《渡来人たちの宴・外伝 15》片山通夫

続 曽我氏一族

曽我氏の祖と言われる武内宿禰像が載った紙幣

曽我稲目から馬子、蝦夷そして入鹿と4代にわたって権勢をほしいままにした曽我氏一族はおよそ100年ヤマト朝廷で君臨したことは前回書いた。
それではその出自を少し説明したい。書かれた文献は古事記や日本書紀しかないが一応探してみた。武内宿禰(写真)という人物が神功皇后が三韓征伐そ行ったときに活躍した人物だ。日本書紀他の伝承では景行天皇14年に生誕し仁徳天皇55年に亡くなったと伝えられている。121年生きていたことになり全く信頼できない。その人物が曽我氏の始祖らしい…。 “《渡来人たちの宴・外伝 15》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝 その14》片山通夫

曽我氏一族

入鹿暗殺の現場跡 板蓋宮跡

石舞台の規模の墳墓を造成させるだけの権力を持っていたと思われる。 曽我氏は飛鳥にその本拠を置いて、曽我稲目から馬子、蝦夷そして入鹿と4代にわたって権勢をほしいままにした。ヤマト朝廷の最高位・大臣を務め、自分の娘を大王の期先として送り込み、そして生まれた子を次代の大王として即位させた。大王家の外戚としての地位を得、わが世の春を謳歌した。今のところ、石舞台は馬子の墓だと思われているが定かではない。 “《渡来人たちの宴・外伝 その14》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝 その13》片山通夫

石舞台古墳

蘇我馬子の墓か?奈良・飛鳥の石舞台

話は少しさかのぼる。飛鳥に大きな石舞台古墳があることは、ご存じだろう。古墳というからには、だれか有力な豪族の埋葬地だと思われている。この時代、まだ大化の改新前の話で、つまり、大王(おおきみ)親政の中央集権以前の時代だと思われる。とにかく大きい。石は大小約30個、最大の石で約77tと推測される。総重量は2300tだという話。本来、土に覆われた小高い丘のようだったと思われるが、なぜか土が流れて玄室が露出してしまったとか。 “《渡来人たちの宴・外伝 その13》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝 その11》片山通夫

遷都にも渡来人が活躍した? 大津京 オンドル跡

遷都
都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮へ遷都したのは大化2年12月のことだった。この時代、遷都するのには相当の訳があった。国土交通省のホームページに下記の記載があったので、転載したい。 “《渡来人たちの宴・外伝 その11》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝 その10》片山通夫

大化の改新 その後

鎌足

 

安定のための血塗られた歴史があった。
 6月19日、孝徳天皇と中大兄皇子は群臣を大槻の樹に集めて「帝道は唯一である」「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」と神々に誓った。そして、大化元年に初めて元号を大化と定めた。 “《渡来人たちの宴・外伝 その10》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝 その9》片山通夫

入鹿の首塚

大化の改新
645年(皇極天皇4年)6月14日の乙巳の変をいう。この変は天皇ではなく、皇極太上天皇とその親友とされる中臣鎌足(内臣)の主導のもと、年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。この変(改革)で初めて「日本」という国号と「天皇」という称号の使用が始まったとされる。そして「大化」は無論初めての元号。  “《渡来人たちの宴・外伝 その9》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝 その8》片山通夫

渡来人たちの技術が飛鳥寺を造った。

それまで我が国にはなかった飛鳥寺のような大伽藍寺院はどんな人が造ったのか大いに疑問だった。日本書紀に、百済から僧と仏舎利、寺工(てらたくみ)、露盤博士(ろばんのはかせ)、瓦博士(かわらのはかせ)、画工(えかき)などが渡来したという記事があり、彼ら渡来人がその任に当たったとわかる。現在奈良町の元興寺に残る「飛鳥時代の瓦」は飛鳥寺に使われていた百済から来た瓦博士の作もしくは彼の指導で焼かれたものと推測したい。なんともロマンチックな話だ。 “《渡来人たちの宴・外伝 その8》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝 その7》片山通夫

日本で最初の仏教寺。飛鳥寺の飛鳥大仏。

仏教が飛鳥時代に伝えられた。ところが簡単に新しい文化が受け入れられたというわけではなさそうだった。時は6世紀前半。欽明天皇が仏像を拝む、つまり仏教を取り入れるべきか否か群臣にはかった。曽我稲目が大いに勧めたが物部尾輿が反対した。“崇仏論争”である。単に仏教を取り入れるかどうかの論争ではなく、政権内の権力争いでもあった。

そして用明天皇2年(587)、蘇我氏と物部氏との権力争いは武力対決に発展。蘇我氏が勝利を収め、仏教受容の道が開かれた。翌、崇峻天皇元年(588)には、蘇我氏の本拠地・飛鳥で、稲目の息子・蘇我馬子の発願により「法興寺」、地名から「飛鳥寺」とも称される寺院の建立された。仏教中心の飛鳥文化の開花であった。王族や豪族たちは競って氏寺を建立した。その最初が法興寺であり飛鳥寺と称されて現在の元興寺である。(この項続く)

《渡来人たちの宴・外伝 その6》片山通夫

高麗(こま)寺跡
高麗寺跡は、奈良盆地から南山城地域を北上する古代の主要道に近い場所にある。高麗寺は木津川という古代の水陸の交通網の要衝だった。南面する伽藍(がらん)は木津川を正面にしており、往来する船や対岸からの視線を強く意識していたと推測される。高麗寺に関連する最も古い記録は『日本書紀』の欽明天皇31(570)年条に、高句麗から使節が来訪した際、後に高麗寺が創建される山城国相楽郡に館(むろつみ)を建設し、迎接したと記されています。この時点ですでに相楽郡には一定数の渡来人が居住していたのではないかと思われる。

周囲に点在する「上狛」「下狛」などの地名は、高句麗からの渡来氏族、狛氏に由来するものとされ、高麗寺は狛氏と関連して創建されたのではないだろうか。ここにもおそらく栄華を極めた渡来人が住んでいたのは間違いない。