スサノオ追跡《そして渡来人たちの宴が始まった 下 》片山通夫

飛鳥大仏

ともあれ、魏志倭人伝の時代は我が国では弥生時代から古墳時代に移る過渡期。その後いまだに謎に満ちた邪馬台国をはじめとする小国家群が現れ、大和にヤマト王権が出現し、飛鳥文化の華が開く。この頃を詳しく見てみると、古代国家の成立過程で大陸や朝鮮半島からの文化や国家制度の伝来がヤマトから飛鳥時代・古代国家の成立への勢力争いが顕著にみられる。

渡来人たちの宴

 当然倭国だけの人材では国家の運営は出来なかった。さしたる知識もなかっただろうと思われる。そこで活躍するのが渡来人たちである。砂鉄から鉄を生成する技術や馬の伝来、武器の鍛造、文字や仏教の伝来、そして何よりも国家体系の整備に渡来人たちの能力が必要だった。
あくまで伝聞に過ぎない話も含めて、我が国は百済や新羅そして中国の文化や制度の導入、仏教文化の伝来で飛鳥・奈良朝が花開いたのは事実である。
一つ例を挙げたい。滋賀県は飛鳥時代に一時期都がおかれていた。大津京である。663年の百済救援の白村江の戦いで惨敗したのち、中大兄皇子は都を飛鳥から近江へと遷都したのは667年3月のことだった。遷都の理由に挙げられたのは白村江の惨敗で新羅・唐連合軍が攻めてこないかとか、飛鳥の豪族との関係などがあげられる。
たった5年の大津京だったが、百済の王族の縁者で渡来人の鬼室 集斯(きしつ しゅうし、7世紀の百済の貴族。百済復興運動で活躍した鬼室福信の縁者。百済における官位は達率、日本亡命後の日本における官位は小錦下)は、大津京で活躍し百済の男女400余人が近江国神前郡(後の神崎郡)に住まわされたと記すので、集斯も同じと推定できる。3月に神前郡の百済人に田が与えられた。また教育制度の整備にあたり学職頭(現在の文科大臣か)として活躍した。
また中大兄皇子は天智天皇として即位し天皇中心の中央集権制度の確立に渡来人たちの力を借りたであろうことは言うまでもない。

百済人を中心として新羅などからも優れた文化・制度そして思想をもたらした渡来人たちは異国である大津京や飛鳥・奈良時代を通じて春を謳歌したに違いない。
それは高天原を追放されたスサノオが新羅に降り立ち、伽耶文化に触れ、風のごとく出雲へ向かい、いわゆる出雲王朝の基礎を作ったスサノオの姿を見るようである。

風の又三郎にスサノオの姿が重なるのは筆者だけかもしれない。 
   

                           完