宿場町シリーズ《東海道・大津宿》文、写真 井上脩身

琵琶湖の光と風がつつむ街
~医師・山脇東洋の足跡を追って~

山脇東洋が眠る誓願寺

京都の繁華街、新京極を北に上がると、三条通りの手前に誓願寺がある。この寺の墓地に山脇東洋が眠っていることを最近知った。山脇東洋は日本で初めて人体を解剖した江戸中期の医師だ。医学史上、画期的なことをやってのけた男が京の人だったとは、恥ずかしながら知らなかった。山脇東洋はどういう人物だったのだろう。東洋の一代をえがいた林太郎氏の『江戸解剖記――小説・山脇東洋』(なのはな出版)を読んだ。300ページに近い物語のほとんどは、医学への真摯な思いと、世評を恐れない大胆な行動に費やされているが、基本テーマは人体の解剖である。読んでいて心地いいものではない。そんななか、ホッとさせられたのは、東洋が妻延子と伊勢参りにでかける道中話だ。京・三条大橋で子どもたちと別れ、東海道を大津宿に向かう二人。「街道ぞいに咲く花や遠くの景色にこころをうつす」と林氏は、ギスギスした日々から解き放たれた東洋の心の内を表す。新型コロナウイルスの感染拡大にともなう緊急事態宣言が解除されて1週間後の6月初め、私も自粛生活のギスギス感から解放されたい一心で、大津宿への旅を思いたった。

日本で初めて人体を解剖

日本で初めて人体解剖をした山脇東洋(ウィキペディアより)

旅に出る前に山脇東洋という医師のことを頭に入れておかねばならない。1706(宝永2)年、丹波・亀山(亀岡市)の医師の家に生まれる。20歳のとき、山脇家の養子になり、理論よりも実践を重んじる医術を学んだ。人体の内部を陰陽五行説に基づいて説明する従来の医学に疑問をもち、人体の臓器に近いとされるカワウソの解剖を手掛ける。実際の人体の中を見たいとの思いが募り、京都所司代の許可を得て死刑囚の解剖を行って体内を記録。1759(宝暦4)年、『蔵志』として刊行し、杉田玄白、前野良沢らに影響を与えた。
以下は、『江戸解剖記』の中のエピソードを交えて、紀行文風に綴った私の道中記である。

逢坂越えの山科追分

歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」

東洋は26歳のとき、10歳下の延子をめとった。長男阿鶴が生まれた1732(享保17)年、西国一帯がウンカの大群にみまわれ、稲作が400万石も減少、餓死者が1万2000人にのぼる大飢饉になった。京の町は窮民であふれかえる。大八車で運ばれる死者を見るたびに医者としての無力感に陥る東洋を延子は支え、やがて長女と次男が誕生。子育てをしながら畑を耕し、縫物をし、洗濯に追われる延子は、患者だけでなく下働きの女たちからも慕われた。
東洋に嫁いで十数年がたち、東洋のもとに多くの門人がやってくるようになったある日、延子は「お伊勢さまにいってみたい」とつぶやいた。東洋は、その声に病気の子が甘えるような響きがあるのが気になった。長生きしてほしい、との願いから旅にでることにした。
ふたりが京をたったのは山々が新緑につつまれた穏やかな日。三条大橋から東海道を東にすすみ、「逢坂越え」と呼ばれる街道の分岐の三差路にさしかかった。まっすぐ行けば大津、南へ行けば六地蔵。京の東の端である。
東洋は母から聞いたおかげ参りを思いだしていた。
東洋が母親のお腹のなかにいたとき、一条通のでっちの長八が、奉公先の赤子を背負ったままいなくなり、大騒ぎににった。それがきっかけでお伊勢さんに向かう人がふえ、初めは日に3、4千人の行列だったのに、「ありがたいご利益がある」と、人の波は京から丹波、但馬、因幡まで広がり10日もたつと5万、10万とふくれあがった。
「道中の宿はただで泊めてくれ、食い物もくれた。ぞうりが切れると新しいものに代えてくれ、足を痛めるとカゴにも馬にも乗せてくれた」
東洋がこんな話をしていると、伊勢講の一団がやってきた。小袖のうえにそろいの浴衣。その上にそろいのはっぴを羽織っている。にぎやかな唱和が山肌にこだました。
「おかげでさ するりとな ぬけたとさ」

