あれから10年《東日本大震災》中務敦行

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気仙沼

東日本大震災から10年がすぎた。2月11日から宮城県気仙沼市を訪ねた。夕方、現地に着いて、旅館に入ると廊下で目を引いたのはふたつの柱時計。正確には時計だったものである。(写真左)

左側には東日本大震災に襲われた時刻、右の時計は津波が押し寄せた時刻を指している。

海に近いこの宿は流されることはなかったが、再建されて新しくなっている。翌朝、街を歩いた。すぐ隣には新しい集合住宅が建てられており、すぐ傍には「・・女子高校の跡地」という表示板がかかっている。今はそこには学校はない。

海岸近くを回る。空き地を転用した駐車場があちこちにある。港には観光客向けの施設が工事の真っ最中。山の上にあるホテルに上がるエレベーターの入り口には津波の高さを示す目印が示されている。地上2mを超えている。

 

建物につけられた津波の高さの表示板

私がこの町を知ったのは米軍のトモダチ作戦を知ったからだ。この地は海に面した漁業の町で、市の港外に今は橋でつながっている大島がある。そこには小中学校があり、3000人あまりの人が住んでいた。10年前は島に住む人の足はフェリーだけだった。地震が起きたとき、島の人の多くは本土で仕事をしていた。島にいたのは中学生以下の子供と高齢者が大部分だった。

島は水道が出なくなり、飲み水にもこと欠いた。中学生たちは男子が水をくんだり、重いものを運び、女子は食料作りに励んだ。島と陸を結ぶフェリーは津波によって陸に打ち上げられ、重油のタンクが破損して重油が流れでて、海は燃え上がった。本土側に残った大人たちは島へ帰ることもできなかった。当時のことを「中学生がいなかったらどうなったんだろう」とお年寄りたちはいう。

港近くは駐車場など更地が目立つ.

3月13日米空母「ロナルド・レーガン」は太平洋上で韓国との合同苦連に向かっていたが、大震災の情報を得てトム・バーク艦長は司令官と相談、急遽被災地に向かい仙台沖に到着した。船団から出た上陸用舟艇から繰り出された米海兵隊員と島民との交流が始まった。

やっと着いた救援の手は、陸からではなく海からだった。そしてアメリカの海兵隊がきたのだ」。

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