《渡来人たちの宴・外伝19》片山通夫

蘇我馬子(そがの うまこ)

曽我馬子

稲目の子。敏達天皇即位の年(572)、大臣となる。以後、用明・崇峻・推古の四代にわたり大臣職にあり、蘇我氏全盛時代を築いた。
仏教の信仰に篤く、敏達天皇代、富浦に日本最初の仏塔を造営した。仏教は次第に支配層に浸透し、用明天皇は三宝帰依を表明するに至るが、仏教反対派の物部守屋達は用明二年(587)馬子に対して軍を興し、馬子は泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)・厩戸皇子(聖徳太子)達と共に物部氏を討った。

崇峻五年(592)、崇峻天皇が武器を集めていることを知り、東漢直駒を使い天皇を暗殺した。推古天皇代には厩戸皇子が摂政に就き、息女の刀自古郎女を皇子に嫁がせた。推古四年(596)、法興寺(飛鳥寺)を完成。晩年、聖徳太子と共に「天皇記・国記」などを記す。推古三十四(626)五月、薨じ、桃原墓(石舞台古墳か)に葬られた。日本書紀に「性、武略有りて、亦弁才有り」とある。

以下は日本書紀巻二十二に載る、蘇我馬子が推古天皇に献ったと伝える歌である。

二十年の春正月の辛巳かのとのみの朔ついたち丁亥ひのとのゐに、置酒おほみきをめして群卿まへつきみたちに宴とよのあかりす。是の日に、大臣おほおみ、壽おほみさかづき上たてまつりて歌ひて曰く、

 やすみしし 我が大君の 隠かくります 天あまの八十光やそかげ 出いで立たす 御空みそらを見れば 万代よろづよに かくしもがも 千代ちよにも かくしもがも 畏かしこみて 仕つかへまつらむ 拝をろがみて 仕つかへまつらむ 歌献づきまつる

【通釈】国をお治めになる天皇陛下が、お休みになる、天上の広大な御殿。お姿をお見せになる、天空のように広大な宮殿を拝見すれば、万年もこのようにあってほしいと願います。千年もこのようにあってほしいと願います。ここで私は謹んでお仕え申し上げましょう。ひれ伏してお仕え申し上げましょう。かように私は歌を献上いたします

以上 WEBより転記
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/umako.html