《渡来人たちの宴・外伝 その5》片山通夫

帰化人についての説明
 古代に海外から渡来して日本に住みついた人々,およびその子孫。平安時代以降もたえず少数の来住者があり,また近代には外国人が日本の国籍を取得することを法律上やはり帰化といっているが,来住者の数が多く,しかもそれが社会・文化の発展のうえでとくに大きな意味をもったのは,平安時代初頭までだったので,日本史上で帰化人といえば,主としてそのころまでの人々を指すのが普通である。現在では渡来人という呼称も用いられる。
改訂新版・世界大百科事典の帰化人の項目に詳しいのでその項目にリンクを貼っておきたい。

蛇足:毎日新聞から《麻生氏地元・福岡県飯塚市で開いた国政報告会で、「2000年にわたって同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝を保ち続けている国など世界中に日本しかない」と述べた。》
弥生時代、古墳時代などの渡来人の働きなどや現在のアイヌ民族に対する偏見を助長しかねないを発言と批判されよう。

 

《渡来人たちの宴・外伝 その4》片山通夫

氏姓制度が整備されつつあった古墳時代

氏姓制度(しせいせいど)は古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度。「 氏姓の制(ウヂ・カバネのせい)」ともいい、「氏・姓」を音読して「氏姓(しせい)」ともいう。 “《渡来人たちの宴・外伝 その4》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝 その3》片山通夫

韓国・霊岩にある王仁廟に立つ王仁像

さて王仁博士は有明海を渡って吉野ケ里遺跡付近に上陸したという。それではどこから来たのかに興味を覚えた。全羅南道霊岩(ヨンアム)郡に広大な土地を有する王仁廟がある。そこが王仁博士の生誕の地だ。王仁博士は応神天皇(実在が疑われている。第15代天皇・古墳時代)の招きで『論語』10巻と『千字文』1冊を携えてわが国に来た。同時に陶工やと瓦工など数多くの技術者を
連れていって文化を伝えたことから日本では飛鳥文化の始祖として尊敬されているとか…。

《渡来人たちの宴・外伝 その2》片山通夫

王仁博士上陸地

 謎に満ちた王仁博士だが、朝鮮半島からどこに上陸したのか筆者には謎だったが吉野ケ里遺跡を訪れた時に案内してくれた方が「王仁神社が近くにある」と案内してくれたことがあった。吉野ケ里遺跡に来た渡来人とともに有明海を通ってきたという推測はすぐに成りたつ。つまり吉野ケ里の邑のことは百済や新羅など朝鮮半島の国々にもよく知られていて、交流があったと思うわけである。

写真はその王仁神社(佐賀県)

《渡来人たちの宴・外伝 その1》片山通夫

大阪府枚方市にある「伝王仁墓」

【博士王仁を語ろう】

渡来人たちが我が国の文化、政治、経済などあらゆるジャンルで活躍したことは言うまでもない。言い換えれば古代の倭国を造った人々だったというわけだ。そんな中でよく知られた人物を紹介したい。王仁(生没年不詳)は儒教と千字文を日本に伝えた渡来人だと伝えられる。『日本書紀』によれば、王仁は、百済の使者・阿直岐(あちき)の推薦で応神天皇(第15代天皇)の皇子・莵道稚郎(うじのわきいらつこ)の教師として渡来し、諸々の書物を講じたとある。しかしながら人物の詳細については全くと言っていいほどつたえられていない。『古事記』によると、王仁吉師 (わにきし)は『論語』や『千字文』すなわち儒教思想や漢字の基礎を初めて日本にもたらしたとされている。こうした功績により、儒学が盛んになった江戸時代以降、王仁は学問の祖として崇められるようになった。 “《渡来人たちの宴・外伝 その1》片山通夫” の続きを読む

スサノオ追跡《そして渡来人たちの宴が始まった 下 》片山通夫

飛鳥大仏

ともあれ、魏志倭人伝の時代は我が国では弥生時代から古墳時代に移る過渡期。その後いまだに謎に満ちた邪馬台国をはじめとする小国家群が現れ、大和にヤマト王権が出現し、飛鳥文化の華が開く。この頃を詳しく見てみると、古代国家の成立過程で大陸や朝鮮半島からの文化や国家制度の伝来がヤマトから飛鳥時代・古代国家の成立への勢力争いが顕著にみられる。 “スサノオ追跡《そして渡来人たちの宴が始まった 下 》片山通夫” の続きを読む

スサノオ追跡《そして渡来人たちの宴が始まった 中 》片山通夫

魏志倭人伝

一方日本書紀によれば、スサノオは高天原で大暴れして追放されて「一書」では新羅の国へ降り立つという。しかしせっかく降り立った新羅の国を「自分のいるところではない」と出雲へ渡る。
新羅の人々からすれば風の又三郎のごとくに忽然と消えたわけだ。
又三郎の父は鉱山で働く人らしい。なんでもモリブデンの採取に従事しているようだ。
一方スサノオは朝鮮半島で鉄器を見た。馬を見た。おそらく様々な植物と一緒に鉄器の技術とそれに携わる人々、馬と乗馬技術なども我が国に伝えた、いやもしかしたら少なくともそれらの情報を持って帰ったのかもしれない。  “スサノオ追跡《そして渡来人たちの宴が始まった 中 》片山通夫” の続きを読む

スサノオ追跡《そして渡来人たちの宴が始まった 上 》片山通夫

 スサノオ追跡から始まって渡来人たちの宴まで、長いだけで脈絡も歴史的証拠もない話もいよいよ終わりになった。
イザナミとイザナギの間に生まれたスサノオはよく知られているように三男坊だった。筆者の偏見でいわせてもらえれば、三男坊は一言でいえばわがままである。甘やかされて育ったせいなのかもしれない。またスサノオのように末っ子の場合猫かわいがりされて育った可能性がある。
特にスサノオは乱暴であったようだ。亡くなったイザナミ、つまり「かーちゃん」に会いたいとわがまま三昧で、高天原で大暴れしたことは日本神話に詳しい。
特に天の斑馬(ふちこま)の皮を「逆剥ぎ(さかはぎ)」に剥がして、服屋(はたや)の屋根に穴をあけてそこから投げ入れたという話で服屋にいた服織女は驚き亡くなったと古事記にある。とんでもない男だ。思うにスサノオは理知的な姉・アマテラスとはかけ離れた存在だった。ガキ大将と学級委員長という役柄がぴったり。 “スサノオ追跡《そして渡来人たちの宴が始まった 上 》片山通夫” の続きを読む

神宿る。《揖屋神社・御神木 椎の木》片山通夫

黄泉の国との境・黄泉平坂

伊弉冉命(いざなみのみこと)を主神として祀る。『日本書紀』斉明天皇5年の条に「又、狗、死人の手臂を言屋社に噛み置けり。」とある「言屋社」、『出雲国風土記』意宇郡の条の在神祇官社「伊布夜社」、『延喜式神名帳』の出雲国意宇郡の「揖屋神社」に比定される。
記紀神話の神産みや大国主の神話に登場する黄泉の国、もしくは根の国(古事記では根之堅洲国)との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の比定地が当社の東方の揖屋町平賀にあり、石碑が建てられている。 “神宿る。《揖屋神社・御神木 椎の木》片山通夫” の続きを読む