LAPIZ2020冬号Vol.36びえんと《大坂選手がマスクに込めたBLM》Lapiz編集長 井上脩身

全米オープン試合会場にマスク姿で現れた大坂なおみ選手

大坂選手がマスクに込めたBLM
~差別助長のトランプ発言のなかで~

テニスの大坂なおみ選手が9月12日に行われた全米オープン女子シングルスで2度目の優勝を果たした。その快挙にもまして世界から喝采をあびたのは、黒人差別への抗議を表すマスクをつけてコートに現れたことだ。米誌タイムの「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたが、SNSには「黒人優遇運動をテニスに持ち込んだ」などと、彼女を批判する投稿も少なくない。女性差別、被差別部落への差別や在日韓国人・朝鮮人への民族差別などの従来からの差別に加えて、所得格差の拡大にともなう貧困者差別、国際化による黒人差別が日本でも大きな社会問題となってきている。差別の横行を放置してよいのか。大坂選手がマスクを通して問いかけたのは、多様な人々で構成される21世紀社会の中での、人としての在りようだと私は思う。

ジョージ・フロイドさんの首を足で押さえつける白人警官

パーカー着ると不審者扱い

大坂選手は1回戦から決勝まで7回戦った。そのつど、白人に銃撃されたりして被害に遭った黒人の名前入りマスクをつけたので、被害者名は7人になった。
被害者名と事件の概要は次の通りだ(9月15日付毎日新聞)。

(1回戦)ブレオナ・テーラー(女性)
2020年3月、薬物事件捜査の警官に自宅に踏み込まれて射殺。事件とは無関係とみられる。
(2回戦)エライジャ・マクレーン(男性)
2019年8月、買い物帰りに警官に押さえつけられ、病院で死亡。
(3回戦)アマード・アーベリー(男性)
2020年2月、ジョギング中に白人男性にトラックで追いかけ回されて射殺。
(4回戦)トレイボン・マーティン(男性)
2012年に自警団に射殺された高校生。「ブラック・ライブズ・マター(BLM=黒人の命は大事)」の始まり。
(準々決勝)ジョージ・フロイド(男性)
2020年5月にミネソタ州で警官に首を地面に押さえつけられ死亡。デモ拡大のきっかけに。
(準決勝)フィランド・キャスティル(男性)
2016年に警官に車の停止を命じられた後、取り調べ中に射殺。
(決勝)タミル・ライス(12歳少年)
2014年に銃所持の少年がいるとの通報で駆け付けた警官から発砲され死亡。手にしていたのはエアガン。
以上の7事件のうち最も古いトレイボン・マーティンさんの事件について大坂選手は「彼の死はとても鮮明に覚えている。当時私は子どもで、ただ恐怖を感じた。不審者に見えると思われたくないため、私は数年間フード付きパーカーを着なかった。私には起きていることに目を開かされた出来事だった」とSNSにつづった。8年前といえば大坂選手は14歳。被害に遭った17歳の少年と同じフロリダ州の中学生だった。ハイチ出身の父と、日本人の母との間に生まれたテニスの天才少女は、黒人の女性であるという自分自身を見つめていくこととなる。

黒人差別事件として最も強烈な印象を世界中に焼き付けたのはジョージ・フロイドさんの事件であろう。ミネソタ州ミネアポリスで白人警官が太い足で、地べたに横たわる被害者の首根っこを押さえつけて締め、息ができなくしている映像が世界中に流れ、人を人とも思わない警官の残忍さが人々の心を凍らせた。大坂選手は「自分の身に起こったことでないからといって、何も起こってないわけでない」とつぶやいたという。傍観者であってはいけないという自覚である。折しもアメリカは新型コロナウイルス感染が爆発的に拡大していた。このとき、全米オープンには被害者の名前入りマスクで出る、と決めたのかもしれない。

