《渡来人たちの宴・外伝 その1》片山通夫

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大阪府枚方市にある「伝王仁墓」

【博士王仁を語ろう】

渡来人たちが我が国の文化、政治、経済などあらゆるジャンルで活躍したことは言うまでもない。言い換えれば古代の倭国を造った人々だったというわけだ。そんな中でよく知られた人物を紹介したい。王仁(生没年不詳)は儒教と千字文を日本に伝えた渡来人だと伝えられる。『日本書紀』によれば、王仁は、百済の使者・阿直岐(あちき)の推薦で応神天皇(第15代天皇)の皇子・莵道稚郎(うじのわきいらつこ)の教師として渡来し、諸々の書物を講じたとある。しかしながら人物の詳細については全くと言っていいほどつたえられていない。『古事記』によると、王仁吉師 (わにきし)は『論語』や『千字文』すなわち儒教思想や漢字の基礎を初めて日本にもたらしたとされている。こうした功績により、儒学が盛んになった江戸時代以降、王仁は学問の祖として崇められるようになった。

「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
    今は春べと 咲くやこの花」(古今和歌集・仮名序)

この歌は難波京で即位した仁徳天皇への讃歌とされ、紀貫之が歌の手本と賞賛した名歌である。富士山山頂にある浅間大社は「この花咲くや姫」を祀っているがこの女神の名が、冒頭の和歌を意識したものであろうことは容易に推測できよう。日本中で愛されているこの名歌は、実は渡来人である王仁の作とされている。

ところで王仁は他の文献に登場せず、母国とされている百済の資料にも記載がないとのこと。また『千字文』は4世紀ないし5世紀初めの成立であり、王仁とは時代が合わないようである。そのため王仁は伝説上の人物とする説が有力である。

王仁の墓(枚方市)

 王仁は伝説上の人物だとされているにもかかわらず、「王仁の墓」が存在する。それは
枚方市藤阪というところに存在する。

享保16年(1731)、儒学者並河誠所(なみかわせいしょ)が当地を王仁の墓所であると特定し、ここに「王仁碑」を建てた。さらに文政10年(1827)には、枚方招提村の家村孫
右衛門という人物が、この碑のすぐ近くに有栖川宮の筆によるという「博士王仁墳」の碑を建てた。
しかし、当地が王仁の墓所であるとする並河誠所の主張に確たる根拠はないようだ。
博士王仁墳」の碑についても疑問視する声のほうが大きい。ゆえに「伝王仁墓」と「伝」が付く。写真はすべて大阪府枚方市藤坂で。                  この項続く

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