東海道と伏見街道の分岐点である山科追分三差路

私は三条大橋そばの三条駅から浜大津駅に向かう京阪電車に乗った。十数分で追分駅に到着。線路の南を国道1号が平行している。国道を横断し、少し高台に上がると住宅街の間を旧東海道が貫いている。幅約5メートル。すぐ近くに三差路があり、「みぎ 京みち ひだり ふしみみち」と刻まれた高さ1メートルの石碑が建っている。ここは東海道と伏見街道(奈良道)との分岐点なのだ。地名は「髭茶追分」だが、古くから「山科追分」と呼ばれていた。追分は道が二つに分かれている所をさす。説明板には「大津絵が生まれた所」とあり、芭蕉が「大津絵の筆のはじめは何仏」と詠んだという。

1705年のおかげ参りには380万人もの人々が参加したといわれている。この追分にも一時、お伊勢参りの人、人、人でうずまったにちがいない。『江戸解剖記』の著者である林氏は「神事にことよせて封建社会の束縛からぬける自然発生的なものであり、規模の上からみても驚くべき抵抗運動であり、民衆の解放運動」ととらえる。しかし、憤懣の矛先が幕府や藩に向かわず、伊勢参りにエネルギーが費やされるなら、幕閣にとって痛くもかゆくもなかったかもしれない。
東洋と延子が伊勢講の一団と出会ったのが実話だとしても、30年ほど前のおかげ参りの狂気はどこにもなく、のんびりとした空気に包まれていたことだろう。私がこのように想像したのには、旧東海道に人通りがほとんどなかったことが大いに関係している。緊急事態宣言が解けたとはいえ、多くの人は感染しないかとおびえてなお外出をひかえている。加えてこの日は30度に近い真夏のような暑い日であった。マスクをしていると、口のまわりがむっとする。人影がないことを幸いに、私はマスクを外して歩いた。

走井茶屋と大津算盤

走井茶屋の跡に建てられた月心寺

追分からしばらく行くと茶店のそばで水がわき出ているのに延子は気づいた。「走井の名水」だ。『枕の草子』に「はしり井は、逢坂なるがをかしきなり」と記されているように、逢坂山の山すそが街道にまでせまってきている。
茅葺の屋根に生えた小さな草が風に揺れる深い静寂のなか、東洋と延子は坂道をゆったり歩く。平なところに出ると、いまにもつぶれそうな黒ずんだ家の前で、老婆がひとりうずくまっている。ふたりが通り過ぎようとすると、「替えのわらじはいらんかね」と声をかけた。ふたりのわらじはまだ大丈夫だ。買ってくれないとわかった老婆は気だるそうに見上げて背をすぼめた。
老婆の小さな弱々しい体に、延子は、東洋が解剖したカワウソが重なってみえた。
延子が東洋のもとに嫁いでそう日がたっていない秋のある日、猟師がカワウソを網にいれて運びこみ、柱にくくりつけた。夕闇がせまるころ東洋が帰宅。カワウソは人間の内臓に似ていると言われているので、腑分け(解剖)するという。
「人間を解くわけにはいかん。カワウソならだれからも咎められん。お前も医者の女房。立ち会うがよい」
東洋はカワウソを解剖しただけでなかった。
ある日、阿鶴が「よだれを垂らした犬が――」と叫びながら帰ってきた。2頭の犬に追いかけられたのだ。東洋は狂犬病のうわさを聞いていた。津ではお伊勢参りの人が病犬の群れに襲われたと伝えられ、猟師が撃ち殺した犬の頭を割ると、ミミズのような虫がうじゃうじゃいたという。
東洋は阿鶴が狂犬にかまれたのでないことを確かめると、2頭をクワで打ちたおした。そうなると、頭蓋骨の虫の正体を知りたくてしかたなくなった。家の庭にムシロを広げ、カワウソを解いたときの刃物で腑分けを始めた。心臓を開くと糸状の虫がうごめいている。延子は「体の中を知りたい」という東洋の強い思いに息をのむ思いだった。

