺りは船町と呼ばれた」とあるが、今は両方を合わせ、「おくのほそ道の風景地 大垣船町川湊」として国の名勝に指定されている。ここが水運の荷物を船から陸揚げしたり、逆に船に積み込む湊であったことを示しているのが「住吉燈台」だ。江戸時代後半に建てられたと伝えられており、芭蕉のころにはまだなかった。この灯台のそばに朱塗りの橋がかかっている。おそらくこれも、芭蕉よりずっと後世の造りであろう。橋の両岸は桜並木みになっている。芭蕉のころ、仮に桜があったとしても、この地に着いたのは夏なので桜は咲いてなかった。
灯台の下に一艘の船が浮かんでいる。長さ約17メートル、幅3メートル。水田論文にある平田船であろう。芭蕉が伊勢に向かうために乗った船は平田船だった可能性が高い。 当時木因は家督を譲り隠居暮らしをしていた。芭蕉はその隠居所を訪ね、落ちついた暮らしぶりをほめて、

隠れ家や菊と月と田三反
と詠んだ。
『芭蕉講座 第八巻紀行文篇』に、蕪村筆の「奥の細道繪巻」の1点が掲載されている。芭蕉が藁ぶき屋根の質素な家を訪ねる図だ。木因の隠居所もこのような簡素な住まいだったのであろう。その木因が伊勢に向かう船を用意したことはすでに述べた。芭蕉にはどれほどありがたかったことか。
芭蕉が伊勢から杉風に宛てた書簡によると、「奥の細道」のむすびの地での如行邸での句会で木因は、
秋の暮行先々は苫屋哉
と詠んでいる。記念館の解説パネルに「芭蕉の旅の行く先々を思いやった発句」と記されている。だが、隠居所に訪ねてくれた芭蕉を見て、伊勢に向かうのは無理と感じたのではないだろうか。実際、芭蕉には旅の疲れが残っていた。木因の句に「苫屋に寝泊まるがごとき旅に耐えられるのか」との不安がにじんでいるように思える。
病といえば芭蕉に同行して北陸を歩いていた曾良が体調を崩して山中温泉で別れ、伊勢に先行することになった。その曾良が伊勢・長島から大垣に駆け付けてきた。芭蕉はほっとしたことだろう。曾良は逆に師の体調をどう見ただろう。その思いをうかがわせる史料はないが、越人が如行邸で詠んだ句が曾良の気持ちを代弁しているようにみえる。
胡蝶にもならで秋ふる菜虫かな
チョウのはずの師が今は幼虫の菜虫のように弱々しい、と表したと思うのはうがちすぎだろうか。
旅の疲れを癒そうと如行門人の竹戸があんまをした。そのお礼に芭蕉は紙ふすまを贈っている。5年後の1694(元禄7)年10月12日(太陽歴11月28日)、芭蕉が亡くなると如行が追悼句集『後の旅集』を編んだ。この中で竹戸は、
肩打ちし手心に泣火燵哉
と詠んだ。
あんまをしているとき、竹戸は芭蕉の身が気になり手心をくわえたというのであろうか。
実際に芭蕉の体に直接せっした竹戸ならばこそ感じるものがあったはずである。旅の病は、大垣で始まっていた。そう思えば越人の句は芭蕉の「あわれ」を表しているように思える。芭蕉に漂う「あわれ」とは「旅に病んで――」の予感なのだと私は思う。(了)