スサノオ追跡《そして渡来人たちの宴が始まった 中 》片山通夫

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魏志倭人伝

一方日本書紀によれば、スサノオは高天原で大暴れして追放されて「一書」では新羅の国へ降り立つという。しかしせっかく降り立った新羅の国を「自分のいるところではない」と出雲へ渡る。
新羅の人々からすれば風の又三郎のごとくに忽然と消えたわけだ。
又三郎の父は鉱山で働く人らしい。なんでもモリブデンの採取に従事しているようだ。
一方スサノオは朝鮮半島で鉄器を見た。馬を見た。おそらく様々な植物と一緒に鉄器の技術とそれに携わる人々、馬と乗馬技術なども我が国に伝えた、いやもしかしたら少なくともそれらの情報を持って帰ったのかもしれない。  ******************
(3世紀末に書かれたという)魏志倭人伝には、倭には馬がいないと記されている。
しかし縄文時代の貝塚から馬の骨は出土しているので実在は信じられてきた。馬がいなかったはずはない、魏の使者は見逃したのだ、いや倭人が隠したのだ、居たとしても数が非常に少なかったのでたまたま使者の目にふれなかっただけだとか、馬を巡る論議は昔からさまざまな憶測を生んできた。だが最近の科学的な調査(フッ素分析法)によると、どうも馬ではない可能性が高いようである。続く弥生時代の馬に関しても否定的な結果が得られている。となると魏志倭人伝は正しかったかもしれないのだ。弥生時代まで、日本には馬が居なかった可能性がある。ただ馬に関する道具(青銅製車馬具)については、その一部が長崎県、山口県の弥生時代の遺跡から数例出土している。しかしこれを以て馬が居たとは断定できない。明らかに縄文や弥生の地層から馬と断定できる出土例を待つしかないが、
出土しない可能性のほうが高そうである。

では一体何時頃日本に馬が入ってきたのだろうか? はっきりと馬そのものの遺骸が確認できるのは5世紀の中頃(西暦450年前後)、宮崎県六野原地下式横穴墓群8号墓から出土した馬で、轡(くつわ)を口に装着したままの姿で墓に葬られていた。以降九州では、6世紀の後半までは宮崎県や熊本県を中心に馬を殉葬する例が多く、それ以後は福岡県小郡市周辺で多く見られるようになる。
5世紀後半から6世紀後半にかけては、大阪の東大阪地方、生駒山麓や旧河内湖周辺の遺跡から、馬の骨の出土例が31を数えている。四条畷(しじょうなわて)市では、5世紀中頃から6世紀中頃と見られる奈良井遺跡から6頭以上の馬の骨が発見され、うち1頭は丁寧に板の上に乗せられており、周辺に馬型土製品やミニチュアの人形などが出土している。この時代、馬を祭祀用に葬った事が推定できる。又5世紀代の馬の骨は、長野県飯田市を中心とする伊那地方からも多く出土しており、伊那地方にも早くから馬がいた事がわかっている。馬具が確認されるのは4世紀末から5世紀初頭にかけてである。九州地方が最も早く、現在の所一番古い馬具は福岡県甘木市の池の上墳墓6号墳や福岡市老司3号石室から出土した轡(くつわ)、鞍金具、鉸具等であろうと言われている。5世紀初頭と言われるが、学者によっては4世紀中頃或いは末期と言う説もある。

馬具は馬とともに、大陸から一番近い北部九州にまず伝わり、その後全国へ拡散していった事は想像に難くない。5世紀以降は、馬の遺骸とともに各地の古墳から出土するし、又、馬の骨は伴わなくても多くの古墳から馬具は夥しい数で出土するようになる。明らかに馬と馬具は、古墳時代になって同時にドッと日本に出現するのだ。
(古墳時代を駆けた馬より http://inoues.net/study/kofunuma.html)

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続く

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