東洋夫婦が見かけたという茶店は歌川広重の「東海道五十三次」にも描かれている。街道をはさんで両側に家が建ち並んでいて、大津絵や大津算盤、縫い針などの大津の特産を売る土産物店もあった。牛馬の往来も多く、結構なにぎわいを見せている。
私は、その茶店を訪ねたいと思った。追分から10分ほど歩くと、国道沿に石塀をめぐらした屋敷が建っている。古さびた入り口に、かすかに「月心寺」と読める表札がかかっている。開き戸はしまっていて、中には入れない。塀の外からのぞくと、こけむした茶室と思われるわら葺きか茅葺き建物の屋根が見える。屋根には草が生えていて、東洋と延子が目にした、小さな草が風に揺れる茅葺きの屋根を見ているような錯覚に陥る。
調べてみると、月心寺は走井茶屋の跡だった。 1889(明治22)年に東海道線の全線が開通したことなどから、この地はさびれ、茶店も朽ち果てた。日本画家の橋本関雪が1914(大正3)年、別邸として購入、1954年に寺院になり、「月心寺」と名づけられた。境内には百歳堂があり、小野小町の百歳の姿を表したといわれる百歳像がまつられているという。
広重が描いたにぎわいはどのようなものだったのだろう。
月心寺のほど近くに「大津算盤の始祖、片岡庄兵衛」とかかれた標柱がたっている。そこには「慶長17(1613)年、片岡庄兵衛が、明から長崎に渡来した算盤を参考にして算盤を製造、この西方の一里塚付近で店を構えた」とある。片岡邸は昭和初期まであり、現在の家屋のわきに、元禄8(1695)年に大津代官に提出されたか街道絵図のコピーが展示されている。元禄時代、現在の地名では大津市大谷になるこの辺りは、街道の両側に合わせて約40戸の店が軒を並べていた。片岡の店は2軒分を占めており、一際目立つ存在だったようだ。
東洋と延子がここを通ったのは街道絵図が描かれて40年後だ。片岡の算盤店が目に入らないはずはない。東洋は腑分けの際に役立つのでは、と算盤を買い求めたかもしれない。

蝉丸ゆかりの神社

百人一首に描かれた蝉丸(ウィキペディアより)

東洋と延子は逢坂山のすそにそって街道を下っていく。やがて、神社がみえた。関蝉丸神社だ。神社は逢坂峠に近い上社とふもとの下社がある。ふたりが目にしたのは下社。浜大津はもうすぐだ。
小倉百人一首で知られる平安中期の琵琶法師で歌人の蝉丸が逢坂山で暮らしていたことから、死後、この神社にまつられた。971年、円融天皇の命によって、歌舞音曲の神としてまつられるようになった。
この辺りまで下ってくると、琵琶湖が見える。東洋は結婚前、延子に初めて会ったときのことを思いだしていた。江戸で見た菩薩像を思い浮かべ、「あなたは、唐の国から運ばれた仏像のような人」といったのだった。
延子は今も菩薩さまの面影を残している。街道には人影がない。ふたりはぴたっと寄り添ってあるく。
延子が風邪をひいて寝込んだのは伊勢から帰って4カ月後だった。夏の暑さに体調を崩したのだろうと東洋は診立てた。だが3日目に容体が急変。5日目の昼過ぎ、息を引きとった。東洋は懐からメスを取り出し、延子の胸を広げた。メスを握りしめたとき、「お母さんをどうするのです!」と阿鶴が体当たりしてきた。東洋は、ウーツと声を上げて泣いた。
東洋は伊勢への旅で神社にお参りしなかったことを思った。神仏について考えたこともない自分に天罰がくだったのかもしれないという気がした。延子の位牌をだいて再び伊勢にむかった。

