冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 4》片山通夫

それでは各地のアイヌ民族を紹介しよう。ただし樺太アイヌについては、別途紹介する。アムール河口へ交易に行っていたらしい。

カムチャツカアイヌ
「カムチャツカ・クリル」として知られる。1706年にロシア帝国に敗北したことに加えて天然痘が流行した事により、現在では民族集団としては消滅している。現在では後述の北千島アイヌ、もしくはイテリメン族に同化している。18世紀のロシアの探検家の記録が最後である[1]。

北千島アイヌ
「クリル」として知られる。千島列島は1875年に樺太・千島交換条約が締結されるまではロシア帝国の統治下であった。大多数は占守島に、他は幌筵島に少数居住し、1860年段階で人口は221人であった。彼らはロシア式の名前を名乗り、流暢なロシア語を話し、ロシア正教を信仰していた。日本領になってからは100人以上のアイヌがロシア人と共にカムチャツカに移住した。最近では100人近くがウスチ・ボリシェレツキー地区(英語版)に居住している。日本の統治下に留まった集団は第二次世界大戦後、大部分が北海道に移り住み、公的に存在が知られていた田中キヌが1973年に北海道で亡くなり、日本における北千島アイヌの存在は公的な場に登場することはなくなったが、各地に子孫が存在すると推測される。

南千島アイヌ
18世紀時点では国後島、択捉島、得撫島を中心に約2,000人が居住していたが1884年には500人前後まで減少した。1941年には太平洋戦争開戦に伴い50人(大部分が混血)が北海道に避難した。現在は6人がロシアに居住している。

アムールアイヌ
ブロニスワフ・ピウスツキの調査によると、20世紀初頭に数人がロシア人もしくはウリチ人と結婚していた。1926年のソ連の国勢調査ではニコラエフスキー地区に純血は26人しかおらず、多くはスラブ系民族の中に同化したと考えられる[5]。今日ではハバロフスク地方で自らをアイヌと定義する者はほとんどいないが、ウリチ人の相当数がアイヌの血を引き継いでいる。

北樺太アイヌ
1926年の国勢調査では北サハリン州に純血は5人だけであった。ブロニスワフ・ピウスツキの調査によると、大部分の樺太アイヌは1875年に北海道に移住させられ、樺太に留まったごく少数のアイヌはロシア人と結婚したものと考えられる。民族集団としては消滅したが、アイヌの血を引き継いだ人は現在もいると考えられる。