銃殺犯人が無罪に

アリシア・ガーザーという女性の公民権活動家がいる。彼女はトレイボン・マーティンさんの事件の殺害犯、ジョージ・ジマーマンが無罪になったことに衝撃を受けた。
前項でも触れたように、大坂選手がパーカーを着ないようにした事件であり、かつBLM運動のきっかけとなった事件でもある。ここでは少し掘り下げておきたい。
事件が起きたのはフロリダ州サンフォードの住宅団地(白人49%、ヒスパニック23%、黒人20%、アジア系5%など)。この団地の見回り役をヒスパニック系混血のジマーマンがつとめており、2009年11月から銃の所持が認められていた。2012年2月26日午後7時過ぎ、「近所で住居侵入があり、とても怪しい男がいる」と警察に通報。さらにマーティンさんの名をあげて「黒いようなグレーのようなパーカーを着ている」「あいつが走りだした」などと告げて電話を切った。その後ほどなく、ジマーマンはタウンハウスの裏口付近でマーティンさんを見つけ、銃で発砲した。
ジマーマンは警察で5時間尋問を受けたのみで、「正当防衛でないことを示す証拠がない」として釈放された。フロリダ州の正当防衛法(スタンド・ユア・グラウンド法)では、警察による逮捕は禁じられており、警察署長は「正当防衛の権利を持っていた」と述べた。
ジマーマンの公判は2013年6月10日に行われ、同年7月13日、陪審裁判で第二級 殺人について無罪が言い渡された。
ガーザーさんはこの判決を知って、フェースブックに「黒人の人たちへ。私は、あなたたちを愛しています。私たちを愛しています。私たちの命は大切です。黒人の命は大切です(Our Lives Matter, Black Lives Matter)」と投稿した。
ガーザーさんと親しい南カリフォルニアのパトリス・カラーズさんがこの投稿に、#blacklivesmatterというハシュタグを付け加えた。パトリスさんは当時「黒人収監者の尊厳と権利を訴える」という仕事に取り掛かっており、ガーザーさんのひと言に大いに共鳴したのだ。
ジマーマンの無罪にショックを受けていた、ニューヨークで移民たちのオーガナイザーをしているオパール・トメティさんがガーザーさんの言葉に共感した。「はっきりと黒人の立場からの愛に根差したメッセージであり、そこに希望に満ちたものを感じた」というトメティさんは、まだ会ったことがないガーザーさんにすぐに連絡した。
こうして、3人が協力し合い、7月中に「ブラック・ライブズ・マター・グローバル・ネットワーク」を立ち上げた。
2014年、セントルイス近郊の都市、ファガーソンでマイケル・ブラウン、ニューヨークでエリック・ガーナーという二人のアフリカ系アメリカ人の死亡を受けて抗議の街頭デモが繰り広げられたのを機に、2016年にかけて、全米に30以上の地方支部をもつ全国的なネットワークへと広がった。
2020年のジョージ・フロイドさんの事件を受けて、BLM抗議行動に1500万~2600万人が参加、全米を揺り動かす大きなうねりとなり、世界的に注目をあびた。イギリスでは、奴隷貿易に関わった人物の銅像が引き倒され、東京、大阪、名古屋でも街頭デモが行われた。
大坂選手も「私はアスリートである前に黒人女性」としてBLMへ運動への支持を積極的に呼びかけ、デモにも参加したという(9月14日付毎日新聞)。