月心寺から20分ほど坂道をのぼると、逢阪峠に着いた。国道のわきに、高さが2メートルを超える「逢坂関址」の石碑が建っている。逢坂関は鈴鹿関、不破関とともに京の都を守る三関の一つとして弘仁元(810)年以降、重要な役割を担った。この石碑のそばに「大津絵販売之地」の碑がたっている。関所を通って、「さあ、いよいよ大津」と胸躍る思いの旅人には、大津絵は魅力的なグッズだったかもしれない。
ここから浜大津に向かって下り道だ。しばらくすると赤い鳥居が見える。50段くらいの階段を上ったところに、そう大きくない神社がある。「関蝉丸神社」の上社だ。さらに15分ほど下ると、「関蝉丸神社」の石碑。隣に「音曲藝術祖神」の石碑が建っている。ここが関蝉丸神社下社である。屋根が正面の入り口に長く延びる流造という様式の荘厳な建物、とネットに書いてあるが、修理工事のためか屋根が布で覆われていて、荘厳さを感じることはできなかった。
『今昔物語』によると、蝉丸は逢坂の関に庵を結び、往来の人を見て「これやこの行くも帰るもわかれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」と詠んだ。
能に「蝉丸」という演目がある。延喜天皇の皇女・逆髪は狂人となってさ迷い、逢坂山にたどり着く。わら屋根の家から漏れ聞こえる琵琶の音を耳にとめ、そこに弟の蝉丸がいることに気づく。ふたりはわびしい境遇を語り合い、涙ながらに別れる――という物語。亡霊を主人公にする狂乱物の一つだ。世阿弥作と伝えられている。この神社の本殿の手前に舞台がある。能舞台としても使われるのだろうか。
医の道一筋の東洋が能を見ることはなかったであろう。だが、延子が死期を迎えたとき、逆髪の亡霊がのりうつったかのような狂気に包まれていた。後に東洋が延子の位牌をだいて伊勢にむかったとき、この関蝉丸神社にお参りしたに違いない。

常夜灯ある矢橋の渡し

江戸時代をしのぶ石場津の常夜灯(背後は比良山)

話を東洋と延子の道中に戻す。二人は大津の宿場を目前にしている。家々の間から琵琶湖が広がっている。東洋は延子の肩から手を離し、瀬田に向かうか、矢橋に行くかの相談をはじめた。
大津の宿場から琵琶湖岸にそって南に向かい、瀬田川を河口から少しさかのぼると有名な「瀬田の唐橋」がある。延子としてはぜひ見てみたい。しかし大津宿のはずれに石場という船着き場がある。ここから5キロ先の矢橋までの渡し船がでている。瀬田の唐橋への大回をしなくてすむので、東海道を急ぐ旅人たちは「矢橋の渡し」を利用する。
東洋は延子に講釈をたれはじめた。
「琵琶湖ができたのは千数百年むかし、孝霊天皇の5年、一夜にして天地が裂け、やがて水がたまって淡海と名づけた。沈んで湖ができた反動で駿河の国で土が盛り上がり、富士山ができた」
延子がクックッと笑って身をよじった。「体の中の真実を知りたい」という東洋が神話のような物語を語るのがおかしかったのだ。
「琵琶湖の水は京とはちがう香りがする」と延子。「ほんとうの夫婦になれた気がします」としみじみ言った。
東洋が延子とお伊勢参りに行って十数年がたった1754(宝暦4)年閏2月7日(太陽暦3月30日)、5人の罪人が斬首された。そのうちの一人、屈嘉という男の遺体が、東洋の「解剖したい」という願いが認められて、払い下げられることになった。といっても東洋が直接体にメスを入れるのではない。屠者が小刀で体を解く。しかし、初めての人体解剖であることにはかわりがない。
屠者の刀が皮膚を裂く。肋骨をノコギリで切断すると心臓が見えた。東洋には、これから開花する紅のハスのつぼみのように見え、紙に「未開の紅蓮の如し」と書き込む。肺の解剖が済むと、「右肺の襞二つ、左肺は襞一つ」とメモ。さらに肝臓、脾臓、腎臓の五臓から胆嚢、胃、腸、膀胱へと解剖は進んだ。
屈嘉は解剖後、俵に詰め込まれて再び刑場に運ばれ、罪人穴に投げ込まれた。しかし、医学の進歩に役立ったとして罪が減じられ、その遺骨が誓願寺に葬られた。
解剖の5年後、東洋は解剖記録『蔵志』を刊行。紙総数82枚、付図4葉。あとがきに「疑わしきはのぞく」と書いた。まだまだ不十分だと思ったのだ。8年後、ふたたび刑死体の解剖を行い、医学史上、東洋の名は確固たるものになった。
それから間もなく、食中毒にあたり床についた。混濁した頭に、琵琶湖の向こうで初夏の光に霞む比良の山々が浮かんだかどうか。

