あれから10年《国民主権を実態化するにはやはり“選挙”しかない》渡辺幸重

東日本大震災・福島原発事故10年」に思うこと

火事や土砂崩れなどの災害現場から逃げる群衆と逆方向に、現場に向かって走るのがジャーナリストの習性です。10年前の東日本大震災。原発事故にショックを受けた私は3年間、原発の周辺をうろうろしました。ボランティアもせず、何の役にも立たないことに後ろめたさを感じながらでしたが、現場の姿を脳裏に焼き付け、記録することが自分の役目、と無理に言い聞かせました。いまでも忘れないのは福島駅の前の下水溝に線量計を近づけたときのことです。甲高い音で「ピーッ」と警戒音が鳴り響きました。私は一瞬、体が凍り付き、思考停止に陥りました。放射線量が異常に高いことは確かで、“死の予感”さえしました。ジャーナリストは常に冷静に、と自分を諫め、線量計の警戒レベルの設定値を上げて音がしないようにしました。いま思えば、私はアラームのレベルを上げず、ずっと警戒音を鳴らし続けておくべきでした。原発事故以来、日本国民は原発に対する警戒心のレベルを意図的に緩和し、原発をなし崩し的に許容する方向に向かっているように思います。「原発は危険」「原発とは共生できない」から「原発は地域振興のための必要悪」「原発の弊害には目をつぶろう」「二酸化炭素削減の国際公約を守るために原発は必要」というように。私自身もその波の中に巻き込まれそうで怖い気がします。いまこそアラームを鳴り響かせなければなりません。

元凶は「民主主義を破壊し、国民主権をないがしろにする政治」

1995年1月17日の阪神淡路大震災を経験した友人は「人生観が変わった」「価値観がひっくりかえった」と言いました。2011年3月11日の東日本大震災のときにも同じような声を聞きました。私は阪神淡路大震災で西日本の人たちは“人間”が変わり、東日本大震災で東日本の人たちも深層心理が置き換わり、これからは「金や物よりも命や心が大事」「ぎすぎすした競争社会よりも助け合うやさしい社会を」という考えが主流になると感じました。ボランティア活動や脱原発運動なども盛んになりました。ドイツでは建設途中の原発建設を中止し、台湾でも原発ゼロを宣言しました。しかし、その後の日本は歴史修正主義の安倍政権が長期化し、国民の間の格差が拡大し、脱原発の議論さえせず、管政権になっても国民無視の政治が続いています。日本政府は、コロナ禍で国民が苦しんでいるにもかかわらず、“自助”を掲げて国民に“新しい生活様式(自己防衛)”を押しつけるばかりで、患者を助ける医療体制の充実も、つぶれそうな中小零細業者への徹底した支援策もやりそうにありません。一方、防衛費は増えるばかり。米国から高価な武器を買い、国内では大企業に武器開発をさせ、南西諸島に自衛隊基地を建設してミサイル網を敷き、辺野古新基地建設を進めるという大判振る舞いをやっているのです。基地建設資料を請求しても、森友・加計学園問題で情報公開を求めても黒塗り資料ばかりで内容はわからず、官僚は人事権でがんじがらめにされる秘密政治・強権政治が横行しています。「武器輸出(禁止)三原則」を「防衛装備移転三原則」に変えて武器を輸出し、「安保法制(戦争法)」を「平和安全法制」と言い換えて日米軍事同盟を強化し、「専守防衛」を堅持すると言いつつ矛盾する「敵地攻撃能力」を整備する欺瞞を堂々とやってのけています。小学生にもわかる「戦争放棄・戦力不保持」を謳った日本国憲法を勝手に解釈して軍隊(自衛隊)をつくった国ですから、“何でもあり”なのかもしれません。暗澹たる気持ちになることばかりですが、すべては民主主義を破壊し、国民主権をないがしろにするという共通した問題から発生しているといえます。

選挙で「与党候補者はどんなにいい人でも落とす」の覚悟を持つ

私は原発事故のあと、民主党政権の下で「原発ゼロ政策」が決まると思っていました。ドイツや台湾よりも早く「脱原発の基本方針」を決めることはできたはずでした。しかし、現在に至っても福島原発事故の真相は解明されず、責任は曖昧なままで、廃炉作業や使用済み核燃料処分などほとんどの問題が解決しないまま原発再稼働が進もうとしています。脱原発や核兵器反対、夫婦別姓など、国民の多くが望んでいる政策が進まないのは、必要なときに客観的な調査や情報の整理をして国民的議論を行い、長期的な政策や原則に関して「決定」を重ねるということをしないからです。国民的議論のためには、政府を監視し、情報を公開させる第三者機関が必要です。また、権力をチェックするメディアの責任も重大です。『週刊文春』に頼るだけの状態は異常です。当然ながら国民的な運動も必要です。原発事故後、毎週金曜日に東京・首相官邸前で抗議行動を呼びかけてきた首都圏反原発連合は今年3月末で活動を中止するようですが、このような運動は全国各地で繰り返し行われることでしょう。そして、何より重要なのは選挙で国民の意思をはっきり示すことです。これまで個別のテーマでは政府に反対という国民の意思は出ていても、選挙では結局自民党政権ということを繰り返してきました。しかし、今回はあらゆる問題が自民党政権の民主主義破壊・国民主権無視ということに起因しています。「自民党候補者はどんなにいい人でも落とす」という姿勢が求められます。それが政党政治というものです。管首相の息子の接待事件で明らかになったように中央政治は“ムラ社会”のなれ合いです。国民までもが“ムラ社会”のしがらみで投票してはなりません。ムラ社会には功罪があり、“功”の部分についてはいずれ述べますが、「民はモノを言うな」という“罪”の部分を払拭する投票行動をしなければ、この国のあまりにもひどい国民無視政策は変わらないでしょう。政治家に“白紙委任”をしてはなりません。憲法に謳われる主権者としての権利をきちんと執行することが平和憲法を守ることにもなると肝に銘じたいと思います。