宿場町シリーズ《西国街道・芥川宿 上》文・写真 井上脩身

+1

「七卿落ち」の最初の宿
~仇討ち舞台での不安な一夜~

「七卿落ち」の様子を描いた絵(ウィキペディアより)

私はいま、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読んでいる。岩倉使節団が欧米視察にでかけた留守政府を預かる公卿、三条実美が頼りない宰相としてえがかれているのが興味深い。三条は幕末、7人の公卿、公家が京から長州に落ち延びたいわゆる「七卿落ち」の一人である。その三条らが京を出立した後、最初の一夜を芥川宿で過ごしたことを最近知った。西国街道の芥川宿は、大阪府高槻市のほぼ中央に位置する。私は実は高槻の出身で、一時、芥川地区で暮らしたことがある。恥ずかしいことに、通勤の道のすぐ近くに芥川宿があったと知ったのは随分後のことだ。この秋の一日、芥川宿をたずねた。そこは江戸文学を彩る二つの仇討ち事件の現場でもあった。大名から巡礼の旅人まで

西国街道の江戸時代の名称は「山崎通(やまざきみち)」。京・伏見宿から山崎(京都府大山崎町)、芥川、郡山(茨木市)、瀬川(箕面市)、昆陽(伊丹市)を経て西宮に至る約42キロメートルを指す。京と西国を結ぶ道として平安時代から利用され、織田信長の時代、芥川宿に近い高槻城の城主がキリシタン大名の高山右近であったこともあり、宣教師たちの入洛路にもなった。豊臣秀吉の朝鮮出兵にさいして、その派兵路になったとの伝承から、「唐街道」の別称もある。
慶長10(1605)年の「摂津国絵図(写真)」の芥川村に「宿」の文字が見え、一里塚も描かれている。しかし、五街道(東海道、中山道、奥州街道、日光街道、甲州街道)などの本街道ではない山崎通では、宿場としては公認されなかった。
芥川宿が宿駅として成立するのは、寛永12(1635)年の武家諸法度制定に基づく参勤交代が制度化されたことによる。伏見から淀川沿いに大坂に至る本街道に比べて距離が短いことや、淀川の水害を避けられることなどから、西国の大名も利用。郡山宿の本陣(椿の本陣)に残る308枚の大名関札によって文政4(1821)年、中国、四国、九州の3分の1の大名が通過したことが判明。やはり同本陣の史料によって、月平均2回、大名行列が通っており、東隣の芥川宿でも参勤交代の列は珍しくなかったはずだ。

宿場を貫く山崎通

加えて、芥川宿から北に向かえば能勢方面に出られるほか、芥川から舟で枚方を経て淀川を下れば大坂に向かえるという利便性もあり、西国88カ所巡礼の旅人らも宿泊するようになった。いわゆる木賃宿が少なくなかったといわれている。
芥川宿の東端(京都側)がはっきりしない。JR高槻駅から北に徒歩5分のところに上宮天満宮の鳥居がある。同神社はここから5分ほど上った高台にあるが、この鳥居のあたりがほぼ東端であろう。宿場は天満宮下から西に進んで、西端の芥川をわたる芥川橋まで約1キロの間である。このほぼ中間に「芥川仇討の辻」という説明板がたっている。1977年に地元の郷土史研究会が作成したというから、私が芥川に住んでいたころにできたのだ。
冒頭に述べたように、芥川宿では二つの仇討ち事件があった。これを調べる過程で、三条実美ら7人が都落ちするさいに、芥川宿に泊まったことを知ったのである。

天神の森の新田原藤太

嘉永6(1853)年、ペリーが率いた黒船が浦賀に来航したことから幕末の動乱が始まる。幕府は安政元(1854)年、日米和親条約を調印、さらに同5(1858)年には日米修好通商条約の調印に踏み切り、鎖国から開国へと180度カジを切った。これに対し尊攘派が猛反発し、長州を中心に倒幕の嵐を起こす。これに対し、公武合体派が巻き返しをはかり、藩主が京都守護職である会津藩と薩摩藩が提携、文久3(1863)年8月18日、尊攘派排撃のクーデターを断行。「八月十八日の政変」と呼ばれ、三条実美、三条西季知の二人の公卿と東久世通禧ら5人の公家が失脚した。
19日未明、7人は白羽二重に紫袴、蓑笠という旅装で、伏見からまず芥川宿をめざした。朝から降っていた雨は大降りになり、ぬかるんだ泥道をずぶぬれになって進む。7人を護衛するのは腹巻き甲冑、筒袖陣羽織に抜き身の槍を手にした長州藩兵。その先頭は久坂玄瑞である。
7人は慣れないワラジばきだ。三条と三条西は途中からカゴに乗ったといわれるが、5人の公家は傷みで悲鳴をあげたことであろう。尊王の思いが人一倍強い久坂玄瑞にいたわられながらの都落ちだった。ようやく天神の森に着いた。芥川宿の入り口である。
彼らはが天神の森が仇討ちの舞台であると知っていたかどうか。
井原西鶴の『武道伝来記』に、「新田原藤太 百足枕神に立事」という説話のような物語がる。
鹿児島城中の書院の宿直に沖浪大助が当たっていたとき、突然天井に物音がして、黒い物が落ちてきた。沖浪が脇差で抜き打ちすると、40センチのムカデが真っ二つになった。沖浪が「古今居合の名人」と自画自賛したことが家中に広がり、重役の南郷主膳に「田原藤田殿」と揶揄された。田原藤太は『今昔物語集』に出ている、ムカデ退治の伝説で有名な平安中期の武将だ。沖浪は主膳宅にのりこんで主膳を討ち、いずこへともなく逐電。
主膳の一子、16歳の善太郎は敵討ちの旅に出る。4、5年がたって阿波にいたとき、夢のなかに大ムカデが現れ、「敵は摂津の国古曽部(古曽部)という所にあり」と告げる。善太郎がめざす古曽部の家に尋ねると、出産中の女性がいた。彼女は「つれあいは7カ月前に果てた」という。主膳には19歳の息子大七がいる。善太郎は「大七を討てば敵の種は尽きる」と考え、天神の森で名を名乗って大七を討ち果たした。
この物語に出てくる古曽部は芥川宿のすぐ東の地区だ。ここに京大の古曽部農場があり、小学校6年生のとき、学校から写生に行ったことがある。このなかから数点が高槻市のコンクールに出されることになったが、私の絵は選ばれなかった。クラスメートは「井上のはなぜダメなのか」と先生に尋ねると、「暗い絵だ」という。
なぜ暗い絵を描いたのだろう。陽気に振る舞っていたけれど、心の中は暗かったのだろうか。心の中の暗さという点では、7人の公卿、公家たちは明日の我が身も知れず、お先真っ暗な思いだったにちがいない。
天神の森が上宮天満宮を指すことはほぼ間違いない。毎年冬に大祭があり、「天神さんのお祭り」と呼ばれ、子ども時分の私の楽しみの一つだった。神社の周りは鬱蒼と森が広がり、チョウチョ取りをしたこともある。天神といえば同神社以外にあり得ないのだ。
『武道伝来記』にはほかに、阿波・蜂須賀藩士による仇討ちもあるが、研究者は芥川宿の仇討ちも含めて、史実とは認めていない。宿場内の説明板「芥川仇討の辻」にも、新田原藤太の仇討ちのことは全く触れていない。(続く)

+1