石場津

大津宿は、京阪電車浜大津駅に近い大津市の中心街にある。東海道(逢坂越え)と北国街道(西近江路)の四つ辻に高札が建てられていて、「札の辻」と呼ばれていた。旅人たちに馬や人足を提供する人馬会所がこの角にあったという。
今は道路標識以外に「札の辻」の跡をうかがわせるものはない。約50メートル先に「明治天皇聖蹟」の石碑があり、ここが大津宿の本陣跡という。札の辻が大津宿の中心地だったことはまぎれもない。
大津は、古く奈良・平安時代から琵琶湖水運の拠点として栄えた。江戸時代になり、東海道が整備されると、宿場町としてさらに盛況になる。1697(元禄10)年の『淡海録』によると、町数100、家屋4726軒、人数17810人を数えた。1714(正徳4)年は家屋3015軒、17568人▽1783(天明3)年、14950人▽天保年間(1830~44)家屋3650軒、14892人。元禄期をピークに家屋数、人口が減っているのは、奥州や蝦夷と大坂の間を北前船で荷物が運搬されるようになり、琵琶湖経由の運送が減少したためとみられる。
とはいえなお大都会であった。大津宿は東西16町余、南北1里余。海岸に沿う浜通りには近郊農村の人たちを相手とする商店が軒を並べ、札の辻から逢坂の関に向かう八町筋には本陣2軒、脇本陣1軒のほか、200軒近い旅籠が軒を連ねていた。
東洋と延子が大津宿の街道を歩いたのは正徳と天明の間なので、人口は1万6000人くらいであっただろう。ただ、京暮らしのふたりにとって、人が多いことは珍しいことではなく、彼らの目はむしろ琵琶湖に注がれていたにちがいない。
大津の最大の催しは今も昔も「大津祭」だ。曳山(山車)がかけ声とともにかつての宿場を練りまわる。私は2014年10月12日に行われた大津祭を見た。曳山のすべてが勢ぞろいした後、1基ずつ町に繰り出す。狭いアーケード街を、店の屋根すれすれにすすんでいく。ハラハラしながら見守ったものだ。
この曳山の面白いのはカラクリ人形がすえられていること。お姫さまや稚児の人形がいろいろなポーズをするので見飽きない。おそらく隣の京都の祇園祭を意識したのであろう。豪華さでは一歩譲るとしても知恵では負けない。そんな大津の町衆の気概が感じられた。
大津祭は江戸初期に始まったとされ、1638(寛永15)年に曳山の原型となる山車が誕生、1776(安永5)年には14基の曳山が出そろった。東洋のころはすでに10基以上の曳山があったと思われるが、伊勢への旅は初夏だったので、見ることはなかった。現在は13基が巡行する。
札の辻から浜大津へ出て、京阪電車で島の関駅で降りると、琵琶湖岸は目と鼻の先。湖岸に常夜灯が建っている。「石場津の常夜灯」と呼ばれている。1845(弘化2)年に造られたもので高さは8・4メートル。この常夜灯の辺りに矢橋への渡し場があった。石場津の西の大津宿内には小舟入という渡し場があり、矢橋への運航を競い合った。1649(慶安2)年には運賃をめぐって争いがあったといわれている。
東洋と延子が伊勢に参るとき、常夜灯はまだなかった。東洋夫妻がまっすぐ石場津に向かったなら、小舟入との無用な争いはとっくに収まっていたのであろう。
東洋は延子に「三井の晩照、石山の秋月、堅田の落鴈――」などと近江八景を一つずつ挙げた。その中に「矢橋の帰帆」もある。石場津から出た船が帆を上げて矢橋にもどる船の美しさを延子は思い浮かべたにちがいない。大津宿は琵琶湖を行き交う船があってこその宿場なのだ。

今、大津の港の中心は石場津の北約1キロの所だ。石場津には石組の階段状船着き場がつくられているが、実際にここに船が停泊するとは思えない。石場津の常夜灯の後ろに広がる琵琶湖。その向こうに比良山がかすんでいる。その姿だけは東洋のころと変わらない。

井上脩身 (いのうえ おさみ)1944 年、大阪府生まれ。70 年、毎日新聞社入社、鳥取支局、奈良支局、大阪本社社会部。徳島支局長、文化事業部長を経て、財団法人毎日書道会関西支部長。2010年、同会退職。現LAPIZ編集長