《渡来人たちの宴・外伝 その14》片山通夫

曽我氏一族

入鹿暗殺の現場跡 板蓋宮跡

石舞台の規模の墳墓を造成させるだけの権力を持っていたと思われる。 曽我氏は飛鳥にその本拠を置いて、曽我稲目から馬子、蝦夷そして入鹿と4代にわたって権勢をほしいままにした。ヤマト朝廷の最高位・大臣を務め、自分の娘を大王の期先として送り込み、そして生まれた子を次代の大王として即位させた。大王家の外戚としての地位を得、わが世の春を謳歌した。今のところ、石舞台は馬子の墓だと思われているが定かではない。

曽我氏の繁栄も長続きはしなかった。きっかけは入鹿が聖徳太子の子である山背大兄王一族を滅ぼしたことによる。この事件が大王家をないがしろにして、自らそれにとって代わろうとするものだとして、中大兄皇子(のちの天智天皇)や中臣鎌足(藤原氏の祖)らがひそかに蘇我本宗家滅亡を企てた。そして645年、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや:皇極天皇の宮殿)における三韓の義の席で、蘇我入鹿を暗殺した。100年にわたった曽我氏の繁栄は終わった。

ところで蘇我氏渡来人説というものがある。歴史学者の門脇禎二氏が1971年に蘇我氏渡来人説を提唱した。応神天皇の時代に渡来した百済の木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする説であるが、証拠不十分ということで現在では否定されているようだが無責任な筆者としては残念至極である。もしそれが事実だったら、この100年はまさに「渡来人たちの宴」だったろうにと思う次第である。