《渡来人たちの宴・外伝 その11》片山通夫

遷都にも渡来人が活躍した? 大津京 オンドル跡

遷都
都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮へ遷都したのは大化2年12月のことだった。この時代、遷都するのには相当の訳があった。国土交通省のホームページに下記の記載があったので、転載したい。 大王や天皇の所在地、固い言葉でいえば権力の中枢、権力の所在地ということになると思います。しかし、さかのぼれば大王や天皇の居所、宮殿を見ても、規模の大小はともかくとして、機能の上では大王や天皇が寝起きする建物に公的な仕事を行う建物が少し加えられている程度のものでした。宮廷の研究の中では「内廷」と言われるところにあたります。「廷」とは宮廷のことで、「内」とは「天皇に即した」ということです。ですから、内蔵といえば天皇のものを納める蔵のことであり、内膳といえば天皇の食事を扱う機能を持っていました。それに対して、公の機能、建物は、「外廷」という言い方をします。先の内蔵・内膳に対して、大蔵であり大膳です。

卑弥呼の時代などでは、内廷と外廷が未分化の状態でした。垣根などがあって武器を持った兵がいつも護衛していたというようなことが書かれています。そして、その中に高殿などがあったという程度のものであったと思います。それが、宮廷の歴史の中で見ると、内廷と外廷がある時期から分離し始めます。つまり、内向きと外向き、家政と国政の機能に分かれ、それぞれが拡大して行くという傾向をたどりました。そして、遷都を重ねながら、だんだん大きくなっていったというのがわが国の都の歴史のあらましであるといってよいと思います。

こうした傾向は、飛鳥京を離れて、藤原京が都になったときにはっきりしてきます。藤原京時代はすぐに終わりましたが、奈良盆地の一番北に都が移った平城京の段階では、「百官の府」というふうに言われ、たくさんの役所のある都になりました。いわゆる「二官八省一台五衛府」というような役所ができたのがこのときです。無論、天皇の居所である宮殿もつくられ、公の儀式の場で大極殿を正殿とする朝堂院などもできました。こういったことから、古代国家の中枢である都の規模、構造ができ上がったのが平城京であると思います。そこでこれを「百官の府」というような言い方をしているわけです。
京都市美術館 館長 村井 康彦氏