暴走警官後押しの大統領

BLMー運動が広がるなか、今年8月、ウイスコン州で黒人男性が白人警官に銃撃される事件が起きた。全米オープンの前哨戦で準決勝まで勝ち上がってきた大坂選手が抗議のために棄権をしたことから、日本でも大きなニュースになった。ことほどさように、アメリカでの黒人差別問題の根は深い。
1860年の大統領選で奴隷制反対を訴えたリンカーンが当選した後、南北戦争を経て憲法修正条項13条(奴隷制の禁止)、14条(法の平等の保護と適正手続きの保障)、15条(投票権の保障)により、奴隷制度は廃止された。さらに1964年の公民権法の制定により、人種差別が撤廃された。
しかし実態は差別撤廃とはほど遠いものだった。2017年の米国勢調査局の調査によると、連邦政府が定めた貧困ライン(18歳未満の子どもが2人いる4人家族で年収2万4858ドル以下)未満の人口割合(貧困率)は、白人の8・7%に対して、黒人は21・2%だった。求人広告に黒人に多い名前で応募すると、連絡がもらえる確率が50%低くなるといわれ、安定した収入が得られないことが、教育水準の低下、就職機会の減少になり、さらに貧困化をまねくという悪循環に陥る。
こうした所得格差は黒人に対する差別、偏見によるものであることは言うまでもないが、その差別意識に凝り固まっているのが警官だ。2019年、アメリカの警官は1098人を死亡させた。このうち黒人は24%。黒人の人口は13%しかなく、人口比にして2倍近い危険性を負っているのだ。2014年7月17日、タバコの違法販売の疑いで拘束されたエリック・ガーナーさんは、白人警官に首を絞められ、「息ができない」と11回訴えたあと死亡したが、警官は起訴されなかった。2018年9月6日、自宅でくつろいでいたボッサム・ジーンさんは、白人警官の発砲で死亡。警官は「自宅と間違えて入った」と供述した。こうした例は枚挙にいとまがなく、大坂選手は「7枚のマスクでは亡くなった人の数に足りない」と嘆いた。
こうした白人警官の暴走を後押ししているのがドナルド・トランプ大統領である。
今年8月25日、ウィスコンシン州ケノーシャで行われた抗議デモに対し、17歳の白人少年が発砲、2人が死亡する事件が起きた。トランプ大統領は記者団に「少年は逃げようとしていたが、転んでしまい、周囲にいた人から激しい暴力を受けていたように見える」と、少年の発砲が正当防衛であるかのような言い回しをした。
この事件から4日後の8月29日、オレゴン州ポートランドで、治安維持に当たる警察を支援するトランプ大統領支持グループが車列を組んで市内を行進中、反対派と衝突。直後に銃撃が起き、白人男性が死亡した。この白人の帽子についていたバッジなどから極右団体の関係者であることが判明。トランプ大統領は「偉大な愛国者」とツイート。さらに翌日、BLM運動に理解を示す民主党の首長を「過激左翼」と批判するツイートを投稿。この運動について「極左勢力や無政府主義者に支配されている」と根拠のない言辞を弄し、バイデン候補を「地下室に籠り、犯罪行為を糾弾しようともしない」と攻撃した。
以上に見られるトランプ氏の白人至上主義が黒人差別の精神風土をつくり出していることは論を待たない。それが、人種的分断を生み出し、所得格差を拡大させる原因になっていることも明らかである。
アメリカ人は4年前の大統領選で大きな誤りをおかしたのである。

2020年6月14日、東京・渋谷で黒人差別抗議デモが行われた。デモに参加したコンゴ出身の父と日本人の母の間に生まれた男性(23)はNHKの取材に対し、「日本国籍をもっているのに、見た目で差別を受けてきた」と答えた。「肌色」とラベルされたクレヨンで自画像を描いていると、「あなたのは肌色でない」などと差別的な言葉を投げつけられたという。
こうした差別意識は、戦後の日米関係のなかで、アメリカ人の価値観が日本人に浸透したためといわれる。単にそれだけとは思えないが、トランプ的黒人蔑視観は決して日本人とは無縁といえない。それだけに大統領選の結果は今後の日本人の意識構造に微妙に影響するのは必至であった。
巻頭言でも触れたように、トランプ氏は敗れた。法廷闘争などさまざまな手段を弄して大統領の座にしがみつこうとしているが、混乱にじょうじて選挙を無効にするという目論見が通る可能性はほとんどない。彼が悪あがきをすればするほど、「差別者トランプ」の実像を世界にさらすことになろう。その映像を通して、差別は世界が許さない、という意識を持つ人が増えるのではないか。そうたやすいものでないことは重々承知しているが、トランプ後の世界に希望を持ちたいのである。