《渡来人たちの宴・外伝 その9》片山通夫

入鹿の首塚

大化の改新
645年(皇極天皇4年)6月14日の乙巳の変をいう。この変は天皇ではなく、皇極太上天皇とその親友とされる中臣鎌足(内臣)の主導のもと、年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。この変(改革)で初めて「日本」という国号と「天皇」という称号の使用が始まったとされる。そして「大化」は無論初めての元号。  曽我氏は稲目、馬子、、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。長期政権はいつの世も腐敗や専横を起こす。この曽我氏の横暴に大王家は中臣鎌足中大兄皇子と計り645年(皇極天皇4年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自害。蘇我体制は終止符を打った。

この変の後、皇極天皇は退位し、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしたが、それでは天皇になりたいがためにクーデターをおこしたのかと思われるので中大兄は鎌足と相談の結果、皇弟・軽皇子が即位し孝徳天皇となり、中大兄皇子が実権を握る皇太子になった。そして新たに左右の大臣2人と内臣を置き唐の律令制度を実際に運営する知識として国博士を置いた。この政権交替は、蘇我時代と違って権力を握ることではなく、東アジア情勢の流れに即応できる権力の集中と国政の改革であったと考えられている。

蘇我入鹿の首塚と称する塚が飛鳥寺にある。中大兄皇子や中臣鎌足らに打たれた入鹿の首がおよそ500メートル離れた飛鳥寺まで飛んだというエピソードがあることも知っておきたい。