LAPIZ2020冬号Vol.36《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

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伊藤詩織さん

 アメリカの大統領選は前副大統領のジョージ・バイデン氏が勝利しました。敗れた現職大統領のドナルド・トランプ氏は、「開票に不正があった」などとして法廷闘争による大逆転を狙っていますが、その悪あがきは世界中から冷笑をかっています。
トランプ氏の敗因はいろいろあるようです。新型コロナウイルスの感染力を軽視したことに加えて、ロシア疑惑、脱税疑惑など、彼につきまとううさん臭さに多くの人たちが嫌気をさしていました。セクハラ疑惑もその一つです。女性票が逃げていくのも当然のことでした
セクハラといえば、アメリカのタイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に、自らの性暴力被害を公表したジャーナリストの伊藤詩織さんが選ばれました。性被害を受けたことを公にした勇気と、それによって性暴力告発キャンペーン「♯MeToo運動」を後押ししたことが評価されたとみられています。

『Black Box ブラックボックス』(文藝春秋)の表紙

 私は、伊藤さんが著した『Black Box ブラックボックス』(文藝春秋)を読んでみました。加害者である著名なジャーナリストの卑劣な行為にヘドがでる思いがしました。警察は捜査に乗り出しましたが、加害者はトップの指示で逮捕を免れます。そこにある人物が陰にいたからなのです。伊藤さんの事件には、安倍晋三氏の長期政権の闇が暗い影を落としていたのです。

同書によると、事件の概要は以下の通りです。
ニューヨークの大学でジャーナリズムを学んでいた伊藤さんは2013年9月、山口敬之TBSワシントン支局長と知り合います。卒業を控え、日本に戻ってロイター通信日本支社とインターン契約をしてジャーナリストとして歩み出したものの、できることなら民放のアメリカの支社に正式に採用されたいと考えていました。そこで2015年3月、山口氏にあてて、ワシントン支局に空いているポジションはないかとメールで問い合わせます。4月3日、都内のすし店で山口氏に会います。伊藤さんはビールを2杯、ワインを1~2杯飲みました。1時間半後、別のすし店に移動。日本酒を2合飲みます。3合目を飲みだすと体の具合が悪くなり、トイレで突然頭がくらっとしました。そこで記憶はなくなります。
伊藤さんは激しい痛みで目を覚ましました。山口氏にのしかかられていたのです。山口氏が滞在しているホテルの部屋とわかり、出ていこうとすると山口氏に抵抗できないほどの強い力で体と頭をベッドに押さえつけられました。「殺される」と思った伊藤さん。裸のまま、こんな状態で発見されて報道されたときの母の泣いている顔が浮かびました。必死に抵抗し、とっさに英語で罵倒します。「Why the fuck do you do this to me(なんでこんなことするの)」(原文のまま)。
この英語について、伊藤さんは「女性が目上の男性に対して使える対等な(日本語の)抗議の言葉は、自然には私の口から出てこなかった。そもそも日本語には存在しなかったかもしれない」と書いています。「平等」が建前の日本の男女関係の本質的な矛盾をあるいは突いているのかもしれません。
妊娠していないか、との不安や悩みをかかえつつ、4月9日、原宿署に出かけます。事件から5日がたっていました。事件直後に110番すべきだったと後悔することになりますが、性被害に遭ったときの対応をほとんどの女性は教えられていないのです。さらに紆余曲折があって伊藤さんが高輪署に被害届と告訴状を提出したのは4月30日でした。
同署の柔道場で事件の再現が行われ、仰向けにさせられて大きな人形が載せられたうえ、「処女ですか?」ときかれます。「性犯罪の被害者が、このような屈辱に耐えなければならないとしたら、それは捜査システム、そして教育に問題があるはずだ」と伊藤さんはやるせない思いでした。

