再び《渡来人たちの宴・外伝17》片山通夫

曽我氏の台頭

曽我氏の始祖だといわれている宿禰から何代か経てヤマト政権の大王の外戚として歴史に登場するのは6世紀の初めころである。それまでは歴史に名を残していない。ゆえになのか曽我氏はもともと渡来人(高麗人)だという説もまことしやかに言い伝えられている。系図をたどってゆくと確かに「高麗」の文字が存在する。
いずれにしてもあの頃の歴史はわが国では詳らかではない。一方、同時代に物部氏という豪族がいた。常に曽我氏とは対立する。しかし物部氏と比べて曽我氏は渡来人の集団を支配し、当時わが国にはなかった技術や知識を彼らから得て、また仏教を尊び、大王に食いこみ物部氏を倒しヤマト朝廷での地位は確固たるものとなってゆく。先に述べたように大王家との姻戚関係を常に結ぶという政略結婚を繰り返し力を蓄えていた。

587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定し内乱を起こした。丁未の乱(ていびのらん)と呼ぶ。この乱の原因は表向き仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦ったと言われているが、実際は物部氏を滅ぼさんとした曽我氏の私闘だと筆者はみる。そしてその結果物部氏は討たれ衰退していった。