日本は島国です。いくつかの大きな島と多くの小さな島が日本列島を作り、文化を伝えあいながらそれぞれの社会を作ってきました。島は“外世界”からの情報を受けて“内世界”に伝え、同時に中央権力の政策や社会の大きなうねりに翻弄されてきました。小さな島の歴史はあまり知られていませんが、そこには日本の歴史の痕跡がくっきりと残っています。島は日本社会を映す“鏡”であり、「島を見ると日本がわかる」のです。島での“できごと”から「この国はどんな国か」「この国をどういう国にするか」考えてみましょう。
[日本の島できごと事典(その1)]旧石器人発見
日本列島に人はいつ頃から住み始めたのでしょうか。島根県出雲市の遺跡からは約12万年前の前期旧石器が、岩手県遠野市の遺跡からは8〜9万年前の中期旧石器が発見されているそうです。3万8,000年前の遺跡は全国各地にあるので、いずれにしても旧石器時代から人がいたことは確かです。
2007年(平成19年)、沖縄県の石垣島から国内で初めて旧石器時代の墓域が発見され、約2万7千年前の全身骨格の人骨が発掘されました。全身人骨としては国内最古で、旧石器時代の人骨発掘としては世界的にも最大級のものです。生前の顔がデジタル復元され、模型も公開されました。復元像は私のおじさんにも同級生の顔にも見えます。DNAも採取され、東南アジアなど南方から北上してきた人類とみられています。沖縄島では約3万2,000年前の山下洞人や約2万2,000年前の港川人、宮古島では約2万5,800~2万6,800年前のピンザアブ洞人などの化石人骨が出ています。
まずは、島が「隔絶された場所」ではなく、太古から海に乗り出す民が住む「開かれた場所」であったことを知ってください。
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[日本の島できごと事典(その2)]大和朝廷入朝
616年(推古天皇24年)、『日本書紀』によると「掖玖人(夜勾人)」計30人が3回にわたって大和に「帰化」あるいは「来之」したとあります。その後も掖玖人の記述があり、629年(舒明天皇元年)には大和朝廷が田部連らを掖玖に遣わしたことが書かれています。7世紀末までは“ヤク”の呼称は漠然と南島一般を指していたようで、これ以降は「多禰(種子島)」「掖玖(屋久島)」「阿麻弥・菴美(奄美)」「度感(徳之島)」「球美(久米島)」「信覚(石垣島)」と地域を限定した言い方になっていきます。
大和朝廷は南西諸島全域を律令国家に組み入れようと「南島」という言葉を使うようになり、692年(持統天皇6年)には武器を持った朝廷の使者8人を南島に派遣しています。8世紀初めまでに度感や信覚、球美が新たに入朝しており、ほぼ南島全域に朝廷の支配が及ぶようになりました。735年(天平7年)には遣唐使の航路整備のために南島に使者を遣わし、島名・船の停泊地・水場・往来の行程などを明示した札を立てるよう命じています。しかしその後、遣唐使の廃止(894年)や律令制の崩壊に伴い、朝廷の南島統治は後退したようです。