捜査のポイントは①行為があったか②合意の上かどうか――の2点です。性交そのものは山口氏も認めています。②については、全く意識が失った状態の伊藤さんをタクシーに乗せてホテルに連れ込んだことを運転手が証言しました。この結果、逮捕状もととのい、5月中に逮捕する手はずになっていました。ところが逮捕には上からストップがかかったのです。そして事件の担当は高輪署から警視庁捜査一課に移りました。
2015年8月26日、山口氏は準強姦罪で書類送検され、2016年1月、検事から事情聴取されました。この1カ月前、安倍晋三首相について書いた『総理』(幻冬舎)を上梓し、コメンテーターとしてテレビに登場していました。7月22日、検察は嫌疑不十分として不起訴処分にしました。
2017年になって「週刊新潮」が伊藤さんを取材し、5月18日号と5月25日号で取り上げました。そこには「TBSの記者を逮捕するのはオオゴトと、菅官房長官の秘書官として絶大な信頼を得てきた中村格刑事部長(当時)が隠蔽を指示した可能性が取り沙汰されてきた。民主党政権時代に官房長官秘書官を務め、(安倍政権で)留任させたところ、得意の危機管理能力を発揮し、将来の警察庁長官間違いなしとまで菅氏に評価されているという。中村刑事部長が、管轄署である高輪署の捜査を邪魔して逮捕状を握りつぶさなければ、山口氏を一躍スターダムに押し上げた『総理』の出版もなかった」と書かれています。
安倍首相、菅官房長官、その側近の官僚。モリカケ同様の構造が浮かびあがってきます。そこにジャーナリストが癒着する点については、検事総長候補の検事長と新聞記者が賭けマージャンをしていた事件を彷彿とさせます。伊藤さんの事件は安倍政権の黒いトグロによって闇に葬り去られようとしたのです。伊藤さんが黙って引き下がってしまうと、性犯罪そのものもまかり通させることになります。性被害者に泣き寝入りさせる政権に正義があるはずがありません。

伊藤さんは2017年5月29日、東京地裁内の司法記者クラブで会見し、犯された事実をありのままに語りました。性被害者が記者らの前で顔を出すのはほとんど例のないことです。しかし、「売名ではないか」と疑う者、家族の意向で名字を伏せたことから、「在日だから」と憶測する者など、思いがけない反応がネット上に流れたといいます。
伊藤さんはこの会見と前後して検察審議会に審査を申し立てますが、同年9月、不起訴を覆すだけの理由がないとして「不起訴相当」と議決。そこで9月28日、「望まない性行為で精神的苦痛を受けた」として1100万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こしました。山口氏は2019年2月、伊藤さんに対し、「社会的信用を奪われた」として慰謝料1億3000万円と謝罪広告を求める反訴を行いました。同年12月18日、東京地裁は「名誉棄損に当たらない」と山口氏の訴えを退けたうえで、330万円の支払いを命じました。
刑事ではうやむやにされましたが、民事裁判では伊藤さんの訴えが認められたのです。
しかし、漫画家のはすみとしこさんが2017年6月から2019年12月にかけて、ツイッターに伊藤さんとみられる女性を描いたイラストなど、誹謗中傷する投稿を行い、自民党の杉田水脈衆院議員が「いいね」と同調しました。はすみさんは2015年12月、シリア難民や在日韓国人とみられる人々を「私は難民様」「そうだ在日しよう!」などの言葉とともに描いた作品集を出版し、ヘイトスピーチに反対する団体から批判されました。水田議員は「新しい歴史教科書をつくる会」の理事を務める右派です。
はすみとしこさんのツイートに対し、伊藤さんは2020年6月、投稿の削除を求めて東京地裁に提訴しましたが、その後、水田議員が性暴力被害者の相談事業をめぐって「女性はいくらでもウソをつけます」と発言するなど、主に保守層からのバッシングがつづいています。安倍政権が長期化したなか、嫌韓意識をもつ人が増えたように思われます。在日韓国人・朝鮮人らに対する根強い差別が、SNSを通して陰険な形で顕在化してきているのです。
伊藤さんへのバッシングも同根でしよう。そこに菅官房長官の名が出てきたことは無視できません。安倍政権の継承を旗印に首相に就任した菅義偉氏の本質は女性に冷酷なのではないか、との疑念を拭えないからです。そこに、黒人に対して冷酷であるアメリカのトランプ大統領と同質の人権無視感覚が透けて見えます。
ところで、世界で最も影響力のある100人には、全米オープンテニスで優勝した大坂なおみ選手も選ばれました。彼女は試合会場に人種差別の抗議を表すマスクをつけて現れ、「ブラック・ライズ・マター(BLM=黒人の命は大事)」運動への強い後押しをしたことが評価されたのです。BLMの輪が反トランプの波となったことも、トランプ氏再選を阻む一要素になったと思われます。
本号では、「びえんと」で大坂選手が訴えようとしたことの意義を考えてみました。

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