連載コラム・日本の島できごと事典 その14《笹森儀助》渡辺幸重

笹森儀助

島のために尽くした人は数多くいますが、私が一番に思い浮かべる人は、笹森儀助(ささもり・ぎすけ)(1845-1915)です。儀助は「(幕末・明治・大正時代の)探検家・政治家・実業家」と紹介されますが、私の印象では“社会活動家”です。
儀助は青森県弘前市に生まれ、弘前藩・青森県に勤めたあと1892年に千島列島探索に加わって『千島探験』を著します。1893(明治26)年から1898年までの5年間が南島(琉球列島)に関わった時期ですが、交通が不便な時代にハブやマラリヤが恐れられた地域に入り、現地のために奔走し、貴重な記録を残す大事業をやってのけています。まず、1893年5月に沖縄島に着いた儀助は慶良間諸島・宮古島・石垣島・西表島・与那国島をまわり、帰る途中にも与論島・沖永良部島・徳之島・奄美大島にも立ち寄りました。このときの記録が1894年発行の『南嶋探験』です。さらにこの年から1898年まで奄美大島の島司をつとめ、その間にトカラ列島を視察し、『拾島状況録』という書にまとめました。
井上馨内務大臣から国内製糖の振興のため南島の糖業拡大の可能性を探るよう依頼されて始めたことでしたが、現実をストレートにとらえ、社会の矛盾をえぐりだし、政府批判を含めて提言し、自身も改革に取り組んだ儀助に私は畏敬の念を抱きます。宮古島や石垣島では過酷な人頭税や身分制度に苦しむ住民の姿を直視し、人頭税を廃止すべきとして宮古島の人頭税廃止運動にも影響を与えました。一方で旧支配者層である士族たちが豊かな生活を送る社会矛盾を指摘しています。奄美大島では黒糖の売買権を鹿児島の商人が独占し、島民が困窮にあえいでいることなどを記録し、請われて大島島司にもなったのです。
あの時代に命がけで南の島々を回って調査報告をし、社会を変える活動をダイナミックに進めた生き方は感動的です。蝙蝠傘をさし、尻をはしょった儀助の写真を見る度に私も血がたぎる思いがするのです。儀助はその後、青森市長などもつとめました。