渡来人たちの宴《卑弥呼とアマテラス 5》片山通夫

古代の鏡

 ここで妄想をたくましくすることとしたい。三種の神器のうちの鏡の話である。おさらいをしておきたい。三種の神器とは日本神話において、天孫降臨の際にアマテラスがニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた三種類の宝器であるところの鏡・八咫鏡(やたのかがみ)と剣・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、別名:草薙剣、読み:くさなぎのつるぎ)と玉(璽)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の総称をいう。中でも八咫鏡は記紀神話によれば、天照大御神の岩戸隠れの際に天津麻羅(鍛冶の神)と伊斯許理度売命(作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神、天糠戸(あめのぬかど)の子)が作ったとされ、『日本書紀』には天照大神を象って作られたことや、試しに日像鏡や日矛を前もって鋳造したことが伝わる。天宇受売命が踊り狂い、神々が大笑いすることを不審に思った天照大御神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大御神自身を映して、興味を持たせ、天手力男神によって外に引き出した。そして再び高天原と葦原中国は明るくなった、という神話は有名だ。 “渡来人たちの宴《卑弥呼とアマテラス 5》片山通夫” の続きを読む

渡来人たちの宴《卑弥呼とアマテラス 4》片山通夫

漢委奴国王印

 さて卑弥呼は魏志倭人伝に書かれているように実在した。それからずっと時代は下って奈良時代に我が国の歴史書が編纂された。古事記と日本書紀である。前回書いたように古事記は元明天皇の時代の712年、日本書紀は元正天皇の時代の720年。8世紀の話だ。その頃に魏志倭人伝が読まれたのか否かは筆者にとっては不明である。しかしながら8世紀頃には我が国では読まれてはいなかったようだ。 “渡来人たちの宴《卑弥呼とアマテラス 4》片山通夫” の続きを読む

渡来人たちの宴《卑弥呼とアマテラス 3》片山通夫

 魏志倭人伝という史書だが、当時も今も卑弥呼に関して書かれた物は他に見当たらない。つまり検証のしようがないということにもなる。まして外国の史書であり、唯一残されただけに、ありがたく信ずるのもいいが、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称であり、必ずしも正確に記録されたものではないという印象がある。
しかしながら当時(3世紀頃)の倭国(日本)に関して書かれた唯一のものなので、貴重な書であることは当然である。しかしながら書かれている内容すべてが正しいとも思えない。 “渡来人たちの宴《卑弥呼とアマテラス 3》片山通夫” の続きを読む

渡来人たちの宴《卑弥呼とアマテラス 2》片山通夫

吉野ケ里遺跡公園

卑弥呼は太陽をあがめた、いや、太陽を利用した。月の満ち欠け、太陽の満ち欠けなど天体の現象を読み、鬼道に利用し国を治めた。そうでないと小国家間の争いをまとめ、それらの国の集合体に君臨することはかなわなかったはずである。

卑弥呼は太陽を司っていた。時代は弥生時代である。農業が盛んな時代だといえる。卑弥呼は中国や韓国から今でいう天文の知識を得たと思う。 “渡来人たちの宴《卑弥呼とアマテラス 2》片山通夫” の続きを読む

渡来人たちの宴《卑弥呼とアマテラス》片山通夫

少し遡ってみる。Lapiz春号で掲載した「渡来人たちの宴」では白村江の戦いで終わった。時は7世紀半ばのことだった。本稿で取り上げる卑弥呼は2世紀頃の人物だと思われる。およそ500年ほど遡ることとなる。
卑弥呼が歴史に登場するのは中国の『三国志』の中に書かれている『魏志倭人伝』。邪馬台国に都をおいていたとされる。卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当する)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている。
そして卑弥呼に関しては「鬼道」で衆を惑わしていたと魏志倭人伝にある。 “渡来人たちの宴《卑弥呼とアマテラス》片山通夫” の続きを読む